NPO法人 三千里鐵道 

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風になろう!-ソウル市長選に想う

2011年09月29日 | NPO三千里鐵道ニュース
ぼくは今、10.26ソウル市長選に非常な関心を寄せている。

先日民主党競選でパク・ヨンソン氏が選出されたとき、あるサイトが「組織のヨンソンか、風のウォンスンか」とタイトルをつけ報じた。
一般論として「組織」とは垣根であり壁。人、想い、モノを囲う指向を追求する。勢い遮られた想いは、淀み変質する。最近の韓国進歩陣営を代表する3党が統合を目指したが、最初に民主労働党と進歩党が破綻し、イ・ジョンヒ氏率いるミンノ党が国民参与党との統合を党として拒否、否決した。
組織を統合することは、もう不可能に近いと、国民は嘆いている。

10月3日、野圏3名の統一候補選出を争う。色々な取引や駆け引きがあったようだが、とりあえず歓迎したい。
願わくば、ソウル市民の民意を代表する市長選出を! そのためにアン・チョルスが退き、ハン・ミョンスクが快く支援を約束した。
組織もない、金もない市民運動家に、ソウル市民は法定選挙資金50数億ウォンを呼びかけ始めて52時間で目標額を集め、彼に託した。これは奇跡だ。そして、これはソウルに吹いた民心の風だ。

在日も両組織のハザマで、敵対し躊躇し疎遠になった混濁の中から、先日名古屋において「投票2012」が産声を上げた。在日の想いを乗せた風になろうと!
「垣根」は風を遮ろうとする。しかし在日の積年の想いは風となり、民の心と心をつなぎ、壁にできた綻びを吹き抜け、互いに呼応し、やがて玄界灘を渡るであろう!

風になろう、風になろう、風になろう! N

写真説明ー補足

2011年09月29日 | 南北関係関連消息
★この写真は三千里鉄道10周年記念誌に寄せられた故人の祝賀メッセージに添えられていた。
統一ニュースに載ったアメリカ在住ハン・ホソク氏(米統一問題研究所代表)の追悼文に、この写真にまつわるエピソードが…。その部分だけ訳してみた。
時は1995年、金日成主席一周忌に日本を経て強行訪北、亡き夫・ムン牧師の宿泊した部屋でピョンヤン最後の夜を過ごしながらの一幕だ。



平壌に行く時は,チョン・ギョンモ先生と同行したが、ソウルに帰る時はパク・ヨンギル長老一人で板門店軍事境界線を越えなければならなかった。

部屋の中に流れた沈黙を破って、パク・ヨンギル長老が私たちに同行する人はいないかと、尋ねた。
恐らく1989年夏イム・スギョン全大協代表が平壌で開かれた第13次世界青年学生祝典に参加した後、板門店軍事境界線を越えて南側に帰る時、ムン・キュヒョン神父が同行したことを記憶してのことであったろう。

しかし、パク・ヨンギル長老と同行する勇士は、私たちの中からはでなかった。

平壌を離れてニューヨークに戻る私の心は重かった。
板門店軍事境界線を一人で越え逮捕されるパク・ヨンギル長老に、何の助けを差しのべることなく、帰る私の無力さを恥ずかしく思いながら…。

それから20日余りが経ったある日、私はニューヨークの我が家で郵便配達された日刊紙<ハンギョレ>の写真に釘付けになった。1995年8月1日<ハンギョレ>に載った報道写真一枚が、私をひきつけた。 その報道写真の中には、簡素な服を着た顔なじみのおばあさん1人が、板門店軍事境界線を踏んで両手を上にあげ何か叫んでいた。

写真には解説記事など一行もなくて、
“平和統一万歳!”という六字だけが添えられていた。


追悼ー10周年記念への祝辞

2011年09月28日 | NPO三千里鐵道ニュース

三千里鐡道結成10周年、おめでとうございます。

       ポムキル・朴容吉

10年という長い歳月の間、高い山を越えて深い海を渡り、7千万民族と平和統一の志を共にしてきた三千里鐡道の努力に、感謝と連帯の挨拶を送ります。

6.15南北共同声明の精神を奉じる三千里鐡道の平和に向けた意志は、民族の統一のために今日を生きる私たちの終始一貫した心と同じです。

これからも三千里鐡道と共に歩んで行きます。


追悼ー詩・手のひらの温もり

2011年09月27日 | NPO三千里鐵道ニュース
★事務所に飾られている詩を再掲します。夢切符に「平壌行きの切符を出せ」と叫ぶ文益煥牧師の雄姿、そして表題の詩を優しい字体で書き私たちに残してくれた朴容吉長老の書が、いつも私たちを見つめている。
金正日国防委員長の弔電が、葬儀委員会宛てに届いたそうだ。(統一ニュース)
…ご冥福をお祈りいたします。N



これ 誰の手…
闇の中をまさぐる
手が手を握る
握られた手が握った手を握りかえす
握られた手が握った手を信じる
握った手が握られた手を信じる
二つの手のひらは温かい
人情が行きかい
心と心が信じる
真っ暗な心に露がひかり
明日があけてくる

      1998年
         ヌッポム・文益煥
         ポムキル・朴容吉






  
    

追悼ー朴 永吉 長老へ

2011年09月27日 | NPO三千里鐵道ニュース
写真ー昨年訪れた時、故人の自宅書斎にて

追悼ー朴 永吉 長老へ

ソウルの地下鉄スユリ駅からタクシーで15分位の、小さな坂道をあがると開放されたままの小さな家がある。
牧師であるとか闘士であるとかのたたずまいでは決してない。
数度の訪問は、慣れ親しんだ兄弟の家のようでもあり、長老のにこやかさは親そのものであった。
1994年に文益煥牧師が亡くなり、その後の訪問であった。
前回の訪問では、横浜神学校時代の友人、尹潽善元大統領夫人の話を懐かしそうに語っていた。
牧師の詩を直筆で書き、その書の何点かは三千里鐵道の事務所に掲げてある。
亡くなられた9月25日、「投票2012」のスタートの日。
去るもの、新しく生まれるもの、世の常とはいえ惜別の限りでもある。
残された者は、冥福を祈るしかできない。
合掌。

                      2011年9月27日

                               都 相太

追慕文ーパク・ヨンギル長老様に対する追憶/李時雨

2011年09月27日 | NPO三千里鐵道ニュース
二世紀の歴史を見つめた眼差し

追慕文ーパク・ヨンギル長老様に対する追憶

2011年09月26日(月)ckkimtongilnews.com


イ・シウ専門記者(写真家、平和運動家)




少女パク・ヨンギルは京幾女学校を経て日本、横浜女子神学校に通っていた時期、関東朝鮮神学生会の集会で青年文益換に会って、結婚を決心する。
しかし文益換が肺結核を病んでいたのでご両親は結婚を反対した。
だがパク・ヨンギルは
“半年だけ生きても良い。 この男と結婚できないならば一生独身で生きる”
と家を説得した。
パク・ヨンギルはこのかわいそうな青年と結婚して6ヶ月後に死ねば、残りは一生伝道に捧げる決心であった。


二人の熱愛は実を結び、1944年6月17日安東教会で結婚式を挙げることになった。 時は植民時代最後の頂点ー戦争の中で咲いた夢のような愛の結実であった。


解放後の46年満州避難民収容所から、家族と難民を連れ歩いて歩いて鴨緑江を越え新義州に着き、また38度線を越えてソウルに達する大長征を決行した。

パク長老が満州で生活した時間は、2年ほど。
パク長老が満州を離れた後、祖国の解放は分断になった。分断は戦争になり、戦争は独裁を産んだ。


しばらくして私たちは文益換という巨木を発見する。 当時1989年ムン牧師が平壌訪問を決めた後躊躇すると、すぐにパク長老は“私の夫がこのように優柔不断だとは思わなかった”として決断を促したそうだ。

夫の遺志を継ぎパク長老は、 1995年6月金日成主席死亡1周忌に平壌訪問を決行。

2011年9月25日パク・ヨンギル長老様の訃告が伝えられた。
パク長老様の逝去とともに、その目に宿した時代も共に消えた。
あなたは誰のため、弔鐘を打ちますか?



訃報ーパク・ヨンギル長老逝去

2011年09月25日 | NPO三千里鐵道ニュース
★昨年の三千里鉄道10周年記念誌に、愛情に満ちたメッセージをお寄せくださったパク・ヨンギル長老が、今日午前1時30分永眠された。故チョン・テイル烈士の母イ・ソソン女史に次ぐ訃報だ。
謹んでご冥福をお祈りいたします。N


故ムン・イクファン牧師夫人パク・ヨンギル長老逝去[ハンギョレ]


パク・ヨンギル長老が25日午前1時30分、持病で亡くなった。 享年93才.
黄海道遂安郡で生まれたパク長老は、京畿女子高と横浜女子神学校を卒業し、1944年ムン牧師と結婚した。
以後民主化運動と統一運動に献身した。

1995年6月、金日成主席逝去1周忌に平壌訪問、2000年10月には労働党創建55周年に招待され北朝鮮を訪問した。

‘6・15南北共同宣言実践のための南・北・海外共同行事南側準備委員会’名誉代表、民主化実践家族運動協議会共同議長、統一マジ、自主平和統一民族会議、民和協、統一連帯常任顧問などを歴任した。

2005年には南北和解協力に寄与した功労で国民勲章牡丹章を受けた。

遺族は娘ムン・ヨングム氏と息子ウイグン(JPモーガン シカゴ副社長)・ソングン(俳優)氏がいる。
葬儀はソウル大病院葬儀場2号室で. 出棺は28日午前9時、埋葬地は京畿道の牡丹公園。



"イ・ミョンバク大統領が,(選挙戦に)私を呼び出した"

2011年09月25日 | 南域内情勢
"イ・ミョンバク大統領が,(選挙戦に)私を呼び出した"


10.26ソウル市長補欠選挙公式出馬宣言をしたパク・ウォンスン弁護士を、宣言翌日の22日午後ソウル市立大でインタビューをした。

これまで政界のラブコールを避けてきたパク弁護士は、自分を選挙に駆り立てた最重要人物はMBその人と話し、さらに
“政府がうまくいくことが私たち皆の希望だが、その政府のするすべてが反時代的で反国民的ならば、全面的に反対して抵抗するほかはない”と話した。

‘世の中がこのように後退して難しくなるのに、なぜあなたはもう少し大きな枠組みで逆行を防ぐことをしないのか’
という周辺の圧力と要請を無視できなかった 彼は、
“個人的には毒杯を飲んだ”と考えるが“楽しくしようとする。 選挙を市民と疎通する祭りのように作ろうと考えている”と付け加えた。

●今日25日、民主党4人の競選が行われる。パク弁護士は野党圏統一候補選出方式について、民主党の出すルールに従うと表明している。アンチョルス、ハンミョンスクとの約束通り、あくまでも単一候補にこだわる。今日パク弁護士はポンハを訪問、ノムヒョン墓所参拝後ムンジェインと会う。ムンとパクは弁護士資格取得時、同期で机を並べ勉強した仲だ。ムンもパクも所謂政治を遠ざけ、出来ることなら関わりたくないと考えているところは、どこか似ている。
前日釜山市東区の区長選挙で、統一候補選挙事務所開設式があった。野党・市民陣営の全員野球が、ここではできそうな雰囲気だ。ソウルは、今後も目が話せない。N





「ムン・ジェインの運命」を読んで

2011年09月24日 | 管理人のつぶやき
腰痛が治まらない。楽な姿勢は横になること。しかし、PCは寝そべっては打てない。立膝の方が楽なので、キーボードも可笑しな格好で打っている。
で、短めにアップする。

「ムン。ジェインの親友のノムヒョンです」と自己紹介するほどの仲、弁護士事務所を一緒に始めた(ノムヒョンが先輩)間柄、絶対の信頼で結ばれている。
ノムヒョンの最期を見届け、喪主として500万弔問を冷静に指揮した彼を、国民は尊敬と驚異の眼差しで見続けてきた。
出版第1週でベストセラーランキングに入り、地域におけるブックコンサートも手伝い読者を着実に増やしてきた。

読みながらぼくは、誰がノムヒョンを殺したのか(死に追い詰めたのか)?の問いに対する回答を、本の節々から探していた。

著者は、自身を責める。あの時こうしていれば、もう少し傍にいてあげられたら、と自分を責める。
政治は怖い、政治には関わりたくない、と距離を置こうとする彼をノムヒョンはいつも、自分を大統領にしたのは君らだ、責任を取れと、冗談交じりに言っていたという。

その彼が敬愛し、尊敬する先輩、親友であり、稀代の庶民派大統領を亡くした悔恨と己に課せられた「運命」を見つめつつ、率直に述べている。
以下、ぼくの感想。

1.ノムヒョン政権末期に見せた内部からの脱党、背信行為
  青瓦台にいながら、次期を期す盟友からの見えみえの政権離れ、脱ノムヒョン離れに、さすがのノムヒョンも憔悴しきっていた、と話す。

2.貧しさ故
  家族からの様々な「行為」(検察に追及された)は、著者もうすうす知っていたという。それを潔癖な大統領は、すべて自分の無能の所為だと責め、側近の「行為」までも含め自分から出たことと、すべて一身に被り逝った。
 ポンハの財産、ノムヒョンの相続を計算した著者は絶句する。4億の借金を遺族に残したまま、旅立った、と。

3.検察、言論、そしてノムヒョンの愛した民からの罵倒
 検察と言論は、もう話す必要なし。今も続いている。
 しかし、保守言論に踊らされた心無い民の恨み節には、相当まいっていたようだ。ある詩人のことばが思い出される。
竜の吐き出す唾液にまみれた民が、催眠から醒め、今己の胸をかきむしりながら、彼の死を悼む…

4.現政権の政治報復
 このブログを始めたころ、ぼくは毎日ポンハのサイトに出る訪問客の笑顔を検索することから、その日を始めていた。チョップルの後9月ころ、そのサイトは閉鎖された。
 著者は言う。慇懃な表現で…。
この全てを決心させた実体は何か、と。

 今も状況は変わっていないと著者は言う。もし、次の選挙で進歩が政権の座についても同じことが繰り返されそうだ、と。だから、本当にノムヒョン5年の「成功と挫折」を教訓にしなければ、と。

最後に、青瓦台を出てポンハに着き歓迎式典に臨んだときのことである。ノムヒョンは「やー、気分最高!」第一声を発した。そのとき彼は心の中で「解放だ!」と狂喜し、叫んだ。
しかし、どうもこの運命からは解放されそうにない、と結んだ。

腰が痛み出した。離れます。N
 

パク・ウォンスン、公式出馬宣言-"市民が市長です"

2011年09月22日 | 南域内情勢
★この日、保守からもイ・ソギョン氏が予備候補宣言をした。やはり弁護士出身、バックにあのニューライト連合が支えるという。ハンナラ党からの候補者との一本化をめぐる攻防が注目される。それは民主陣営もしかり。民主党内の4人(党内競選)と、ミンノ党からも出るそうだ。
世論で一歩リードするパク候補の出馬宣言のことばを聴いてみよう。N


パク・ウォンスン、公式出馬宣言

"市民が市長です"

ー展示性土建予算削減、無償給食政策推進、漢江運河廃棄など公約

チョンウンジェ記者 jmy94@vop.co.kr|入力2011-09-21


10・26ソウル市長補欠選挙野党圏有力候補のパク・ウォンスン弁護士が、21日午前ソウル孝昌洞の白凡記念館で、ソウル市長選公式出馬記者会見を行った


パク・ウォンスン弁護士は
"市民との交流を通じてソウル市民らの夢と希望を実現します"
"パク・ウォンスンがソウル市長をすれば、確実に変わる"
"ソウル市民が願う変化を作る"と強調した。
彼はこの日
'市民が市長です'というキャッチフレーズを提示した。


"低いところに降りて行って、痛み治癒する市長"に


パク・ウォンスン弁護士は出馬会見文で

"住宅費負担で帰途ため息が絶えない会社員、登録料負担を減らそうとアルバイトに明け暮れる大学生、店を閉めて絶望する自営業者など、ソウルの生活に疲れた人は増えている。 ソウルの現実は'痛み'それ自体"としながら
"私は低いところに降りて行って痛みを治癒して抱く市長になる"
と約束した。


彼は過去3期の間のハンナラ党ソウル市政に対して
"イ・ミョンバク、オ・セフン前ソウル市長が作ったソウルは、二人の大統領選挙の夢を叶えようと10年間、市民らの夢と希望を縮小し失踪させた"と批判した。

パク弁護士はこの日まず推進課題で六種類を約束した。…

その上で、さらにパク弁護士は
"私は何をするという公約をいちいち羅列しない"
"市民の皆さんの考えを聞いて、それを政策化することに気を遣う"と話した。



●パク・ウォンスン弁護士は記者との質疑応答で、民主党入党問題に対して
"明らかなのは野党圏単一候補になるということだ。 "と話した。

また、民主党候補との単一化選挙戦ルールに対しては
"選挙戦ルールを定める過程で各自の利害関係がないことではないが、基本的に国民が同意して市民が支持する方式でのルールを決め、選挙戦をしなければならない"と話した。

選挙資金問題に対しては
"ユ・シミン ファンドと類似のファンドを一つ作って市民らから借用する方式で選挙を行うだろう"と話した。


パク・ウォンスン人物伝①ー 検事から人権弁護士の道に

2011年09月21日 | 南域内情勢
★時の人パク・ウォンスン人物像を探ってみよう。あるサイトに載った人物伝を訳してみました。N



1年で検事職を離れ、人権弁護士の道に

パク・ウォンスン人物伝① @vop.co.kr 2011-09-15




10.26ソウル市長補欠選挙予備候補パク・ウォンスン(55)前希望製作所常任理事は、1995年参加連帯事務局長を始め17年間市民運動に身を置いた。 去る9日希望製作所常任理事を辞職しながら市民運動を整理した彼は、後輩活動家からは'ウォンスン氏'と呼ばれた。 だが、多くの人々は彼をパク弁護士、もう少し親しい人々は'パク弁'と呼ぶ。

●ある事件で獄中生活

弁護士として法曹界に身を置いた期間は、市民運動17年より短い8年余りに過ぎなかった。
しかし彼は、80年代後半韓国現代史の大型の時局事件の弁論を引き受けて'人権弁護士パク・ウォンスン'として多くの人々の記憶に残っている。

若いパク・ウォンスンが人権弁護士の道に入るまでの過程は順調でなかった。
慶南昌寧郡農夫の7兄弟姉妹中六番目に生まれたパク・ウォンスンは、勉強ができた。 そして彼は、1975年ソウル大社会大学に入学した。

しかしその年5月22日キム・サンジン烈士追慕集会に単純参加し拘束され、4ヶ月間獄中生活を。入学から3ヶ月で除籍されてしまった。
1975年4月11日維新撤廃を叫んで割腹したソウル大農科大学畜産科4学年キム・サンジンを追慕するために開かれた集会で、当時60人余りの学生たちが拘束された。

パク・ウォンスンはこの日午後、梨花女子大学生とのミーティングで図書館の窓辺の席に座り「タイム」紙を読んでいた。たまたま窓の外に広がる連行・殴打場面を見て飛び出した。
…この突発行動なら普通、訓戒や一週間拘留くらいで済む。 しかし1975年当時は維新憲法を批判するすべての行為を処罰する'緊急措置9号'が発令された苛酷な時代、結局獄中生活をすることになった。

この事件でソウル大総長が辞任、
パク・ウォンスンも出所後は除籍になった。

それからパク・ウォンスンは、司法試験の勉強を始めた。 そうしながら大学入試に再度チャレンジし1978年檀国大史学科に入学した。
1979年裁判所事務官試験(現在の法院行政高等考試)に合格して、23才で江原道チョンソン登記所長として1年余り勤めた。

●1年で検事から人権弁護士の道に

田舎の登記所長勤務しながら司法試験受験準備は継続、1980年第22回司法試験に合格した。 研修院成績が良かった彼は検事を選択した。 周辺の勧誘もあったが検事は社会を現場で見ることができると思ったからだ。

しかし検事が結局人を捕まえる仕事、自分は人を捕まえることに趣味がないと悟るまで時間はかからなかった。
結局1年で検事を辞め、1983年弁護士開業。
弁護士開業初期2年余りは、一般弁論を主にしたが、1985年から時局事件が相次いでさく烈しながら本格的な人権弁護士の道を歩くことになった。

1986年、民主学生連合が光州事件におけるアメリカの役割に抗議した米文化院占拠事件、1986年、全斗カン政権言論報道暴露した月刊「マル」などの弁護を担当…「


キム民主弁護士会会長は当時
"パク・ウォンスン弁護士は民主弁護士会草創期に熱心に活動をした。"と話した。

パク・ウォンスンはまさに出世街道を走ることもできた検事を投げ捨て、人権弁護士の道を選んだことに関連、
"世の中が監獄だった時代、いっそ苦難の道に立っている人らの肩を持つことの方が気が楽だった"と話したことがある。

●弁護士活動を休止、留学の道に

熱情的に人権弁護士活動した彼は、弁論書を多く書いた。
"…結局国民と歴史に向かって被告人らの真実と私たちの主張を話すこと"の大切さを肝に銘じながら…。

人権弁護士時期パク・ウォンスンは、自身に最も強い影響を及ぼしたチョ・ヨンレ弁護士を1990年亡くす。
病床でパク・ウォンスンにチョ弁護士は
"金を儲けるのも良いが、他に目を向けてはどうか"と忠告した。
1980~1990年代、弁護士は名誉と収入の保障された幾つもない職種だった。パク・ウォンスンも若くして運転手付きの乗用車に結構大きな一戸建て住宅で余裕のある生活をしていた。

良い車と家を持つようになると、すぐにより良い車と家が目に浮かぶ。欲はより大きい欲を産んだ。
貪欲という列車を下りることにしたパク・ウォンスンは、1991年弁護士活動をたたんで留学の道に入った。

そして留学から帰った人権弁護士パク・ウォンスンは、市民運動家パク・ウォンスンとして新たな人生をスタートさせる。(続く)

なでしこ優勝の陰の功労者、在日企業家・文弘宣氏

2011年09月19日 | 韓日関係関連消息
★久しぶりに都さんと一緒に朴泰秀氏を訪ねた。豊橋駅近くの会社応接室で、朴氏は開口一番「ブタの調子どうですか?」。「夏場は暑くて太りません」と応える都さん…。そんな会話の中からどちらからともなく、「なでしこ、大化けしましたね」、と。彼らの共通の知人である文弘宣氏のことと、ぼくは暫くして分かった。 
検索してみると、出るわ出るわ…。そのうちの一つを以下に紹介する。N


なでしこ優勝の陰の功労者、在日企業家・文弘宣氏

2011/08/08 15:17 【神戸聯合ニュース】


日本全域が先月、サッカー女子代表「なでしこジャパン」のワールドカップ(W杯)優勝に沸いたが、その陰に在日同胞の企業家の功労があったことはあまり知られていない。

 その企業家とは、日本女子サッカークラブ「INAC神戸レオネッサ」の会長、文弘宣(ムン・ホンソン)さん(60)だ。慶尚南道・昌寧を故郷とする在日2世の文会長が創立し、育てたこのクラブは、日本女子代表チームの主将でW杯の得点王(5点)、最優秀選手(MVP)を獲得した沢穂希(32)をはじめ、代表選手7人が所属している。1月の全日本女子サッカー選手権大会で優勝し、1チーム当たり年間16試合を戦う日本女子サッカー1部リーグ(なでしこリーグ)で前半期8連勝を達成した最強チームだ。韓国代表のチ・ソヨン(20)、クォン・ウンソム(20)も所属している。


文弘宣氏=7日、神戸(聯合ニュース)
 現在、不動産、情報通信(IT)、外食産業などを手掛けるアスコホールディングスの会長を務める文会長は、2001年にスポーツビジネスの一環として女子サッカークラブを作った。

 最初は男子のサッカークラブを作ろうとしたが、選手集めが難しいため女子サッカーに目を向けたところ、運動したくても行き場がなく、困っていた選手らが集まったという。

 創立翌年の2002年に地域の3部リーグで優勝したのを皮切りに、2003年には地域2部リーグ、2004年には地域1部リーグでそれぞれ優勝を果たした。2005年には日本女子サッカー2部リーグで優勝し、翌年に1部リーグに昇格した。

 文会長は2006年から、大胆な「実験」を始めた。選手がサッカーに打ち込めるよう、全員をグループ企業で雇用して社業を免除し、月給を支払うというものだ。アマチュアリーグの日本女子サッカーリーグでは、こうしたシステムを取っているのは今でもINAC神戸だけだ。

 「女子サッカーにつぎ込んだ金額が10年間でどれほどになるのかと聞かれたことがありますが、およそ15億円になると思います」と、文会長。だからといって、慈善事業をしているわけではない。目先の利益を見るのではなく、長期目標を立てて投資しただけだ。

 文会長は「いつかINAC神戸を独立採算制で運営したい」とし、W杯の優勝でその芽が見えてきたと話した。それまでは女子サッカーの後援要請を門前払いしていた日本の大企業が、国民のヒロインとなった選手らのユニフォームに自社の名前を入れようと、列をなすようになったという。昨年は1試合当たり800人だった観客数は、今月6日のリーグ第8戦では2万4500人に増えた。

 文会長は在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系の朝鮮学校、朝鮮大学校を卒業し、北朝鮮と合営事業を行っていた。だが、1990年代初めに事実上、これを奪われたことから、北朝鮮に幻滅し5~6年前に韓国国籍を取得した。そんな同氏の願いは、祖国の女子サッカー発展にも寄与することだ。

 イ・ジンファ(24)、チ・ソヨン、クォン・ウンソムらを相次ぎスカウトしたり、費用を負担して韓国の女子中高生3人を日本に呼び、トレーニングに参加させたりしたのもそのためだ。10~14日には、韓国で開かれる韓国、中国、日本、ガーナによるサッカー親善大会に参加する予定だ。

 「韓国の女子サッカー代表も、五輪やW杯で優勝する日が必ず来る」と、文会長は明言する。どんな分野であれ、10年以上先を見越して投資する在日事業家の目は、いつしか韓国と日本が競い合い、世界の女子サッカーを率いていく未来に向けられていた。

●追記
文氏はKIS(コリア国際学園)理事長を歴任、現在副理事長として「越境人育成」に夢を馳せてもいる。
かつてパク・ウォンスン氏(現ソウル市長選候補)は、在外同胞教育者を前にして語った。
「ディアスポラが歴史を作る。…皆さんの教える同胞子弟が、ノーベル賞受賞者に育つかも知れない。不幸の時代に世界に散らばった民族のかけらが、祖国のかけがえのない遺産になるかも知れない」、と。
サッカーのチョン・デセ、李忠成、孫正義もひっくるめて、世界に散らばったユダヤ、華僑に告ぐ第3のコリアンネットワークが、世界史にどのような波紋を広げるのか、今は誰も予想できない。

パク弁護士, 16日ソウル市選挙管理委員会に候補登録

2011年09月18日 | 管理人のつぶやき
写真ー初めて見るネクタイ姿(中央)

ソウル市長出馬表明後、アン・チョルス ソウル大融合科学技術大学院院長との電撃的な候補単一化、 ハン・ミョンスク前総理の不出馬宣言で、パク・ウォンスン弁護士は一気に野党圏の有力候補として注目をあびている。

パク弁護士は16日ソウル市選挙管理委員会に予備候補登録を終え、地下鉄に乗って移動しながら市民らと直接対話をはじめた。

●野党・民主陣営が一歩リードした形で、2012選挙の年の前哨戦ー10.26ソウル市長選が始まる。

 ぼくの注目点

  1.アン風で示された民心は、どう影響するか?
  2.野党陣営、市民運動圏の統一候補擁立の行方は?
  3.ハンナラ党は、一体誰を当ててくるのであろう?

 皆さんの注目点は? N