NPO法人 三千里鐵道 

NPO法人 三千里鐵道のブログです。記事下のコメントをクリックしていただくとコメント記入欄が出ます。

植民地朝鮮と満州国

2015年02月24日 | 三千里コラム

満洲国末期の鉄道網



ここ数日、中国の春節に関する報道が盛んでしたが、朝鮮民族も南北を問わず旧正月の連休を楽しみます。そのためか、これといった政治ニュースが見当たりませんでした。それで、今回は「満州」に関するエッセーを二回に分けて紹介します。筆者はパク・フンス氏。韓国の社会公共研究所・鉄道政策客員研究委員です。

氏は現在、インターネット新聞『プレシアン』に「鉄道で見る世界」を連載中です。紹介するのは2015年1月11日付で寄稿された第44話、「満州-朝鮮・中国・日本の欲望が交錯する地」です。「青年ソン・ギジョン(孫基禎)は、どのようにベルリンまで行ったのか?」という副題がついています。長文のため、内容の一部を省略しました。また、原文中の“韓国”を、歴史的な文脈の中では“朝鮮”に置き換えて翻訳しています。(JHK)

高句麗の広開土大王が駿馬を走らせた広大な満州原野は、韓国人にとって、狭い土地に閉じ込められた民族という劣等感を解消する象徴と言えよう。明け方、霧に包まれ果てしなく繰り広げられる地平線は、神話のようなイメージで私たちを魅了する。だが、満州の時間は、広開土大王の時代ではなく、李氏朝鮮末期から現在に至るまでの方が、はるかに重大な意味を持つように思えるのだ。

日本人にとっても満州は、特別な土地だ。最近の若い世代は、帝国主義の歴史を消し去る教育過程の影響からか、植民地支配と関連した事がらには鈍感な反応を示す。しかし、日本の近現代史において満州は、格別なノスタルジアを呼び起こす土地だ。特に、東アジア侵略戦争の時期に満州で生きた日本人には、希望と絶望が入り混じったまま、歴史に翻弄された時空間だったと言えよう。

もし日本が、帝国主義戦争に勝利して今日まで朝鮮と満州国を支配したとすれば、満州を題材にする映画は「ハリウッド西部劇」のように、特別なジャンルになっていただろう。 アメリカの西部開拓時期を彷彿させる無限の可能性と、その後の瞬間的な没落が共存する満州で、日本人は新しい王国を建設した。その王国建設の主人公は「南満洲鉄道株式会社」、略して「満鉄」と呼ばれた鉄道会社であった。

中国の主流である漢族の立場からすれば、近代を迎える時期まで、満洲族と呼ばれた東北地域“蛮夷”の支配を受けたわけだ。そして中日戦争の時期、満州は日本が建てた傀儡「満州国」が統治していた。日本の侵略戦争に対抗した中国人にとって「満州国」は、最初に闘う当面の敵だった。

領土問題がますます深刻化する現代では、中国が古代から歴史・文化的に支配した土地として満州が位置づけられている。中国政府が「東北工程」と呼ぶプロジェクトの一環だ。高句麗や渤海、女真、契丹などは中国古代国家の一つだったとする「東北工程」。その論理を推し進めれば、終着地は領土紛争の厳しい対峙線にならざるを得ない。  

満州をめぐる葛藤、そして日本の満州支配

清朝が中国を支配した時期、満州は「主のない空地(無主空山)」に他ならなかった。清朝は満州地域に対して、漢族をはじめとする他民族の出入りを禁止した。清朝の発祥地を神聖に保存するためだった。その反面、満州一帯を掌握した満洲族は中国大陸の主人になるとすぐに、北京をはじめ内陸の諸地方と都市に侵入して行った。

満州の空洞化は必然的だった。清朝が満州地域の封鎖を解除することになったのは、19世紀後半のことだった。ロシアの南下を憂慮した清朝が、漢族の満州移住を奨励することになったのだ。定着民が居なかった土地は、先に入った者が主人となるのに好都合な時代だった。  

朝鮮人が満州に集団で移住し始めたのは、清朝が封鎖政策を解除する前の19世紀中半だった。1862年、相次ぐ凶年で飢えに苦しんでいた咸鏡道(ハムギョンド)の住民たちは、国境を越えて中国に移り住んだ。物乞いをしながら生き延びてきた朝鮮人たちは、見捨てられた土地を開墾して畑を耕した。飢謹に苦しんでいた朝鮮北部地域に、中国に越境し定着した人たちの消息が伝えられると、移住民の規模はより一層拡大していった。

当初は越境者の受け入れを拒否していた清朝政府も、1865年には朝鮮人に鴨緑江(アムノッカン)北側での居住と農業を許可することになった。それ以後は、さらに多くの朝鮮人が満州に移住することになる。1885年までに満州で、朝鮮人が切り開いた土地は南北100km、東西1000kmに達する膨大な地域となった。この地域はチャンダオ、朝鮮語で間島(カンド)という名前で呼ばれた。  

間島はいつの間にか“朝鮮人の土地”として知られるようになった。当時は、近代的な意味の民族と国境の概念が生成される以前の時代だった。土地は、“集団で居住し主流となった種族の所有”という考えが常識だったのだ。朝鮮王朝も“間島は朝鮮の領土だ”ということを、それとなく主張していた。1885年、高宗(コジョン)は鴨緑江と豆満江(トゥマンガン)、白頭山(ペクトゥサン)一帯の国境線策定を清朝に要求した。

朝鮮と清朝は国境線をめぐって対立していたが、高宗の要請に応じた清朝政府は、国境付近での1次共同調査を実施する。1887年には2次調査を行ったが互いの主張は食い違い、合意点を見出すことができなかった。その後、日清戦争が勃発して朝鮮と清朝の間で結ばれた全ての条約が廃棄されると、朝中国境は両国間の衝突が発生する紛争地になった。   

1905年、日露戦争が終わると戦勝国日本は、ロシアが中国から得た権利である東清鉄道に対応して、満州を支配できる鉄道路線の敷設を構想する。日露戦争のポーツマス講和条約は、その間、ロシアが中国から割譲された利権を日本が継承するというものだった。日本はロシアの租借地である旅順・大連港をはじめ、長春-旅順間の鉄道権利を確保した。この長春-旅順間の鉄道運営のために1906年6月9日、「南満洲鉄道株式会社(満鉄)」の設立が公布され、12月には正式にスタートした。  

日本は長春-旅順間の南満洲鉄道だけでなく、朝鮮から中国内陸とシベリア横断鉄道を連結する鉄道の開設を望んだ。そのためには、中国の東三省(現在の東北三省)である満州地域の鉄道路線を確保しなければならない。しかし、中国は日本の鉄道敷設を強く反対した。東三省の総督は、新路線の建設や既存路線の改築を許可できないと抵抗し、延辺の日本軍守備兵に撤収を要求した。また、日本の鉄道敷設に対抗して、中国資本による満州鉄道の敷設を試みた。

これに対し日本は、清朝政府による満州地域の鉄道敷設は日本が所有した南満洲鉄道の利益を深刻に侵害するとし、敷設を強行するならば適切な手段を発動して南満洲鉄道の利益を守護すると威嚇した。  

そして1905年以後、朝鮮の保護国を自任した日本は間島朝鮮人の保護を名目に、朝鮮統監府内に間島派出所を設置する。当然ながら中国側は、領土主権に対する侵害だと反発した。日本も譲らず、朝鮮統監府の名で、間島が朝鮮の領土であることを明確に主張した。 中国と日本の重要な利権問題の真っ只中に、間島が位置を占めることになったのだ。

こうした状況のもとで、満州経営に関する日本の構想が具体化されていった。日本にとって、朝鮮縦貫鉄道の大陸連結は経済的にも軍事的にも、必須の課題となったのだ。中国に相応の代価を提供してでも、鉄道と鉱山の利権を取りまとめる方案が具体化されていった。  

1909年2月6日、清国外務部に中国駐在日本公使、伊集院彦吉の提案書が伝達された。中国の間島領有権を認める代わりに、満州における日本の鉄道敷設権と鉱山開発権の拡大を求める内容だった。清国は日本の提案を受け入れる。1909年9月4日、日清両国は「間島協約」を結び、粛宗(李氏朝鮮の第19代国王)以後、160年間余り続いてきた朝中の国境問題を整理した。

日本は「間島協約」により、吉会鉄道の敷設権を確保した。吉会鉄道とは、朝鮮の会寧(フェリョン)と満州の吉林省を連結する路線だ。ようやく日本は、京釜(キョンブ)線と京義(キョンウィ)線を繋ぐ朝鮮の縦貫鉄道を、満州にまで拡張させることになったのだ。間島の領有権を清国に渡したとしても、鉄道さえ保有していれば実質的な支配ができるという日本の野心は、満州全域での鉄道拡張に全力を尽くすことに向けられた。  

“朝鮮と清の国境は図們川(現在の豆満江)であり、大日本帝国政府は間島を清国の領土と認定し、将来は吉長鉄道を延長して会寧で朝鮮の鉄道と連結する”というのが、「間島協約」の内容だった。朝鮮統監はこの協約を10月27日、朝鮮内閣総理大臣・李完用(イ・ワニヨン)に通告した。11月9日、李完用は朝鮮政府が「間島協約」を承認するとの意思を朝鮮統監に伝えた。その結果、満州の朝鮮人は中国領土における不法滞留者という身分に転落した。  

朝鮮人が、苦労の末に築きあげた生活基盤への権利が消滅したのだ。1910年の強制併合後には、国籍さえ不明なディアスポラの身分になった。それでも朝鮮人の移住人口は増え続けた。植民地の民となった朝鮮人は満州への移住を続け、1933年には間島総人口の80%、約41万5000人を越えるまでになった。

これら満州の朝鮮人たちは、中国人から見ると異邦人であり、帝国日本の下手人だった。 日本人からすれば満州は、朝鮮本土に比べ統治力が及ばぬ地域なので、朝鮮独立の不純な運動が起こり得る‘背後基地’だった。強力な対処が必要な地域と見なしていたわけだ。日本は中国との衝突に朝鮮人を利用するなど、巧妙に中国人と朝鮮人の仲を裂き、葛藤と対立の関係を作り上げた。

マキャベリは、次のように教えている。「他国を征服して領土を併合した際に、当該地の人々が自身の固有な言語・慣習・制度を保有し続けているならば、その領土を維持するためには、大変な労力と勤勉さが要求される」と。マキャベリは『君主論』で、征服した国家を統治する方式に関して、三つの類型を紹介している。

最も効果的な方法は、君主自身が征服地に行って親しく定住することだ。現地で暮らせば、解決が不可能になった時にしか知ることのできない諸問題についても、間を置かず正しく対処できるからだ。次善の策は、征服した国家に移民団を送ることだ。移民団による植民地建設は費用も多く要らない。先住民に対しても、移民にともなう被害者とそうではない人々を分離させることができ、結果として植民地母国に対する抵抗を減らすことができる。

最も好ましくない方法は、軍隊を派遣して強圧的に支配することだ。征服者は、植民地から得た利益の相当部分を軍備に使用しなければならず、実質的な損害を被ることになる。軍隊による統治下の民心は荒廃し、その地域のすべての住民が征服者に敵対的となる。

アメリカがイラクやアフガニスタンで、どん底に陥って四苦八苦しているのは、マキャベリが挙げた最悪の方法を選択したからかもしれない。日本は次善策を選択した。政府が自ら、朝鮮と満州への移民を国策として奨励したのだ。  

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
「間島」について (pcflily)
2015-03-08 20:27:13
「間島」について、初めて知りました。日本国の強引な無理圧状はいたるところで繰り広げられたのですね。
返信する
Unknown (黒坂)
2021-07-21 01:18:01
地図がどうやら間違っているようです、あまり重要な箇所ではありませんが……
返信する

コメントを投稿