朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

人が、自分の子を訓練するように

2016-09-24 07:45:05 | 聖書から
あなたは、

  人が自分の子を訓練するように、

    あなたの神、主があなたを訓練されることを

      心に留めなさい。申命記8:5




 私たちの主、

救い主イエス・キリストの恵みと知識において、

成長しなさい。Ⅱペテロ3:18




 マタイ14:22~33

 エレミヤ書30:1~3、31:1~14

      (ローズンゲン日々の聖句9/24;土)




 近年は、子どもを思ったとおりにさせることがその子の能力を伸ばすことだとの考えで、訓練とか、叱るとかいうことをあまりしない傾向があるのかもしれませんが、訓練は必要なことのようですね。




 天の神、主、「わたしはあるという者」と言われる方も、私たちを、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長して欲しいと願って、ご自分の民を訓練なさる方なのだそうです。




 エジプトの奴隷状態から脱出し、40年荒野を旅し、いよいよ、約束の地に入ろうとする、イスラエルの民に、モーセは言ったのだそうです。




 「私が、きょう、あなたがたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。




 あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。

それは、あなたがたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。




それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのでない、人は主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

この40年の間、あなたの着物は擦り切れず、あなたの足は、はれなかった。

あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。




 気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。

あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方を忘れることがないように」(申命記8:1~14新改訳)と。







 けれども、イスラエルの民は、強くなり、豊かになったとき、この神、主とともに歩むよりも、自分の思う通りに生きることを選び、自分の思うままに他の神々を慕って、はずれて行ったのだそうです。

天の神、主は、何度も預言者を遣わし、ご自分に帰って来るよう呼びかけたのですが、民は聞こうとせず、これ以上放置するなら本当に滅ぼしてしまわなければならないところまで来てしまったのだそうです。




 それで、天の神、主は、バビロンの王、ネブカデネザルを用いて、民を打たれるのですが、そのとき、なんの期待もできない民に対して、ご自分の側の一方的な働きにおいて、民を回復するとの預言を語られたのだそうです。




 「イスラエルの神、主、『わたしはあるという者』と名乗られる方はこう仰せられる。

『わたしがあなたに語ったことばはをみな、書物に書きしるせ。

見よ。その日が来る。――主のみ告げ――




 その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにすると、主は言う。

わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。

 その時、――主のみ告げ――

わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。』




 主、「わたしはあるという者」と名乗られる方はこう仰せられる。

『剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。

イスラエルよ。出て行って休みを得よ。』

主は遠くから、私に現れた。

『永遠の愛ももって、わたしはあなたを愛した。

それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

おとめイスラエルよ。

わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。

再びあなたはタンバリンで身を飾り、

喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。

再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、

植える者たちは植えて、その実を食べることができる。

エフライムの山では見張る者たちが、

「さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう」と呼ばわる日が来るからだ。』




 まことに主はこう仰せられる。

『見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、

地の果てから彼らを集める。

その中には目の見えない者も足のなえた者も、妊婦も産婦もともにいる。

彼らは大集団をなして、ここに帰る。

彼らは泣きながらやって来る。

わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。

わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、

彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。

わたしはイスラエルの父となろう。

エフライムはわたしの長子だから。』 




 諸国の民よ。主の言葉を聞け。

遠くの島々に告げ知らせて言え。

『イスラエルを散らした者がこれを集め、

牧者が群れを飼うように、これを守る』と。

主はヤコブを贖い、

ヤコブよりも強い者の手から、これを買い戻されたからだ。

彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、

穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、

羊の子、牛の子とに対する主の恵みに喜び輝く。

彼らのたましいは潤った園のようになり、

もう再び、しぼむことはない。

そのとき、若い女は躍って楽しみ、若い男も年寄りもともに楽しむ。

『わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。

わたしの民は、わたしの恵みで満ち足りる。

――主のみ告げ――』」(エレミヤ30:1~3、31:1~14)と。







 天の神、主は、私たちを訓練されるのですね。

私たちを幸せにし、

ご自身と思いを一つにし、心を一つにする者として私たちを成長させるために。




 水の上を歩いたペテロが、風を見てこわくなり、沈みかけたように、私たちも訓練の中で沈んでしまいそうな時がありますが、そのようなときも、ペテロが「主よ。助けてください」と叫び、イエスはすぐに手を伸ばし、ペテロの手をつかんで助けてくださったように(マタイ14:22~33)、

イエスは私たちの手をつかんで助け、目的の港まで運んでくださるのだそうですから。

今日も。





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イエスと同じ思いが、心に来て

2016-09-21 23:03:37 | 聖書から
私は弟の番人でしょうか。創世記4:9




 めいめい自分のことだけでなく、

他人のことにも注意を払いなさい。フィリピ書2:4




 使徒5:34~42

 エレミヤ書28:1~17

       (ローズンゲン日々の聖句9/22;木)




 カインは、弟アベルのささげ物が神に受け入れられ、自分の自信作のささげ物が受け入れられなかったので、怒り、弟アベルを野に誘い出し、アベルに打ちかかって殺したのだそうです。




 そして、神から「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と尋ねられると、

「知りません。私は弟の番人なのでしょうか」とつっぱねたのだそうです(創世記4:1~9)。




 イエスは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。




 人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、

実に十字架の死にまでも父である神に従われました(ピリピ2:6~8)。







 神と心を一つにするあり方を捨て、自分が神のひとりのようになり、善悪を判断する者になっているアダムの子孫である私たちは、このカインのようです。

自分の理性を神とし、その善悪の判断をそのまま、他に押しつけ、実行して行こうとする者。

他の人のことを顧みることをしない者です。




イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)私自身である「生まれたときからの私」という霊を処刑されたものとしていただき、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方によって「父である神」と呼ばれる方の私たちひとり一人に思っていてくださる御思いを心に置いていただくなら、私たちもイエスと同じ心になれ、励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わり、愛情とあわれみをがあり、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合せ、志を一つにし、何事も自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うにしていただけるのだそうです。







 この約束のことばは確実なのだそうです。

エレミヤの預言に対抗して、自分の思いで、

「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。

わたしは、バビロンの王のくびきを打ち砕く。

2年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカデネザルがこの所から取って、バビロンに運んだ主の宮のすべての器をこの所に帰らせる。

 バビロンに行ったエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの所に帰らせる」

と預言したアズルの子ハナヌヤ。




 これに対して、天の神、主はエレミヤを通して言われたのだそうです。

「ハナヌヤ。聞きなさい。

主はあなたを遣わされなかった。

あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。

それゆえ、主はこう仰せられる。

『見よ。わたしはあなたを地の表から追い出す。

ことし、あなたは死ぬ。

主への反逆をそそのかしたからだ』」と。

そして、預言者ハナヌヤはその年の第7の月に死んだのだそうです(エレミヤ28:1~17新改訳)。







 十字架刑で処刑され、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に納められ、三日目、日曜日の早朝、復活されたイエス。




 40日の間、弟子たちに現れて神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを示されたのだそうです。




 そして、「エルサレムから離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。

ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを

受けるからです」と言い残して天の父の右の座に帰られたのですね(使徒1:3~11)。




 その10日後、五旬節(ペンテコステ、50日目の祭り)の日に、約束の「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださって、弟子たちは、この方が話させでくださるとおりに話すようになったのだそうです。




 それで、弟子たちが、エルサレムのど真ん中で、「あなたがたが50日前に、十字架に架けて殺したイエスは復活されました」と大胆に話し出したので、多くの人がイエスを受け入れ、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えすることになったのだそうです。(使徒2:1~42)。




 それで、イエスを十字架につけた側の人たちは、弟子たちを捕まえて殺そうとしたのです。

が、その時、すべての人に尊敬されている律法学者の、カマリエルと言う人が言ったのだそうです。

「イスラエルの皆さん。この人たちをどう扱うか、よく気をつけてください。

というのは、先ごろチュダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、

彼に従った男の数が400人ほどありましたが、

結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。




 その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしましました。




 そこで今、あの人たちから手を引き、放っておきなさい。

もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。

しかし、もし神から出たものならば、あなたがたは彼らを滅ぼすことはできないでしょう。

もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます」と。

それで、弟子たちをむち打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡して釈放したのだそうですが。弟子たちは、イエスの御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜び、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリスト(神の子・救い主)であることを宣べ伝え続けたのだそうです(使徒5:34~42)。





 そのときから2000年を経た今、このイエスによる素晴らしいニュースは世界中に伝わり、

聖書は、2009年現在、2479の言語に翻訳されているように。




 必ず実現する神の言葉、確実な約束の言葉、

「聖である霊」と呼ばれる方によって、私たちも、

イエスと同じ思いを心に置いていただけるのだそうですから。

今日も。

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私の行く道をご存知の方が

2016-09-21 07:42:24 | 聖書から
私の霊がなえ果てているとき、
  私がどのような道に行こうとするか、
    あなたはご存知です。詩編142:4

 慰めを豊かに下さる神がほめたたえられますように。
神はあらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、
私たちも神からいただくこの慰めによって、
あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。Ⅱコリント1:3~4

 ルカ7:1~10
 エレミヤ26:1~19
      (ローズンゲン日々の聖句9/21;水)

 行こうとする先に、困難や、反対する者、迫害する者、わなを仕掛ける者があって、霊がなえ果て、衰え果てるときがあります。

 エレミヤは、天の神、主、「わたしはある」という者だと名乗られる方から遣わされて、その方が語れと言われたとおりをエルサレムの民に語ったのだそうです。

 「主はこう仰せられる。
主の宮に立ち、主の宮に礼拝に来るユダの町の者に、私があなたに語れと命じたことばを残らず語れ。
一言も省くな。
 彼らがそれを聞いて、それぞれの悪の道から立ち返るかもしれない。
そうすれば、わたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。

 だから彼らに言え。
『主はこう仰せられる。
もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、
あなたの前に置いたわたしの律法に歩まず、
わたしがあなたがたに早くからたびたび送っているわたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら、
――あなたがたは聞かなかった―― 
わたしはこの宮をシロのようにし、この町を地の万国の呪いとする。』」と。

 エレミヤがこのことばを主の宮で語っているのを聞いて、祭司と預言者とすべての民は、エレミヤを捕らえ、「あなたは必ず死ななければならない。なぜ、主の御名により、この宮がシロのようになり、この町もだれも住む者のいない廃墟となると言って預言したのか」とエレミヤを攻撃したのだそうです。


 使徒パウロも、イエスを「神の子、キリスト。死から最初によみがえり、私たちを罪と死から救ってくださる方」と伝えることで多くの迫害を受け、いのちさえも危うくなり、死を覚悟するような目に遭う中で、このように、「神はあらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さる方」と経験していったのだそうです。


 カペナウムでのこと、
ローマ軍の百人隊長は、自分のしもべが病気で死にかけていたので、ユダヤ人の長老たち、友人たちを送って、しもべを助けてくださるよう、イエスに願ったのだそうです。

 「主よ。わざわざおいでくださいませんように。
あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。
ただ、おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士がいまして、
そのひとりに、『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。
また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします」と。

 これを聞いて、イエスは驚かれ、
ついて来た群衆に、「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言われ、
使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていたのだそうです(ルカ7:1~10)。

 この百人隊長は、イエスを、
命じれば、死にかけていた病気さえもそのことばに従う権威をもっている方と認めていたのですね。

 天の神、主「わたしはある」という者と言われる方は、百人隊長の願いを聞き入れ、しもべの病気を治してくださったように、困難の中にあって、敵対者によって霊がなえ果て、衰え果てている者を慰めて下さる方、私が行こうとする道をご存知の方なのだそうです。

 「聖である霊」と呼ばれる方により心に来る、この方の御思いの中に出て行き、御業の現れを見、慰めをいただくのですね。私たち。
今日も。
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私の頭に香油を注ぎ、私の杯をあふれさせ

2016-09-20 08:31:19 | 聖書から
私の敵を前にしてもあなたを私に食卓を整えて下さる。
  私の頭に香油を注ぎ
    私の杯を溢れさせて下さる。詩編23:5

 イエスがハンセン病シモ ンの食卓につかれた時、
女がナルドの香油壺を持って来て壊し、
イエスの頭に注いだ。
無駄遣いだと憤慨する人たちにイエスは
「するままにさせておけ。良い事をしてくれたのだ」と言われた。ルコ14:3、4、6 

 ヤコブ書1:1~13
 エレミヤ書25:1~14
      (ローズンゲン日々の聖句9/20;火)

 天の神、主、「わたしはある」という者と名乗られる方。
「父」である神と呼ばれる方、「御子」である神と呼ばれる方、「聖である霊」と呼ばれる方は、
それぞれ、全知であり、全能であり、永遠・不変の方なのだそうです。

 そうでありながら、それぞれが自分の思った道を行く方ではなく、
愛し合い、お互いを大切に思い合っておられる方。

 それで、機械的にでもなく、「そうあるべきだから」ということでもなく、
自由意思で、自分から進んで、「父」である神は、「御子」である方、「聖である霊」と呼ばれる方に自分の思いのすべてを明かしておられ、「御子」である方、「聖である霊」と呼ばれる方は、「父」への愛と尊敬のゆえに、「父」である方の御思いがなることを喜びとし、自分の存在意義としておられ、「父」である方の御思いのとおりに行動しておられる、
思いを「一つ」にし、心を「一つ」にし、行動を「一つ」にし、存在を「一つ」にしておられる方なのだそうです(ヨハネ8:28、10:30、12:50、14:31,16:14)。


 そして、天の神、主、「わたしはある」と名乗られる方は、その、愛のゆえに、自由意思で、自発的に、「一つ」になっている関係に加わり、その「一つ」になっている関係を具現するもの、具体的に見える形で表すものがもっと欲しいと願われて、私たち、人間を造ろうと思われ、私たち人間を造ってくださったのだそうです(創世記1:26)。


 けれども、最初の人、アダムとエバは、天の神、主との「一つ」になっている関係に留まることをせず、もっと素晴らしい者に、「神のひとりようになり、善悪を知るようになろう」としたのだそうです(創世記3:5、22)。
自分の理性を神とし、自分の理性の善悪の判断のとおりを実現しようとする者に。

 それで、アダムとエバの関係も、愛し合い、「一つ」になっている関係から、失敗の責任を相手になすりつけ合い、妻は夫を情にからめて自分の思うとおりに動かそうとし、夫も妻を支配しようとする関係が始まり、今日に至っているのだそうです(創世記3:16)。


 神の民として選ばれ、「あなたの仰せられたことはみな行い、聞き従います」と応えて神の民となる契約を結んだイスラエルの民(出エジプト24:7)。

 しかし、彼らも「神のひとりのようになり、善悪を知るようになろう」とした者の子孫であることから逃れることはできなかったようです。
エレミヤが預言しているとおりに。

 「この23年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。
また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。

 主は仰せられた。『さあ、おのおの、悪の道から、あなたがたの悪い行いから立ち返り、主があなたがたと先祖たちに与えた土地で、いつまでも、とこしえに住め。
ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。あなたがたの手で造った物によって、わたしの怒りを引き起こしてはならない。そうでないと、わたしはあなたがたにわざわいを与える。

 それでも、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。――主の御告げ――。』
それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。――主の御告げ―― すなわち、わたしのしもべバビロンの王メブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。

 これらの国々はバビロンの王に70年仕える。70年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、――主の御告げ―― またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする(エレミヤ25:3~12)と。


 けれども、天の神、主、「わたしはある」という者と名乗られる方は、最初の、人間創造の目的を放棄されることなく、「御子」であるの方のいのちを贖(あがな)いの代価として支払って人間のそむきの罪を赦し、
この赦しを受け取った者の、「善悪を知る者」になっている、「生まれた時からの霊」を処刑済みとして手続してくださって、新たに、受け入れる者に「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、ご自身の、私たちひとりひとりに思っておられる御思いを受け入れる者の心に置いてくださって、受け入れる者が、「生まれた時からの霊」から来る思いによって打はなく、「聖である霊」と呼ばれる方から来る、ご自身の御思いによって生きるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。


 この新しい生き方をいただいていく者に、天の神、主は、ダビデが詩編23篇でうたっているように、敵の前、大きな困難の中であっても、食事をととのえ、頭に油をそそいで、溢れるようにしてくださり、いのちの日の限り、いつくしみと恵みで包んでくださり、いつも、「一つになっている」、一緒にいる喜びで満たしてくださるのだそうです。


 たしかに、この世にあっては困難なことがあります。
しかし、試練により、信仰がためされ、忍耐が生じ、それによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者にしていただけるのだそうです。
知恵に欠けた出来事に出会うとき、神に願っていくなら、惜しげもなく、とがめることなく与えていただき、
貧しい境遇にある人は、与えていただいている高い身分を誇りとし、
富んでいる人は、草の花のように過ぎ去っていく富に頼まず、自分が低くされたことを誇りとし、
試練に耐え抜いて、神を愛する者、神と思いを一つにして歩む者に約束された、いのちの冠を受けるよう、運んでいただけるのだそうです(ヤコブ1:3~12)。

 ベタニヤのマリヤが、自分の宝物であるナルドの香油を、壺ごと、イエスの頭に注ぎ、足に塗り、イエスに喜ばれたように感謝をささげながら。
今日も。
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「主は私たちの正義」と呼ばれる方が

2016-09-19 07:54:23 | 聖書から
私の舌があなたの正しさを歌い、

  絶えることなくあなたを賛美しますように。詩編35:28




 ハンナは、断食したり祈ったりして夜も昼も神に仕えていた。

彼女は近づいて来て神を賛美し、

エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に

幼子のことを話した。ルカ2:37~38




 ヘブル書11:1~10

 エレミヤ書23:1~8

      (ローズンゲン日々の聖句9/19;月)




 今から2600年ほど前のこと、

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

「善悪を知る者」(創世記3:5、22)として自分の思う道を行き、暴虐を満たし、ご自分に聞こうとしない自分の民を、バビロンの王、ネブカデネザルを用いて打たれようとするとき、預言者エレミヤを通して言っておられるのだそうす。




 「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。――主のみ告げ――」

それゆえ、イスラエルの神、主、「わたしはある」と名乗る方は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。

「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。

見よ。わたしは、あなたがたの悪い行いを罰する。――主のみ告げ――




 しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが負い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増えよう。




 わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。

彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。――主のみ告げ――




 見よ。その日が来る。

――主のみ告げ――

その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。

彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。

その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。

その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう。




 それゆえ、見よ、このような日が来る。

――主のみ告げ――

その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主、「わたしはあるという者」と言われる方は生きておられる』とはもう言わないで、

『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主、「わたしはあるという者」と言われる方は生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる」(エレミヤ23:1~8)と。







 そして、2000年ほど前のこと、

生後41日目のイエスを、モーセの律法に従って主にささげるためにエルサレム神殿に連れて来た両親の前に、女預言者ハンナも来て、幼子イエスのことをエルサレムの贖(あがな)いを待ち望んでいる人々に語ったのだそうです(ルカ2:36~38)。







 2年前、ウクライナとロシアとの間で勃発した戦争は今も続いていて、東ウクライナでは、強制失踪、恣意的な拘束、拷問、虐待が日常茶万事となる中、ウクライナでも、反ユダヤ主義が勢いを増し、経済危機や情勢不安、戦争などをユダヤ人のせいにする中傷が公然とまかり通り、多くのウクライナ系ユダヤ人が、せめて子どもたちだけでもと、イスラエルへの帰還を切望しているのだそうです(「オリーブラフ2016年10月号〔ブリジッス・フォー・ピース〕。」




 私たち、この世界が神のことばで造られたこと、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟り、創造主である神がおられること、神を求める者には報いてくださる方であることを信じて、「正義の王が来られる」という約束のことばの実現するときを待ち望み、賛美しながら、この方の御思いの中へと進むのですね。

今日も。


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