NPO法人 三千里鐵道 

NPO法人 三千里鐵道のブログです。記事下のコメントをクリックしていただくとコメント記入欄が出ます。

“カリブ海の真珠”、キューバの偉大な勝利を祝して

2015年04月23日 | 三千里コラム

第7回米州首脳会議で会談するラウル・カストロ議長とオバマ大統領(4.11,パナマ)


朴槿恵大統領は4月16日~27日の日程で、中南米の4カ国(コロンビア・ペルー・チリ・ブラジル)を訪問中です。中南米で今、最も注目を集めているのはキューバでしょう。4月11日、パナマで第7回米州首脳会議が開催され、キューバのラウル・カストロ国家評議会議長とオバマ米大統領が首脳会談をしました。両国首脳の会談は1961年の国交断絶から、54年ぶりのことです。そして14日には、オバマ大統領がキューバを「テロ支援国リスト」から除外すると表明しました。

米政府がキューバを「テロ支援国」に指名したのは、レーガン政権期の1982年でした。“キューバが中南米地域での暴力革命を支援している”というのが理由です。しかし、米国こそが「真のテロ支援国」であることを、この地域の現代史は如実に示しています。1954年のグァテマラ・アルベンズ政権転覆を始め、1973年のチリ・アイェンデ政権崩壊工作、そして80年代を通じて中南米諸国に対する残忍な国家テロを頻繁に展開したのは、他ならぬアメリカ政府だったからです。

キューバに対するアメリカ政府の「経済制裁」は1962年から始まりました。その解除には米議会の承認が前提なので、少し日数を要することでしょう。しかし、アメリカとキューバの関係改善は、もはや誰にも押し止めることができない現実となりました。

韓国はキューバと1949年に修好しましたが、1958年のキューバ革命を期に、アメリカに倣って断交しています。当然ながら、今回の朴大統領訪問国にキューバは含まれていません。セウォル号惨事の1周忌から逃げるようにしての外遊ですが、どうせなら、アメリカに先んじてキューバを訪問してほしかったものです。強大国に囲まれ困難な外交課題を抱える韓国の指導者として、学ぶことも少なくなかったと思うのですが...。

今回の歴史的な事変について、韓国の進歩メディア『プレシアン』が4月16日付で論評を掲載しました(http://www.pressian.com/news/article.html?no=125710)。その要訳を以下に紹介します。(JHK)


カリブ海の小国(面積:11万平方キロメートル、人口:1100万人)キューバが、世界最強国アメリカからの半世紀以上も続いた抑圧と妨害に耐え抜いて、社会主義という自分たちが選択した生活方式を維持したまま、ついにアメリカの認定、いや、事実上の降伏を勝ち取ることで国際社会に華々しく復帰したのです。

まず、キューバの国際社会復帰はオバマの善意によるものではありません。アメリカが、キューバの国際社会復帰を受け入れるしかないまでに、苦境に追い込まれていたからです。 昨年12月にオバマが語ったように“50余年間も続いた(対キューバ封鎖)政策が成果を出せなかったとすれば、その政策は変更されるべき”だということです。

加えて、2012年の第6回米州首脳会議では、主催国コロンビアのサントス大統領をはじめ中南米の33会員国すべてが、キューバの出席を要求した事実を考慮すべきです。 当時、キューバの米州首脳会議出席を拒否した国は、アメリカとカナダの二国だけでした。 これを見たアメリカの良心的な知識人ノーム・チョムスキーが、“アメリカがキューバの出席を引き続き拒否するなら、次の米州首脳会議ではアメリカが追い出されることになるだろう”と批判したほどです。中南米諸国の終始一貫した要求を、アメリカがこれ以上は無視できなくなったのです。

コロンビアは中南米でアメリカと最も親近な国です。また、サントス大統領は決して左派指向ではありません。このような彼がキューバの参加を要求したことは、現在の中南米でキューバの占める地位がどのようなものかを示しています。一例として前回の首脳会議では、ボリビア・ニカラグア・ベネズエラなどが、次回会議にキューバが参加できないなら自分たちも欠席すると警告しています。

また、今回の会議でアルゼンチンの大統領は、“キューバの出席が実現したのは(アメリカの善意の結果ではなく) 去る50余年間、アメリカの経済封鎖に対抗したキューバ人民の不屈の闘争によるもの”と力説しました。エクアドルのラファエル・コレア大統領も“オバマの和解ジェスチャーは良いが、それだけでは不充分だ。去る半世紀の間、キューバ国民を困らせてきた「非人間的で不法な封鎖」を解除して、米軍が占領した(キューバの)グァンタナモ海軍基地を返還せよ”と要求しました。

また、ボリビアのエボ・モラレス大統領は“アメリカは貧しいキューバを助けようとする優しい天使ではない。去る50余年間の経済封鎖で、キューバに及ぼした被害を補償しなければならない”と述べました。そしてサントス・コロンビア大統領は、コロンビア武装革命軍(FARC)との平和交渉における、キューバの仲裁努力に謝意を表しています。

他の国々からも、自国の医者たちが行こうとしない貧困地域に医師を派遣して医療機関を設立したり、あるいはキューバ国内で医師と教育者を養成してくれたことに対して、謝意を表示しました。キューバの識字プログラムに対する賛辞も続きました。

しかし、キューバがこのように堂々とした主権国家、特に中南米の指導的国家に成長するまでには、何と380年間もの植民地支配と、150年にわたる苦難の独立闘争がありました。キューバは1514年から、スペインの植民地支配を受けました。19世紀の初期から中盤にかけて、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンなど南米地域の大部分が独立しましたが、キューバは解放されませんでした。「カリブ海の真珠」と呼ばれるキューバの独特な地政学的な比重のためです。

キューバの民衆は1868年から30年間も武装独立闘争を行いました。最初の武装抗争は1878年、不完全な休戦で終わりました。1879~80年の第2次蜂起やはり失敗し、1985年春に3回目の独立闘争が始まります。15歳で第1次独立抗争に参加してアメリカに亡命した、弁護士兼外交官であり詩人でもあったホセ・マルティ(1853-95)が指導者でした。

最初の戦闘で先鋒に立った彼は、スペイン軍の銃弾で犠牲となります。しかし彼は、その後も引き続きキューバ独立運動の指導者でした。1894年、亡命地ニューヨークでキューバ革命党を結成したマルティは“皆とともに、すべての人の善のために、人間の完全な尊厳を成し遂げるために、キューバ独立に献身しよう!”と訴えたのです。

1898年、キューバ人の勝利と独立が目前に近づいた時、突然アメリカが参戦します。「キューバの独立を助ける」という名分でしたが、実はキューバを支配するためでした。1898年2月15日に起きた米軍艦メイン号の‘疑問の爆発’を口実に、アメリカは4月25日、スペインとの戦争に突入しました。8月12日に勝利したアメリカは、キューバとフィリピンをスペインから奪います。

米軍の戦死者が385人に過ぎなかったことから、アメリカはこの戦争を‘栄光の小戦争’と称賛しています。スペインは交渉による平和を追求しましたが、アメリカは最後まで戦争に固執しました。交渉で問題が解決されてしまうと、キューバの独立を許容するしかなかったためです。1898年にキューバを軍事占領したアメリカは、キューバの全独立勢力を武装解除させ、軍政を施行します。そして1902年、自国の『プラット法』を強要しました。

この法律の内容は、呆れるほど厚顔無恥なものでした。①キューバに米軍事基地(グァンタナモ)を維持する、②アメリカはキューバと他国間の条約に拒否権を持つ、③アメリカはキューバ財務部に対する監督権を持つ、④アメリカは‘キューバの独立、生命と財産、個人的自由を守る適切な政府を維持するため’に、キューバの内政に干渉する権利を持つ、というのです。一言で1905年、日本が朝鮮に強要した『乙巳保護条約』と同じです。

『プラット法』の内容を盛り込んだキューバ憲法は、占領米軍によって選出されたキューバ議員31人の表決によって、15対14で通過します。それ以後、1959年のキューバ革命までアメリカは、キューバを思いのままに支配しました。1902年当時の米軍総督だったレオナード・ウッド将軍は、友人への書簡で“もちろん『プラット法』下のキューバに、独立などはあり得ない”と語っています。アメリカはこのように、キューバ民衆が30年に及ぶ武装闘争で得た独立を横取りしたのです。

つまり、キューバは380年間のスペイン植民地支配、60年にわたるアメリカの間接支配、そして50年余りのアメリカによる封鎖を打ち破り、ついに真の自由と独立を勝ち取ったのです。実に“500年ぶりの解放”といえます。

今回の米州首脳会議でラウル・カストロ議長は、「私たちのアメリカ(Our America)」という主題で49分間の演説をしました。本来、各国首脳の演説時間は8分です。キューバが参加できなかった、以前の6度にわたる首脳会談の分まで含めての時間でした。その主な内容を以下に要約します。

“私たちはその間、無数の苦境に耐えてきました。キューバ国民の77%が、アメリカの経済封鎖以後に生まれた世代です。私はオバマ大統領に、相互尊重の精神で対話に臨むことを約束しました。また、両国の甚大な差異を認め尊重しあうこと、品位を失わない共存のために努力することを強調しました。オバマ大統領の勇敢な決定に賛辞を送ります。私たちはキューバ式社会主義の改善に向けて経済モデルを革新し、すべての正義を成し遂げるという信念で開始した革命の成果を強固にして、一層発展させるために努力するでしょう。”

“ベネズエラに対する経済制裁は解除されなねばなりません(アメリカはベネズエラがアメリカの安保および対外政策に重大な脅威だとして、3月9日、オバマ大統領の行政命令で同国への経済制裁を断行:筆者注)。ベネズエラはアメリカの脅威になりません。行政命令の解除をオバマ大統領に要求します。また、フォークランドをはじめとして、英国に奪われたアルゼンチンの領土回復を促します。”

“2014年1月にハバナで開かれたCELAC(ラテンアメリカ・カリブ海国家共同体) 第2回首脳会談では、中南米およびカリブ海地域を平和地域と宣言しました。私たちは多様性の中の団結を追求すると共に、「国家間の平和的共存を確保するための核心的条件として、各国が自身の政治、経済、社会、文化システムを選択する譲渡できない権利」を認めて、「他国の内政に直間接的に干渉しない義務、国家主権の尊重、そして各民族が自身の運命を自由に決める対等な権利」を追求することでしょう。”

“私たちはこの宣言が志向する「善良な隣人として、寛容の精神で平和のうちに共存すること」を追求するでしょう。もちろん、多くの実質的な差異があります。しかし、平和と人類の生存を威嚇するあらゆる危険の中に、私たちが共に協力するように働きかける共通点もあるのです。”

“キューバは、これといった自然資源もない小さな国です。その間、キューバは極度に敵対的な環境の中でも、国民が国家の政治社会的政策に全面参加するよう努めてきました。普遍的で無償の医療および教育システム、国民全体に助けとなる社会安全システム、同等な機会の提供とすべての差別を除去するための努力、女性および子供の権利の全面的保障、誰でもスポーツと文化生活を楽しみながら公衆の安全を享受できる権利のために、努力してきました。”

“乏しい資源と途方もない挑戦にもかかわらず、私たちは「分かち合い」の原則を守ってきました。現在、6万5千人に及ぶキューバのボランティアメンバーが89カ国で、主に医療と教育の分野で活動しています。また、157カ国6万8千人の外国市民がキューバで専門職の教育を受けたし、このうち3万人は保健分野で活動しています。”

“資源の殆どないキューバがこのようなことを成し遂げたのですから、西半球のすべての国家が力を合わせるなら、貧しい人たちのために、どれほど多くの成果を達成できることでしょうか!”

“フィデル・カストロと英雄的キューバ市民に感謝の気持ちを伝えます。私たちはホセ・マルティの献身に敬意を表わすために、今回の首脳会議に参加しました。彼は次のように話しました。「私たちの手で自由を勝ち取った後、私たちのアメリカに誇りを持とう。その能力は愛を受け、その犠牲は尊敬を得られるように、決意と能力をつくしてアメリカを守り育てて行こう!」。”


読者の皆さん、ラウル・カストロ議長の演説はいかがでしたか? 国家指導者の品格とビジョンが伝わってきませんか? セウォル号の惨事から1周年。遺族の悲嘆と嗚咽が終わらないなか、朴槿恵大統領は逃げるように中南米へと出国しました。彼女は果たして、今回の歴訪で中南米諸国の「自主と連帯の精神」を学ぶのでしょうか...。

「ソン・ワンジョン(成完鍾)リスト」が暴く朴槿恵政権の裏金

2015年04月16日 | 三千里コラム

『慶南企業』前会長、ソン・ワンジョン(成完鍾)氏の記者会見(4.8,ソウル)


韓国の政界は今、自殺した企業家が残したインタビューとメモの真偽をめぐり、前代未聞の混乱ぶりを呈している。企業家の名はソン・ワンジョン(成完鍾)。『慶南(キョンナム)企業』の会長で、与党の前国会議員だった。『慶南企業』は李明博政権期に急成長を遂げる。その秘訣は、資源開発の名目で政府から膨大な資金供与を受け、その一部を裏金として政権中枢部に返還するのだ。典型的な政経癒着といえるだろう。一方、支持率低下に苦しむ政権の常套手段であるが、朴槿恵政権も前政権の不正腐敗を摘発することで人気回復を図ろうとした。その標的となったのがソン・ワンジョン氏だ。

イ・ワング(李完九)首相は3月12日、就任後初めての談話を発表し“いかなる代価を払っても不正腐敗を抜本的に根絶する”と宣言した。‘清算’しなければならない不正腐敗の一例として挙げたのが、「海外資源の開発をめぐる業務上背任と不良投資」だった。6日後に検察は、『韓国石油公社』と『慶南企業』を電撃的に押収捜索する。『慶南企業』が国外での石油開発事業を名目に、政府から350億ウォン以上の「成功払い融資」を受けたが、このうち数十億ウォンをソン会長が着服したというのだ。

「成功払い融資」とは、国外資源の開発事業に関わる企業がビジネスに失敗した場合、政府が貸した融資金の全額あるいは一部を減免する(成功した時は融資金より多い金額を返済)制度である。周知のように、李明博政権が展開した国外資源開発はことごとく失敗し、国家財政に甚大な損失をもたらした。反面、利益を得たのは「成功払い融資」を受けた企業と、その裏金を手にした政治家たちである。

4月3日、検察はソン前会長(3月17日に経営権を放棄)を召還し、3日後には拘束令状を請求した。「会社の資金250億ウォンを横領しただけでなく、9500億ウォン規模の会計操作によって約800億ウォンの不当貸し出しを受けた」との嫌疑が掛けられている(特定経済犯罪加重処罰法の横領・詐欺、資本市場法違反)。これに対しソン前会長は、地裁での拘束令状審査を翌日に控えた4月8日、ソウル市中区の『全国銀行連合会館』で記者会見を開き、憤懣を訴えた。

彼は“私は李明博政府の被害者である。2012年の大統領選挙では、朴槿恵候補の当選に渾身の力で奉仕した。その私が、前政府に対する捜査の標的になっているのだ。”と主張している。‘李明博政権の被害者’というのは弁明にすぎないが、政経癒着を地で行く政商の常として、彼は朴槿恵政権の重鎮たちとも昵懇な関係を維持していたのだろう。

拘束令状の適否審査が予定されていた4月9日未明、ソン前会長は遺書を残して家を出た後、北漢山で自ら命を絶った。だが、彼は自宅を出た直後の明け方6時頃、『京郷新聞』に電話して、その間の経緯と自身の率直な心情を吐露している。その録音内容が翌日に公開されたのだ。

“キム・ギチュンが2006年9月、VIP(朴槿恵大統領)に随行してドイツに行った際に、10万ドルを手渡した。場所はロッテホテルのヘルスクラブだ。2007年当時、ホ・テヨル党本部長と江南(カンナム)のリベラホテルで会って、(大統領候補の党内予備選費用)7億ウォンを3~4回に分けて現金で渡した。お金は部下が持参し、私が直接に手渡した。”といった内容だ。自身が李明博派ではなく朴槿恵派の要人であることを、具体的な情況で裏付けようとしたのだろう。ちなみに、キム・ギチュンは先日まで大統領秘書室長として豪腕を振るったし、党本部長だったホ・テヨルはその後、朴槿恵大統領の初代秘書室長に任命されている。

翌日の10日には、更に決定的な‘物証’が検察から公表された。ソン前会長の遺体を検視したところ、所持品から一枚のメモ紙が出てきたのだ。メモ紙には“キム・ギチュン:10万ドル、ホ・テヨル:7億ウォン、ユ・ジョンボク仁川市長:3億ウォン、ホン・ムンジョン議員(セヌリ党)2億ウォン、ホン・ジュンピョ慶尚南道知事:1億ウォン、釜山市長:2億ウォン”等、人名と金額が明記されている。また、イ・ビョンキ大統領秘書室長とイ・ワング首相の名前も記されているが、金額は書かれていない。

「ソン・ワンジョン(成完鍾)リスト」に名前が乗った政治家たちは一様に、“事実無根。荒唐無稽な小説”と否定している。‘死人に口なし’と言わんばかりである。だが、死を覚悟した人間の証言は重い。見捨てられた者としての‘恨み節’はあっても、命懸けで虚言を弄するとは考え難いからだ。リストに挙がった8人のうち、特に「不正一掃」を陣頭指揮してきたイ・ワング首相にとって、事態は極めて不利な展開となっている。『京郷新聞』社が4月14日、ソン前会長との通話内容を追加で公開したのだ。“不正摘発の対象者なのに、その人物が先頭に立って不正摘発を叫んでいる。イ・ワングには随分と尽くしてやったけど、彼は欲深くて人を利用することしか考えない。”と露骨に貶されただけでなく、“2013年の国会議員補欠選挙で、イ・ワング候補に3000万ウォンを手渡した”との具体的な内容が収録されている。

国会答弁で首相は、“何一つ恥じることなく、40年間の公職生活を全うしてきた。ソン前会長とは親しい仲でもなかった。裏金をもらった証拠が出てきたら、命を懸ける”と豪語した。だが、国民が望むのは無能な首相の‘命’ではない。徹底した‘真相の究明’だ。4月12日、朴槿恵大統領は検察に“聖域を設けず厳正に対処せよ”と命じた。検察総長は早速に「特別捜査チーム」を発足させたが、キム・ジンテ総長の導く検察が果たして‘聖域’を打破できるのだろうか。容易ではないだろう。なぜなら、‘聖域’を作った張本人が朴槿恵大統領であり、最大の‘聖域’も大統領自身に他ならないからだ。

国家情報院の大統領選挙介入事件を捜査する過程で、捜査チームのトップが左遷され検察総長が辞任した。その後釜が現キム・ジンテ総長だ。彼は国家情報院の選挙介入捜査で、本質に迫ろうとはしなかった。昨年に物議をかもした「非公式ラインの国政介入(大統領官邸の公文書流出)捜査」でも、‘聖域’は健在だった。核心とみなされた朴大統領の側近補佐官3人組とキム・ギチュン秘書室長は、捜査の対象ですらなかった。検察は大統領が指示したガイドライン通りに、‘文書の内容は虚偽であり、職員の違法行為で文書が流出した’との結論で捜査に幕を下ろした。

「ソン・ワンジョン(成完鍾)リスト」に挙がった人物は、まさしく権力中枢部に布陣する重鎮であり‘聖域’だ。前職大統領秘書室長2人と現職の大統領秘書室長。そして現職の首相。自治体長も3人…。何よりも、ソン前会長が提供した裏金の大半は、朴槿恵大統領(候補)の選挙資金もしくは政治資金として使用されている。であるなら、大統領官邸が今回の事態を“側近の個人的な不正と非理”に縮小することは、甚だしい欺瞞と言わざるを得まい。本質は、朴槿恵大統領の‘政治資金スキャンダル’である。

コラムを書いているうちに日付が変わってしまった。4月16日、セウォル号の惨事から1年を迎える。しかし、船体の引き揚げはなされず、遺体(9人)の収容も終わっていない。そして、遺族が求め続ける惨事の真相究明は、一向に進んでいない。今日の午後、朴槿恵大統領は中南米4カ国を訪問するために出国する。“コロンビア大統領のたっての願い”で、16日に決めたそうだ。セウォル号の遺族はこの1年間、光化門広場で断食し、大統領官邸前で連座デモを続け、剃髪までしながら、大統領との面会という“たっての願い”を叫んできた。朴槿恵大統領、あなたはこの日、コロンビアの大統領ではなく、セウォル号の遺族たちと共に過ごすべきでした(JHK)。

あの日から40年-朴槿恵大統領にとっての1975年4月9日

2015年04月10日 | 三千里コラム

夫の遺影を見つめるイ・ヨンギョさん(2015.4.7、大邱市の病院で)


40年前の1975年4月9日未明、ソウル拘置所で「人民革命党再建委事件」のト・イェジョン氏ら8人に対し、死刑が執行されました。前日に大法院(最高裁)で上告が棄却され死刑判決が確定してから、わずか18時間後のことです。

当時の朴正煕政権は大統領緊急措置令を乱発して、長期独裁に抗議する学生や民主人士を弾圧していました。それだけでなく、進歩勢力を“北朝鮮の指令で動く反国家分子”に仕立てて、反共法・国家保安法で重刑を科していたことは周知の事実です。

「人民革命党再建委員会」の実体はなく、1974年4月3日に発生した「全国民主青年学生総連盟(民青学連)」事件の背後勢力として捏造されたものでした。中央情報部による凄惨な拷問によって事件が捏造され、独裁政権の忠犬でしかなかった検察と司法部は、シナリオ通りに起訴と判決、そして死刑を執行したのです。

盧武鉉政権末期の2007年1月23日、人民革命党事件の再審で無罪が宣告されました。“司法による殺人”から32年後のことです。しかし、遅まきの「無罪」で8名の尊い犠牲を償うことはできません。また、拷問と虐殺に関わった捜査官・検事・判事の誰一人として、その責任を問われることもありませんでした。

それどころか、独裁者の娘が大統領職を担当して2年が経過した今、韓国社会の民主主義は目を覆わんばかりに後退しました。何よりも司法の堕落ぶりは、維新時代(朴正煕政権)に回帰したのではと錯覚するほどです。

「朴正煕政権期の大統領緊急措置令は憲法違反である」との司法判断が、朴槿恵政権の下で徐々に修正されようとしています。3月26日、緊急措置令で不当拘束された被害者の民事訴訟上告審で、大法院は高裁審の判決を覆し原告への国家賠償支給を認めませんでした。大統領緊急措置の発令は“高度の政治性を帯びた国家行為であり、こうした権力行使は、国民に対する民事上の不法行為を構成するとは見なせない”と言うのです。

父親の名誉回復を願う孝行娘のひたむきな心情が成せる技でしょうか、独裁政権に免罪符を与える判決が相次いでいます。4月8日、ソウル高裁民事33部で、緊急措置第1号違反者として投獄されたペク・キワン(83)氏が提訴した損害賠償請求の判決がありました。法廷は国家の賠償責任(2億1600万ウォン)を認めた1審を覆し、原告の敗訴を判決したのです。

裁判所は“大統領緊急措置第1号の発令行為が、それ自体として国家賠償法第2条第1項に掲げる公務員の故意、または過失による不法行為には該当しない”と判示しています。さらに、“捜査する過程で中央情報部要員の暴行、苛酷な行為があった事実は認められるが、このような不法行為に対する損害賠償請求権は時効が過ぎて消滅した”と説明しました。

4月7日、国会では新任の大法院裁判官候補者に対する人事聴聞会が開かれました。候補者の名はパク・サンオク。1987年1月に起きたソウル大生(パク・ジョンチョル君)拷問致死事件の担当検事でした。この事件は同年6月、全国に拡大した民主抗争の発端となりました。そしてパク・サンオク候補者は、事件捜査の隠蔽と縮小に関わったとの疑惑を受けています。

聴聞会は難航しました。法務部が野党の要求する事件記録の全面公開に応じなかったからです。候補者は“捜査の隠蔽に関わった事実はない。記憶にない”と否認を続け、聴聞会で真相は究明されませんでした。このような人物が大法院の裁判官に任命されることは、民主化運動を冒涜することに他なりません。大法院の保守化傾向は更に進むことでしょう。

話を人民革命党事件に戻しましょう。犠牲となった8名の一人、ハ・ジェワン氏(当時、44才)の妻であるイ・ヨンギョさんを取材した4月9日付『ハンギョレ新聞』の記事を紹介します。遺族にとっての、40年という歳月の重みを感じざるを得ません。(JHK)


“朴正煕も晩年には、人民革命党事件を後悔したそうだね。でも、最近は維新時代が再びやってきたような気がするよ。時局は不安で怪しげな事件が続くし...。政治の話をするのがどうも怖い。”

イ・ヨンギョさん(78才)にとって、1975年4月9日以降の40年、1万4600日は、一日として苦痛と怨恨から抜け出すことのできない日々だった。

“酷い時代だったよ。夫が死刑になって40年が過ぎたけど、まだ昨日のような気がする。1審で死刑が宣告されると、夫は後に座った私の方を振り向いて、首を横に振ってうっすらと笑いましたよ。”

法廷で夫がひと目で自分に気づくようにと、いつも同じ服を着たというイ・ヨンギョさんは、大法院の判決当時を思い出すと今でもあきれるしかないと語った。

“夫の顔でも見ようと法廷に行ったけど、被告人も出席させずに‘上告棄却、死刑’と判決したんですよ。家族が泣き叫んで抗議すると、判事たちは逃げるように法廷を出て行きました。”

再審請求の話し合いで一睡もせずに夜を明かした後、家族たちは夫の面会にソウル拘置所へと向かった。

“‘面会謝絶’と書いてあったので問い詰めたところ、刑務官が‘アカの死刑囚のくせにガタガタ言うな’と怒鳴ります。後で分かったんだけど、その時にはもう死刑が執行されていたのです。”

夫の死後、イさんと5人の子供たちの人生には‘真っ赤な烙印’が押された。近所の人達の蔑視と冷遇は、形を変えた‘刑罰’だった。

“近所の子供たちが末の息子を樹に縛りつけて‘アカの子どもは銃殺だ!’と囃すのです。息子の首に紐を結んで引きずり廻すんです。学校が終わって家に帰る三女の後を追いかけてきて‘お前の父ちゃんスパイだろ!’ってからかうんだよ。そんな子供たちに、アイスキャンディーを買ったげて‘この子の父ちゃんはそんな人じゃないよ’となだめるんだけど、あの時は本当に死んでしまいたかったよ。”

2007年、再審で夫に‘無罪’が宣告されたが、かえって虚しかったという。“もともと無罪な夫を、なぜ殺したのか?”という思いが頭から離れなかったそうだ。どういうわけか足が宙に浮くような感じがして、しょっちゅう倒れるというイさんは、最近になって腕と脚を骨折した。それで、夫の40周期追慕の集いにも参加できない。

『民族共同行事準備委員会』の発足

2015年04月03日 | 三千里コラム

『光復70周年、6.15共同宣言発表15周年、民族共同行事準備委員会』の発足式(4.1,ソウル)


4月1日午前11時、ソウル市内のプレスセンターで『光復70周年、6.15共同宣言発表15周年、民族共同行事準備委員会(以下、民族共同行事準備委)』の発足記者会見が開かれました。南北当局間の対話が中断して久しいです。歴史的な節目である2015年も、すでに4月を迎えました。敵対状況のままで月日を過ごすわけにはいきません。民間の次元で始まった民族共同行事への意志を分かちあう意味で、同日付『統一ニュース』の記事を要訳して紹介します。(JHK)


 民族共同行事準備委に名を連ねた各界192人の発起人たちは、“6.15共同宣言発表15周年の6月15日、光復(解放)70周年である8月15日などの歴史的記念日に、中断されていた民族共同行事を再び推進したい”と明らかにした。

一同は記者会見で“私たちは今日、宗教界・市民社会・南北経済協力企業・民族団体・歴史団体と、女性・労働・農民・青年など各界各層および地域を網羅して『光復70周年、6.15共同宣言発表15周年、民族共同行事準備委員会』を発足する”と高らかに宣言した。

民族共同行事準備委はこの日、『6.15共同宣言実践北側委員会』が3月27日付で『南側委員会』と『海外側委員会』に送信した文書を公開している。それによると、『北側委員会』は“祖国の平和と統一を望む北・南・海外の全同胞は力を合わせて現在の難局を打開し、必ずや6.15共同宣言による統一時代を切り開かねばならない。南側委員会の民族共同行事開催提案に同意する”と表明した。

「6.15民族共同行事」は6月14~16日、ソウルで開催される予定だ。南側代表団の相当数を、一般国民の参加者が占めるという。そして、離散家族や日帝植民地統治による被害者および遺族も、代表団に含まれる。また、北側と海外側でもこれに相応する代表団を構成するように要請したという。

主な行事は、①14日午後、南北合同公演による「祝賀文化祭」、②15日午前、「6.15共同宣言発表15周年記念、民族統一大会」、③15日午後、「歴史に関する南北共同討論会」(南北海外の植民地統治被害者が証言)、などである。

一同は、“6.15共同宣言の15周年共同行事を成功させるために、南北の政府当局が積極的に対話して協議することを、切に要請する。数年間も行き詰まったままの南北関係を打開するには、これまでとは違う新しくて多様な試みと、より多くの各界の参加が必須である”と訴えた。

民族共同行事準備委の常任代表に選出されたのは、『6.15共同宣言実践南側委員会』のイ・チャンボク常任代表議長だ。彼は開会辞で“もし今回、ソウルでの6.15民族共同行事が失敗するならば、光復節の行事も開催が難しいだろう。分断70年、光復70年を迎えて南北関係を変換させる絶好の歴史的な機会を失うことになる。かつてない悲壮な覚悟で、ソウルでの共同行事を必ず成功させるように最善をつくす”と決意を表明した。

また、イ・ジョンフン『金剛山企業協議会』会長は、「5.24措置」の解除と金剛山観光事業の再開を韓国政府に促した。そして、パク・ソクミン『民主労組』統一委員長が「南北労働者統一サッカー大会」の進行状況を、全南大学のキム・ハンソン総学生会長は、「統一ユニバーシアード大会」の準備状況について説明した。

民族共同行事準備委の報道官に選出されたイ・スンファン氏は、“東アジア情勢が激動する重大な時期に民間が先頭に立って、南北関係を打開し光復70年の歴史的意味を全ての同胞と共有するための準備委員会を設けたことは、非常に意味深いことだ。今日で結成が終わったのではない。より多くの方々が参加できるように努力し、広くて豊かな準備委員会を作りたい”と語った。

彼はまた、“6.15行事が実現するためには、北と海外代表団の安全問題など南北当局間の協議が必要だ。南北の政府間協議が速やかに開催されるよう、あらゆる努力を惜しまない”と表明した。


<記者会見文-「民」が先ず‘分断をつなぐ架け橋’になります>


解放70年であり6.15共同宣言発表15周年をむかえる今年を、朝鮮半島の平和と南北関係改善の歴史的転機に作ろうという要請と期待が、各界で響きわたっています。
しかし、このような各界の願いにもかかわらず、朝鮮半島の軍事的緊張は絶えることがありません。南北は、持続的な対話どころか往来さえまともにできないのが、今日の恥ずかしい現実です。

長い分断の歳月に累積してきた敵対と対決の弊害が、一日にして解決されることは難しいでしょう。かと言って、何の出会いも約束もなしにそのまま歳月を浪費しては、民族の念願である平和と統一は決して実現されません。

光復70年であり分断70年、南北と海外の同胞が意と心を集めることができる歴史的契機を逃してはなりません。この機会を失えば、南北の対決と葛藤はより一層増幅され、朝鮮半島の分断を前提とした東アジアの冷戦秩序は、ますます固着されることになります。

今こそ「民」の出番です。「民」が先頭に立って‘出会いの架け橋’を築きます。「民」が先ず‘分断をつなぐ架け橋’になりましょう。

そのために私たちは今年、6.15共同宣言発表15周年の6月15日と、光復70周年である8月15日の歴史的記念日に、中断されていた民族共同行事を再び推進したいと考えています。南北の民族共同行事を通じて‘分断をつなぐ小さな橋’を架け、その架け橋を渡ってより多くの出会いが生まれるように、「民」が先に始めます。

この出会いを準備するために今日、私たちは宗教界・市民社会・南北経済協力企業・民族団体・歴史団体と、女性・労働・農民・青年など各界各層および地域を網羅した『光復70周年、6.15共同宣言発表15周年、民族共同行事準備委員会』を発足します。

今年最初の民族共同行事は6月15日、ソウルで開催します。北側と海外側もソウルで開催することに対して、すでに原則的な同意を表明しました。参加規模と詳細なプログラムなど具体的な内容は、4月末に南北海外の代表が会って協議し確定するでしょう。

もし今回の民族共同行事が実現するなら、7年ぶりに南北が一堂に会するわけです。ソウルには何と、10年ぶりに北の民間代表団が訪ねてくることになります。

私たちは6.15民族共同行事を成功裏に開催するために、慎重かつ万全に準備を始めることでしょう。各界の市民の皆さんも、南を訪問する北側の代表を‘平和の使節’として暖かく歓迎して下さい。そして、共同行事に積極的に参加されるよう要請します。

共同行事の成功には、何よりも南北当局次元での協力と配慮が肝要です。私たちは6.15共同宣言15周年の共同行事を成功させるために、南北の政府当局が積極的に対話して協議することを、切に要請します。また、ソウルで行事を開催するだけに、わが政府とソウル市の積極的な協力と配慮を期待します。

6.15共同行事の成功に基づいて、私たちは光復70周年の民族共同行事を、より一層盛大で熱気あふれる民族祝典として開催するでしょう。6.15共同行事と光復70周年の民族共同行事が成功するならば、南北関係はこれまでとは質的に異なる、新しい協力関係に発展していくことでしょう。

数年間も行き詰まったままの南北関係を打開するには、これまでとは違う新しくて多様な試みと、より多くの各界の参加が必須です。南北関係の発展と朝鮮半島の平和構築に向けて、政派と理念の違いが問題になることがあってはなりません。私たちはより多くの参加、より多くの出会いのためならば、いかなる努力も惜しまないでしょう。

再度、各界と国民皆さんの関心と参加を、切に訴える次第です。

2015年4月1日
『光復70周年、6.15共同宣言発表15周年、民族共同行事準備委員会』