NPO法人 三千里鐵道 

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法律は誰のためにあるのか?

2014年11月27日 | 三千里コラム

大法院の不当判決を受け、法廷を後にする双竜自動車の解雇労働者たち(11.13)


このニュースを書くのが辛くて引き延ばしているうちに、二週間が過ぎてしまった。遅ればせながら、韓国大法院(最高裁)の不当判決を伝えることで、生産職労働者がいかに過酷な状況に置かれているかを告発したい。

11月13日、大法院は双竜(サンヨン)自動車の解雇労働者153人による解雇無効訴訟に関し、原告勝訴の控訴審判決を破棄しソウル高裁に差し戻した。「解雇は無効」とした高裁の判決を覆し、“正当な整理解雇だった”とする企業側の主張を認めたのだ。

2008年から企業再生の手続きを始めた双竜自動車は、経営悪化を理由に2009年4月、大規模な整理解雇方針を発表した。全職員の37%、生産職の約50%に達する2646人もの大量解雇だ。当然ながら、労組は猛反発する。平澤市の工場を占拠してストライキに突入した。

ビジネス・フレンドリー(企業活動への優遇措置)を掲げていた当時の李明博政権は、企業の側に立って労組を圧迫する。政府の後押しを受けた経営陣は、ストによる被害233億ウォンの損害賠償を求め労組を提訴した。労働者にとっては聞いたことも、触ったこともない巨額の訴訟だった。その結果、1666人が希望退職者(わずかの退職金を支給)として職場を去り、残り980人が解雇されたのだ。

こうした状況にも屈せず、労組はその後も77日間にわたるストを展開した。困難を極めた闘争の結果、2009年8月に整理解雇980人中、462人を無給休職者、353人を希望退職者とする“救済”を勝ち取った。最終的に165人が整理解雇者となったのだ。

その内、153人が連名で“会社が事業損失を誇張計上するなどの会計操作をしていた。整理解雇の要件を満たさない不当解雇”だとして、2010年11月、解雇無効の訴訟を起こしたのだ。裁判の争点は次の二点だった。①整理解雇を断行する程度の緊迫した経営事情があったのか、②企業側が解雇を回避する充分な措置を行ったのか。いずれも、勤労基準法第24条の遵守を問うものだ。

2012年1月、ソウル南部地裁民事部は“構造調整(リストラ)の勧告を受けていた企業にとって、整理解雇は緊迫した経営事情によるもの”と判断し、労組の主張を退けた。しかし、控訴審でソウル高裁民事部は2014年2月、「損失を過大に計上して経営事情悪化を誇張し、意図的に整理解雇の要件を満たそうとした」として、解雇無効を宣告したのだ。

そして、今回の逆転敗訴である。大法院は判決文で“国際金融危機と景気不況に加え、原油価額上昇にともなう販売量の減少など、継続的・構造的危機があった。解雇を断行する緊迫した経営上の必要が存在したもの”と判示している。さらに“企業運営に必要な人員の適正規模は、特別な事情のない限り経営者の判断を尊重しなければならない”とした。

まるで‘経営者と労働者は上下関係にあり、労働者は従うのみ’とでも言わんばかりの判決だ。一方、ソウル高裁は「当時、双竜自動車は3000億ウォンを越える不動産を保有しており、これを担保に融資を受けるなど経営危機を克服する手段は他に存在した」と判断し、整理解雇を回避するための充分な努力をしなかったと厳しく指摘している。

実際に、双竜自動車は整理解雇から2ヶ月後、巨額の不動産を担保に1300億ウォンの資金を貸与されている。また、解雇ではなく無給休職者を拡大する対策も講じている。こうした措置を先行させていたなら、2646人もの大量解雇を企図せずにすんだのではないだろうか。

働く者たちにとって、安定した雇用に優る福祉はない。そして、生計の手段が絶たれる解雇は、死刑宣告に等しい。双竜自動車の整理解雇から5年が過ぎた。この間に、自殺もしくはストレス性の疾患で病死した労働者と家族が、25人に達する。

筆者には今も、一人の青年労働者の叫びが耳に残っている。彼の名はチョン・テイル(全泰壱)。44年前に清渓川の縫製工場で働いていた彼は、劣悪な労働条件の改善を求めて仲間とともに立ち上がった。しかし、行政と一体になった経営者が労組の結成すら認めようとしない現状を前にして、彼は最後の決断をする。

「勤労基準法を守れ!我々は機械ではない。労働者を酷使するな!仲間よ、私の死を無駄にするな!!」と叫びながら、彼は抗議の焼身自殺を決行した。まだ22歳だった。1970年11月13日のことだ。それから満44年を経た同じ日、2000日を越える闘いを続ける双竜自動車の解雇労働者たちに、韓国大法院は事実上の死刑判決を宣告したのだ。

1970年11月13日以降、数え切れないほどのチョン・テイルたちが、働く者の尊厳と権利を勝ち取るために自身のすべてを捧げてきた。これ以上の犠牲があってはなるまい。大法院の判決に怒りと失望を隠せぬまま、原告団は「破廉恥な政治的判決だ。法廷での闘いはまだ続くだろう。必ず、職場に復帰する」と、悲壮な決意を語った。

どちらの側に立つかによって同一事件の判決が相反するなら、「法は人のためにある、人が法のためにあるのではない」という原点から出発すべきであろう。社会的な弱者と少数者を保護する法律、企業と政府の横暴を制約する法律こそ「人のためにある法」だと思う。困難な闘いを続ける双竜自動車の解雇労働者たち...。彼らと家族の健康を願い、遠く日本の地から、連帯のエールを送りたい。(JHK)

逝去20周忌、文益煥牧師追慕の集い

2014年11月20日 | NPO三千里鐵道ニュース

「平和と統一のための文益煥牧師追慕の集い」(11.16,名古屋YWCA)


11月16日、名古屋市YWCAで「文益煥牧師追慕の集い」が開催されました。集会は『三千里鐵道』を中心とした実行委員会が主催したもので、文牧師の家族と関係者、在日同胞と日本市民ら約70名が参加して開かれました。

50代の後半になって漸く民主化運動の表舞台に登場した文牧師は、自らをヌッポム(晩春)と号しました。1976年の「3・1民主救国宣言」で最初の投獄を体験した牧師は、その後も6度にわたって約9年間も収監されています。94年に76歳で永眠されましたが、晩年の半分は獄中で過ごされたわけです。

今年は文牧師の逝去から20年、訪朝した文牧師が『祖国平和統一委員会』との間で発表した「4・2共同声明」から25年目の年です。そうした節目の年に、名古屋の地で『三千里鐡道』が主体となって追慕の集いを持てたことは幸いでした。16日付の『統一ニュース』には、韓国から同行したキム・チグァン記者の報告記事が掲載されています。以下に要訳して紹介します。(JHK)


-ヌッポム(晩春)文益煥の精神で、来年を第二の「6・15時代」に!-


日本の名古屋YWCAで16日午後1時40分に開かれた「平和と統一のための文益煥牧師追慕の集い」で、『統一マジ』(マジは迎えるの意:訳注)理事長のイ・チャンボク「6・15共同宣言南側委員会」常任代表議長は、光復(解放)70周年である来年に“民族共同行事”を開催しようと提議した。

追慕集会は、名古屋市所在のNPO(非営利団体)『三千里鐵道』を中心とする実行委員会が、「文益煥牧師の逝去20周忌、4・2南北共同声明の25周年」記念行事として主催した。集会には『統一マジ』関係者と文牧師の家族ら韓国代表団10人と、在日同胞・日本人など60人余りが参加している。

韓国側開会辞を述べたイ・チャンボク理事長は“もうこれ以上、朴槿恵政府に期待することはない。私たち自らが‘統一への新たな局面’を作らなければならない”と宣言し、“来年は光復70周年、分断70周年、韓日協定50周年、6・15共同宣言15周年になる意味深い年だ。南と北そして海外の同胞が力を結集し、必ずや「民族共同行事」を成就しなければならない”と強調した。

また“文益煥牧師が私たちに残した貴重な教訓は、「壁を門だと思って怯まずに進め」ということだった。この‘文益煥精神’で、来年を「第二の6・15時代」にしよう”と訴えた。

さらにイ・チャンボク理事長は、“日本の再武装に反対し韓・米・日の軍事同盟を阻止する韓国社会の運動が日本の市民社会に伝えられ、平和を愛するすべての日本人との連帯が実現されねばならない。そのためには、韓国の進歩勢力と在日同胞が堅く団結することが優先的かつ必須の課題だ”と主張した。

次に、日本側の開会辞を述べた都相太『三千里鐡道』理事長は、文牧師の訪朝当時ユ・ウォンホ先生(文牧師の訪朝に同行:訳注)と合弁企業を運営していたことで、韓国政府から‘イジメ’を受けたエピソードを紹介した。“89年に文益煥牧師の一行が訪朝したことは、私たち家族にもとても意義深い事件だった”と語った。

都理事長は“25年が過ぎた今も文益煥牧師の思想と、その思想に基づいた実践はまだ成就されておらず、未完の課題として残っている。文牧師の20周忌を迎え未完の統一問題に取り組むうえで、この集いが大きな意志になれば幸いだ”と願いを伝えた。

続いてイ・スンファン『統一マジ』運営委員長は、“文牧師は‘統一は即ち民主’であり‘民主は民が主導’の意味であるから、‘統一も民の主導’と宣言した。この‘民主導の統一思想’が今日の韓国統一運動における中心思想だということは、もはや誰も否定できない”と意味を付与した。

また“文牧師は光復50年である1995年を控えて、‘決して分断50年を越えることなく統一しよう’と言われた。統一マジをはじめ南のすべての平和運動勢力は、来年の光復70周年、6・15共同宣言15周年をむかえて、東アジアの平和と南北関係の画期的転換を成し遂げるために多様な事業を推進していく”と表明した。

“日本で生まれ育った在日同胞”と自身を紹介した姜春根『三千里鐡道』副理事長は、“二十才になるまで自分が韓国人であることが本当に嫌だったし、日本社会で在日朝鮮人として生きて行くことにとても悩んだ。しかし、韓国で民主化運動にすべてを捧げる方々に出会って、自分の考えがどれくらい愚かなのかを悟った”と語った。

姜副理事長は“民族の団結した力で統一の大門を力強く開こうとの熱望で、文牧師は平壌に向かう一大勇断を下した。どんな難関があろうと、どんな苦労がありどんな悲しみがあろうとも、わが民族は必ず統一しなければならない”と激情的に演説した。

康宗憲『三千里鐵道』顧問は、監獄での出会いで始まった文益煥との縁を紹介して“4・2共同声明が重要なのは二点だ”と述べ、△政治・軍事分野だけでなくあらゆる分野の交流を北側が受け入れたこと、△段階的な連邦制を初めて北が公式化したこと、を挙げた。

また“89年の4・2共同宣言はその後、統一問題に極めて大きな影響力を発揮する。もちろん2000年「6・15南北宣言」にも継承されたが、その以前に二つの成果を確認できる。1992年「南北基本合意書」と1993年の「祖国統一10大綱領」だ”と指摘した。

康顧問は“89年4月、南の在野を代表する文益煥牧師と北の最高指導者の間で交わされた対話と共感が、その後の統一運動において貴重な資産となったものと確信する。統一は文牧師の雅号のように、ゆっくりと来る春なのだろう。だが、統一の晩春は必ず訪れるだろう。共に統一の門を開いて行こう”と結んだ。

文牧師の三男である文盛根『国民の命令』常任委員長は、“韓半島の情勢は総体的な難局に直面している。2014年の韓国社会を生きる私たちは、89年に訪朝した文益煥牧師が今更のように懐かしく思える”と語った。

文委員長は“来年に、市民100万~200万人が集まるオンライン広場を作る計画だ。このオンライン広場を通じて請願キャンペーンを展開し、市民と政党が協力しながら政策を立案すれば、市民を組織化できるだろう”と、構想の一端を明らかにした。そして“在外同胞も組織化し、オンライン広場が政党と共に在外同胞政策を執行するだろう”と付け加えた。

文委員長はさらに、“今の状況は文益煥牧師が訪朝した時よりも暗くない。オンライン広場を作って市民を組織し、政党を牽引して政権交替を成し遂げる。そして南北の平和と統一を成し遂げる。そんな夢を抱いている”と語った。

韓基徳『三千里鐵道』事務局長の司会で進行したこの集いは、『統一マジ』と『統一ニュース』、『6・15共同宣言実践日本地域委員会』が後援した。最後に、文益煥牧師の長女であるムン・ヨングン氏が家族を代表して謝辞を述べた。

統合進歩党への解散請求、憲法裁判所の判決は?

2014年11月07日 | 三千里コラム

「統合進歩党の強制解散に反対し、民主主義を護る円卓会議」(11.6,ソウル)



韓国政府は昨年11月5日、統合進歩党の強制解散を要求し、憲法裁判所に違憲審判を請求した。この1年間に20回を越える公判が開かれ、法務部と統合進歩党の間で熾烈な攻防が展開されている。法務部は同党の“核心メンバーが朝鮮労働党の影響下にあり、綱領と活動内容も北朝鮮の対南戦略に立脚したものだ”と主張している。

しかし、統合進歩党が掲げる△働く人々が主人となる世の中、△進歩的な民主政治、△朝鮮半島の自主的平和統一と東北アジアの非核平和体制などの綱領は、韓国社会の進歩勢力がその間の変革運動を通じて形成したものだ。“北の指令”を持ち出すのは、あまりにも見え透いた冷戦時代の手法と言わざるをえない。

統合進歩党は現在、国会議員5人の少数政党だ。その一人、李石基氏は「内乱煽動」などの一方的な容疑で拘束され、高裁で9年の重刑を受け上告中である。来年の1月か2月には有罪の確定判決が出ると予想されている。朴槿恵大統領の裁可を受け、法務部が押し切ろうとする進歩政党の強制解散...。

言うまでもなく、政党活動の自由は民主主義の核心である。韓国民主化運動の成果を守り発展させるためにも、民主勢力の団結した対処が求められる。裁判は今月25日の最終陳述を残すのみとなった。当日、法務部は長官自ら陳述し、統合進歩党は李正姫・党代表が陳述する予定だ。判決は年内に出るものと予想される。

参考資料として、11月5日付『民衆の声』社説を紹介する(JHK)。


政府が統合進歩党に対して違憲政党の解散審判請求を提出してから、今日で満1年を迎える。憲法裁判所は11月25日に、双方の最終口頭陳述を行い弁論を終結する。憲法裁判所の最終決定だけが残されているわけだ。

憲法裁判所の判事たちにとっては、困惑せざるを得ない所だろう。政府の請求を棄却すれば文明国家の自尊心は守ることができるだろうが、朴槿恵政府と守旧勢力の集中的な攻撃を受ける可能性が高い。チェ・ドンウク検察総長への迫害は、こうした懸念を彼らに抱かせることだろう。恐怖政治は有無を言わせぬ強権統治であり、無分別な手段を活用する。

かと言って、憲法裁判所が法理を無視して強引に解散決定を下すこともできない。17回もの弁論公判で10万ページを越える資料を検討したが、政府は統合進歩党の何が違憲なのか、ただの一度もまともに立証できなかった。

11月4日の弁論公判でキム・イス裁判官は、“隠れた目的をあばくパズル理論で「北朝鮮式の社会主義追求」が明らかになるということか。あるいは、統合進歩党の綱領そのものに「北朝鮮式社会主義」が出てくるということなのか?”と質問した。最終的な争点の確認だった。

これに対して検事は“政党解散が規定されている国家で、政党が自ら違憲的な目的を明示するだろうか。「進歩的民主主義」という用語の背景にある実体を見なければならない”と力説した。隠蔽された‘真の目的’がある、と政府が繰り返し主張することが、何よりも「違憲の証拠はない」ことを逆説的に語っている。

弁論が展開された1年間で、政府の訴える解散請求趣旨は大きく変わった。1年前、閣議を経て朴槿恵大統領が署名した請求書類には、“北朝鮮の指令を受けるRO(革命組織)が進歩党の党権を掌握しているので、解散させなければならない”という趣旨であった。だが、しばらくして政府は“民革党(民族民主革命党)の残存勢力が党権を掌握しており、解散させなければならない”と、いつの間にか言葉を変えている。去る8月の李石基議員の控訴審結果に合わせたのだ(ソウル高裁は内乱陰謀に無罪、ROは実在しないと判決:訳注)。

国家情報院の協力者キム・ヨンファンが証言したのも同じ脈絡からだ。民主労働党(統合進歩党の前身)が創党される前に、国家情報院に自首し同僚を告発して釈放されたキム氏の陳述が、今になって統合進歩党の解散理由にならないことは、あまりにも明白なことだ。

憲法裁判所の苦悩は察して余りあるところだが、その解決は極めて簡単だ。憲法に明示された通り、法と良心に則って独立的に審判すれば良いのだ。現政権のもとで、司法部の決定が政府の統治行為から独立していると信じる人は多くないだろう。だが、憲法裁判所は違う、ということを見せなければならない。

11月6日、市民社会の元老たちと知識人、民衆運動の指導者らが、統合進歩党解散を阻止する円卓会議を招集するという。参加者たちは、「統合進歩党の解散は民主主義の解散」という認識を共にして、“進歩党解散の試みこそ違憲的な認識だ”と主張する。非常識な政権による民主主義の破壊意図が現実のものとなり、司法の独立が危険な状況に陥っている。だが、私たちの社会にはまだ良心と正義が毅然として生きていることを、憲法裁判所の判決を通じて確認したいものだ。

文益煥牧師逝去20周忌 4.2南北共同声明25周年 平和と統一のための늦봄文益煥牧師追慕の集い

2014年11月04日 | NPO三千里鐵道ニュース
開催まで2週間を切りましたので、もう一度掲載いたします。(※内容に一部変更があります。)


11月16日は、名古屋へぜひお越しください。

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文益煥牧師逝去20周忌 4.2南北共同声明25周年
平和と統一のための늦봄文益煥牧師追慕の集い


우리 다시... 통일을 외치자! ( 私たちは、もう一度… 統一を叫ぼう!)

日時 : 11月16日(日)午後1時半開場 午後2時開始
場所 : 名古屋YWCAビッグスペース
主催 : 늦봄文益煥牧師20周忌追慕の集い日本地域実行委員会
後援 : (社)統一マジ
連絡先: NPO法人 三千里鐵道 (お問合せ 0532-53-6999)

늦봄文益煥牧師は、
この地の光でした。この民族の希望でした。
今年2014年は늦봄文益煥牧師逝去20周忌を迎える年です。
私たちは今、先生をもう一度生き返らせ、歴史の前に立たせようとしています。
あまりにも状況が切実なためです。歴史がその暗闇の過去に戻ろうとしているためです。民族の分断と対決が耐えがたい痛みとなっているからです。
それで私たちは、彼の夢と叫びと決意を、もう一度私たちの体で確認して行動しようと思うのです。
皆さんが共にしてくださることで、平和の歴史、統一の歴史、正義の歴史が、再びよみがえることと思います。

늦봄文益煥牧師20周忌記念事業委員長
張永達

プログラム
第1部 追悼式
開会辞 李昌馥 (社)統一マジ 理事長
    都相太 NPO法人 三千里鐵道 理事長
記念辞 張永達 늦봄文益煥牧師逝去20周忌記念事業委員長
追悼辞 李承煥 (社)統一マジ 運営委員長 『늦
記念辞 張永達 늦봄文益煥牧師逝去20周忌記念事業委員長봄統一思想の現在的意味』
    姜春根 在日韓国民主統一連合 副議長 『文益煥牧師訪朝が在日同胞に与えた衝撃』

第2部 特別招請講演  
  文盛瑾 國民の命令 常任委員  『私たちは늦봄統一思想を継承する』
  康宗憲 韓国問題研究所所長   『4.2共同声明の継承と6.15共同宣言の実践』

第3部 遺家族挨拶と韓国側参加者紹介
     文영금 文益煥牧師 長女 타

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6.15共同宣言の背景となった4.2共同声明と“늦봄(晩春)”文益煥牧師

72年 7.4南北共同声明、89年 4.2共同声明、91年 南北基本合意書、2000年 6.15共同宣言、2007年 10.4宣言…

すべての南北間の合意は一歩一歩発展してきた。それは常に、先にあった南北間の合意をベースにより具体的で、より根本的な合意につながっていった。 7.4南北共同声明がなかったら4.2共同声明もなかったのであり、4.2共同声明があったからこそ南北基本合意書が可能となった。 そして、『統一の道しるべ』と呼ぶべき歴史的な6.15共同宣言が生れることにつながった。

統一の先駆者となった늦봄文益煥牧師は1976年3月1日、明洞聖堂で金大中氏らと『3.1救国宣言』を発表した時から民主化運動に飛び込みました。 『3.1救国宣言』は、「朴正煕の維新クーデターにより韓国の民主主義は窒息し三権分立は抹殺された」と、維新憲法によって永久執権、独裁体制を固めた朴正煕大統領に大きな打撃を与えた事件です。 この時、懲役7年の刑を宣告されて初めての監獄生活をし、それ以来、朴正煕政権の下で2回、全斗煥政権下で2回、廬泰愚政権下で2回、合計6回の獄中生活をするほどに、民主化運動の象徴であり求心点になった方です。
1987年6月民主抗争の直後、늦봄文益煥牧師はいつもこのように主張しました。
「もう民主化はある程度なったし、これ以上元に戻ることができないまでになりました。 それなら私たちはこれから統一を迎える準備をしなければなりません。」

1989年北の金日成主席が、「韓国政府当局と政党そして文益煥牧師、金寿煥枢機卿など、誰とでも会って統一問題を協議する用意がある」と明らかにしたことを契機に、当時では南の誰もが生きては行くことができなかった北に行って金日成主席に会います。 その時金日成主席と交渉して作られたのが、4.2共同声明です。 最初、金日成主席に会うまで、늦봄文益煥牧師は果たして北が統一をする意志があるのかどうか確信がなかったといいます。自分を呼んでおいて利用だけしようとするのではないだろうかと心配したともいいます。
しかし、金日成主席は当時としては受け入れるのが難しい問題まで喜んで受け入れ、統一問題を真剣に解いていこうという意志を見せ、その成果は4.2共同宣言にそっくり入っているのです。
4.2共同声明は統一方案に対する南北間の初めての合意という歴史的意味が非常に大きいです。 4.2共同声明は、第一項7.4共同声明に立って自主的に統一問題解決、第三項 多方面的な交流と協力強化、第四項 統一は吸収統一でない連邦制方式を指向などの内容を含んでいます。 そして文益換、金日成二人の合意が現実化されるために、第八項 各政党、政府にこれを積極的に建議するようにしました。

一方、金大中大統領はかねてから『太陽政策』と名をつけた統一戦略を持っていました。 あたかも太陽が太陽の光で旅人の服を脱がせたように北朝鮮に対して強硬策でない同じ民族で包容する暖かい政策を通じて北を変化させることができると考えたのです。 このような考えは、李承晩大統領以後力で北を屈服させなければならないと信じた歴代大統領とは全く違うことでした。 そして、このような自身の政策が成功するには何より北の最高指導者と会って信頼を積まなければならないと信じていました。
4.2共同声明が合意発表されてから11年目となる2000年6月13日、金大中大統領はついに分断後初めて平壌を訪問する韓国大統領となって歴史的な南北首脳会談に成功し、北の金正日国防委員長と会って『統一の道しるべ』と呼ぶべき6.15共同宣言を採択するにいたりました。これは、それまでの冷戦の遺物である分断時代を断ち切って、南北和解の時代、平和統一の時代が開かれたことを意味していました。
4.2共同声明と6.15共同宣言は11年という時差と会談当事者の差はありますが、核心的内容と志向するところにおいては一致しており、6.15共同宣言は4.2共同声明を土台として一段と発展させたものだったのです。

南北関係は白紙状態では始まりません。再開されるたびに常に過去よりも深化し拡大する方向で合意を見てきた歴史があります。再び南北関係が回復して発展すれば、7.4→4.2→6.15→10.4と発展してきた統一の道のりが、一段と高い水準となることでしょう。

私たちは、文益煥牧師逝去20周忌追慕の集いにおいて、늦봄文益煥牧師の統一思想を学び、6.15共同宣言が切り開いた地平を思い起こし、海外同胞の立場から統一運動へいかに参与しうるのか、すべきなのかを探りたいと思います。