NPO法人 三千里鐵道 

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追悼ー詩・手のひらの温もり

2011年09月27日 | NPO三千里鐵道ニュース
★事務所に飾られている詩を再掲します。夢切符に「平壌行きの切符を出せ」と叫ぶ文益煥牧師の雄姿、そして表題の詩を優しい字体で書き私たちに残してくれた朴容吉長老の書が、いつも私たちを見つめている。
金正日国防委員長の弔電が、葬儀委員会宛てに届いたそうだ。(統一ニュース)
…ご冥福をお祈りいたします。N



これ 誰の手…
闇の中をまさぐる
手が手を握る
握られた手が握った手を握りかえす
握られた手が握った手を信じる
握った手が握られた手を信じる
二つの手のひらは温かい
人情が行きかい
心と心が信じる
真っ暗な心に露がひかり
明日があけてくる

      1998年
         ヌッポム・文益煥
         ポムキル・朴容吉






  
    

追悼ー朴 永吉 長老へ

2011年09月27日 | NPO三千里鐵道ニュース
写真ー昨年訪れた時、故人の自宅書斎にて

追悼ー朴 永吉 長老へ

ソウルの地下鉄スユリ駅からタクシーで15分位の、小さな坂道をあがると開放されたままの小さな家がある。
牧師であるとか闘士であるとかのたたずまいでは決してない。
数度の訪問は、慣れ親しんだ兄弟の家のようでもあり、長老のにこやかさは親そのものであった。
1994年に文益煥牧師が亡くなり、その後の訪問であった。
前回の訪問では、横浜神学校時代の友人、尹潽善元大統領夫人の話を懐かしそうに語っていた。
牧師の詩を直筆で書き、その書の何点かは三千里鐵道の事務所に掲げてある。
亡くなられた9月25日、「投票2012」のスタートの日。
去るもの、新しく生まれるもの、世の常とはいえ惜別の限りでもある。
残された者は、冥福を祈るしかできない。
合掌。

                      2011年9月27日

                               都 相太

追慕文ーパク・ヨンギル長老様に対する追憶/李時雨

2011年09月27日 | NPO三千里鐵道ニュース
二世紀の歴史を見つめた眼差し

追慕文ーパク・ヨンギル長老様に対する追憶

2011年09月26日(月)ckkimtongilnews.com


イ・シウ専門記者(写真家、平和運動家)




少女パク・ヨンギルは京幾女学校を経て日本、横浜女子神学校に通っていた時期、関東朝鮮神学生会の集会で青年文益換に会って、結婚を決心する。
しかし文益換が肺結核を病んでいたのでご両親は結婚を反対した。
だがパク・ヨンギルは
“半年だけ生きても良い。 この男と結婚できないならば一生独身で生きる”
と家を説得した。
パク・ヨンギルはこのかわいそうな青年と結婚して6ヶ月後に死ねば、残りは一生伝道に捧げる決心であった。


二人の熱愛は実を結び、1944年6月17日安東教会で結婚式を挙げることになった。 時は植民時代最後の頂点ー戦争の中で咲いた夢のような愛の結実であった。


解放後の46年満州避難民収容所から、家族と難民を連れ歩いて歩いて鴨緑江を越え新義州に着き、また38度線を越えてソウルに達する大長征を決行した。

パク長老が満州で生活した時間は、2年ほど。
パク長老が満州を離れた後、祖国の解放は分断になった。分断は戦争になり、戦争は独裁を産んだ。


しばらくして私たちは文益換という巨木を発見する。 当時1989年ムン牧師が平壌訪問を決めた後躊躇すると、すぐにパク長老は“私の夫がこのように優柔不断だとは思わなかった”として決断を促したそうだ。

夫の遺志を継ぎパク長老は、 1995年6月金日成主席死亡1周忌に平壌訪問を決行。

2011年9月25日パク・ヨンギル長老様の訃告が伝えられた。
パク長老様の逝去とともに、その目に宿した時代も共に消えた。
あなたは誰のため、弔鐘を打ちますか?