朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

いやし、休ませ、回復させよう

2016-06-29 22:03:06 | 聖書から
わたしは彼の道を見た。

  わたしは彼をいやし、休ませ、

    慰めをもって彼を回復させよう。イザヤ書57:18




 12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。

そして、多くの悪霊を追い出し、

油を塗って多くの病人をいやした。マルコ6:12~13




      (ローズンゲン日々の聖句6/30;木)




 天の神、主から、「われわれが一つになっているように、われわれの一つに加わり、われわれの一つを表わすものを」と願われて造られて私たち人間(創世記1:26)。




 天の神、主と一つであることよりも、もっと素晴らしい者になろうと思って、天の神、主との一つを捨て、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になった」人間の始祖アダム(創世記3:5~6、22)。




 私たちは、その性質を遺伝として受け継いでいるようですね。

その「神のひとりのようになろうとし、善悪を知る者」となっている私たちの行く道は、ただ、「むさぼり」と「そむき」、「自分の思う道を行く」ばかりなのだそうです。




 天の神、主は、その、むさぼるばかり、そむくばかりの私たちの道を充分に、よく見たうえで、私たちをいやそうとおっしゃって下さっているのだそうです。




「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。

わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから」、




「わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう」(イザヤ57:16、18)と。







 天の神、主は、その私たちを赦すために、御子である方を人間イエスとして人の世に生まれさせ、私たちすべての人間の身代わりとして立て、私たち人間のそのそむきの罪の全部を御子イエスの上に置いて、十字架刑で処刑したのだそうです。




 それで、受け入れる者は、罪の全部を、処刑済みの手続きをしていただけるのだそうです。




 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、受け入れる者の心に、「父である神」が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを置いてくださるので、受け入れる者は、その部分において、「父である神」と同じ思いを思う者、一つ心になっている者としていただけるのだそうです。




 イエスが言われた、「イエスと父である神とが一つであるように、受け入れる者が、イエスと父である神と一つになる」(ヨハネ17:21~23)とのイエスの言葉が実現するのだそうです。







 「父である神」のお心と一つ心になっている者は、「父である神」がそうしようと思われるとき、そのお心のとおりに、悪霊を追い出し、病人をいやす者ともなるのだそうですね。

イエスの12使徒たちがそうであったように。

今日も。


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実りの季節を与え、食べて満足し、心が喜びで満ちるようにと

2016-06-29 08:43:08 | 聖書から
あなたは食べて満足し、
  あなたの神、主をたたえなさい。申命記8:10 

 神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。
恵みをくださり、
天からの雨を降らせて実りの季節を与え、
食物を施して、
あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。使徒14:17

      (ローズンゲン日々の聖句6/29;水)

 過ぎ去った時代には、天の神、主は、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられたのだそうです。
 それでも、自分のことをあかししないでおられたのではなく、恵みをもって、天からの雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、人々の心を満たしてくださっていたのだそうです。

 私たち人間は、この方を無視し、自分の力でこれを得たのだと思い、自分を誇りたい者のようです。
 
 けれども、今は、今までのそのようなむなしい生き方を捨て、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神を認め、この方に立ち返り、この良い地を賜った天の神、主に感謝し、ほめたたえる者になるよう、招いていてくださるのだそうです。

 この方は、私たちひとりひとりを喜びで満たそうと計画していてくださるのだそうですから。
今日も。
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心騒ぐなかにあって、動かない平安を

2016-06-28 07:09:24 | 聖書から
あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、
  平和のうちに導かれて行く。イザヤ書55:12

 わたしは、平和をあなたがたに残し、
わたしの平和を与える。
 わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。
おびえるな。ヨハネ14:27

      (ローズンゲン日々の聖句6/28;火)

 世が与える平安、それは平穏無事による平安なのでしょうね。
けれども、イエスが「わたしの平安」と呼ばれる、イエスが与えてくださる平安は、どんな状況の中にあっても揺るがない平安なのだそうです。

 心騒がせる、恐れに満たされる、おびえるしかない状況の中にあって、なお、心の深みにある平安なのだそうです。

 これは、最後の晩餐と呼ばれる、イエスが弟子たちと共に過ごす最後の夕食の席、イエスは、今夜、捕らえられ、明日には十字架刑での処刑に向かっていかれる、その最後の夕食の席で弟子たちに語られた言葉なのだそうです。

 師と仰ぎ、この方こそ王として立ち、イスラエルのダビデの王国を再建してくださる方、その時、自分たちもそれぞれ、ふさわしい立場を与えてもらえると考えていた男の弟子たち。
それなのに、そのイエスが捕らえられ、処刑されてしまう。

 その、驚天動地の中にあって、なお、心の奥底にある平安、それを与えるとイエスは言われるのですね。


 さらに、イエスは言われます。わたしは去っていくけれど、わたしが父のもとに帰ったら、わたしは父にお願いします。
そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです(ヨハネ14:16)。

 助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます(ヨハネ14:26)と。

 この方、「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださるとき、受け入れる者は、どのような心騒ぎ、おびえる状況の中にあっても、この方が一緒にいてくださる平安、
この方によって、「父である神」と呼ばれる方が自分に対して思っておられる御思いが心に来て、「父である神」と一つ思いになっている平安がある者にしていただけるのだそうです。

 それで、この方と共に歩む者は、喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれていくのだそうです。
今日も。
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心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして愛する者にと

2016-06-27 07:13:12 | 聖書から
主の慈しみに生きる人はすべて、

  主を愛せよ。詩編31:24




 「神は唯一である。

ほかに神はない」とおっしゃったのは、本当です。

そして、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、

また隣人を自分のように愛する」ということは、

どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。マルコ12:32~33




      (ローズンゲン日々の聖句6/27;月)




 イエスと律法学者との問答です。

人間が神とした、神々と呼ばれるものは多くありますが、

人間の住まいとして、この天地、宇宙、地球とその自然界を創造し、

人間を造られた方は唯一なのですね。

ほかにはいない。




 そして、この方が、ご自身が造られた私たち人間を、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして愛してくださっているのだそうです。

 それで、この方と心を一つにし、思いを同じくする者も、この方を、そして、お互い同士を、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして愛するようになるのだそうです。




 永遠の初めから父である神と共におられ、父である神と共に、この天地創造、人間の創造を共になさった方、御子である神と呼ばれる方が、ご自身が造られた人間を救うため、すべての人間の身代わりとなり、すべての人間のそむきの罪をご自身に背負われるため、「女の子孫」(創世記3:15)として、ダビデ王の家系であった貧しい一人の処女、マリアの胎を通し、人間イエスとして、あのベツレヘムで生まれ、ナザレ村で育たれたのだそうです。




 このイエスが、およそ30歳の頃、メシヤ(キリスト、救い主)として立たれ、3年半にわたって、神の国を宣べ伝え、病人をいやし、悪霊を追い出されたのだそうです。

そして、自分の命を差し出し、すべての人の、すべての罪を背負って十字架刑での処刑を受け、呪われた者として天と地との間に高く掲げられてくださったのだそうです。




 それで、これを受け取り、すべてのそむきの罪を処罰済み、死刑が終わったものと手続きしていただいた者には、もう一人の方、聖である霊と呼ばれる方が来てくださって、受け入れる者の心に父である神が一人一人に思っていてくださる御思いを置いてくださるようになるのだそうです。




 受け入れる者は、この部分において、父である神と一つ心、同じ思いを持つようにしていただけるのだそうです。




 それで、そむく思いばかりしか起こらない私たちにも、神を愛し、まわりの人を愛する思いが来るようにもなるのだそうですね。




 ちょうど、「十字架刑で処刑したあのイエスが復活した。モーセの律法を守れない者も、イエスの恵みだけで救われる」などという教えはとんでもないものだ。根絶しなければならないとイエスの弟子たちを捕え、殺そうと息をはずませていたユダヤ人サウロが、復活されたイエスに出会い、イエスに派遣されて、今度は、ぶっ潰そうとしていたそのイエスの復活を、何度も殺されそうになりながら宣べ伝える者に、イエスの使徒パウロに変えられていったように(ガラテヤ1:13~24)。




 天の神、主は、受け入れる者の心を一新し、ご自身と心を一つにし、思いを同じくする者にしてくださるのだそうです(ロマ12:1~2)。

今日も。


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「わたしはあなたを祝福する。あなたは祝福となる。」

2016-06-26 08:13:55 | 聖書から
あなたがたは、

  恵みにより、信仰によって救われました。

 このことは、神の賜物です。エフェソ2:8(6/26の週の聖句)




 恐れてはならない。

わたしはあなたと共にいる。

わたしはあなたを祝福する。創世記26:24




 議員や他の者たちは、

ペトロとヨハネの大胆な態度を見、

しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、

また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。使徒4:13




      (ローズンゲン日々の聖句6/26;日)




 紀元前2000年頃のこと、天の神、主は、カルデヤのウルにいたひとりの人、アブラハムを選び出し、アブラハムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と言われたのだそうです。




 それで、アブラハムは、天の神、主がお告げになったとおりに、往く所を知らないまま、出かけたのだそうです(創世記12:1~4新改訳)。




 そして、外国に寄留しているような状態が続いている、アブラハムの息子、イサクにも、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに」と声をかけられたのだそうです(創世記26:24)




 この「祝福となり、すべての民族があなたによって祝福される」という「祝福の器」としての選びは、その子孫たちのそむき、離反によっても変更されることなく続き、この時からおよそ2000年後の、ナザレ出身のあのイエスが十字架刑での処刑を受け取り、墓に葬られ、三日目に墓より復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示されたうえで、オリーブ山において、弟子たちの見ている前で上げられ、雲に包まれて見えなくなったこと、




 そして、イエスが、「わたしが天の父の右の座に帰ったら、あなたがたにもう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣します」との約束のとおりに(ヨハネ14:16)、10日後の五旬節(ペンテコステ)、「律法授与」の記念日に、約束に従って待ち望んでいた120人ばかりの弟子たち一人一人に、「聖である霊」と呼ばれる方が来られたことで完成したのだそうです。




「見よ。その日が来る。 ――主のみ告げ―― 

その日、わたしはイスラエルjの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

わたしはわたしの律法(御思い)を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」(エレミヤ31:31~33)と、預言者エレミヤを立てて預言し、

「わたしは、あなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

わたしの霊をあなたがたのうちに授け、あたしのおきて(御思い)に従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(エゼキエル36:25~27)と、預言者エゼキエルをとおして預言されていた、その新しい契約が。




 すると、今まで、自分たちも、イエスの弟子だということで捕えられ、投獄されるのではないかと恐れ、隠れていた弟子たちが、大胆に、「50日前に、あなたがたが十字架に架けて殺したあのイエスを、神はよみがえらされました」と、特に、聖書の勉強をしたこともなく、手元に聖書があるわけでもないのに、聖書に書いてある預言者の言葉を引用して語り出したのだそうです(使徒2章)。

「聖である霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる、「父である神」と呼ばれる方の御思いのとおりに。




 この時以来、「あなたは祝福となり、すべての民族はあなたによって祝福される」との祝福の約束は、血統によるアブラハムの子孫だけにとどまらず、約束とは何の関係もなかった私たち異邦人にもおよび、受け入れる者は、「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族」としていただけて(エペソ2章)、天の神、主の御思いのとおりに、周りの人を祝福するために用いていただけるのだそうです。

この新しい週も。





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