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日本軍「慰安婦」は“人身売買”の被害者?-安部首相の米紙インタビュー

2015年03月30日 | 三千里コラム

安倍首相の国会答弁(3月30日、衆議院予算委員会)


安倍晋三首相が4月26日から5月3日まで訪米する。4月28日には、オバマ大統領とホワイトハウスで会談する予定だ。そして米下院のベイナー議長(共和党)は3月26日、「安倍首相が4月29日に米議会の上下両院合同会議で演説する」と公表した。かつて、池田勇人・岸信介の両氏が下院で演説したことはあるが、両院合同会議での演説となると、日本の歴代首相としては初めてのことである。

同じく3月26日の夜、アメリカの有力紙『ワシントン・ポスト』電子版に、安倍首相のインタビュー記事が掲載された。インタビューの中で首相は、日本軍「慰安婦」問題について、“人身売買による被害者”と定義している。原文では「human trafficking」となっていたので、実際に首相が「人身売買」という言葉を使ったのか明らかではなかった。

しかし、30日の衆院予算委員会に出席した安部首相が、自らこの疑問に答えている。首相は「この問題については様々な議論がなされてきているところでございますが、その中において、人身売買についての議論も指摘されてきたのは事実でございました。その観点から、人身売買という言葉を使ったところでございます」と説明した。

「人身売買」の意味は、‘女性や児童を性的搾取や強制労働の対象とするために、さまざまな強制的手段を動員して本人の意志に反して売買する行為’と解釈できるだろう。では、旧日本軍による「慰安婦」制度を、「人身売買」と規定することは適切なのだろうか。

首相がこの用語を選択した理由を、『読売新聞』は的確に指摘している。「日本語の『人身売買』は旧日本軍が直接女性を連行したという強制性とは違う印象だが、英語の『human trafficking』には強制連行の意味がある。安倍首相が過去を否定していないことを示そうという意図がある」と報道している。巧妙にも、日本と米国では違ったニュアンスで解釈される言葉を見つけ出したわけだ。

日本政府の高官も28日、「人身売買には日本語の意味として強制連行は含まれない」と述べており(28日付『産経ニュース』電子版)、旧日本軍や官憲による強制連行説を否定する安部首相の信条を、そのまま反映した発言と理解すべきだろう。首相の意図は、「人身売買」が使用されたインタビューの文面を見ると一目瞭然である。彼は「人身売買の犠牲となり、筆舌に尽くしがたい痛みと苦しみを経験された人々を思うと心が痛む」と述べている。

だが、何よりも首相の発言には、人身売買の‘実行主体’が抜けている。日本軍「慰安婦」問題の核心は、募集過程から慰安所の設置・運営・管理に至るまで、日本軍が直接介入した事実を認めるところにある。ところが安倍首相は、実際にその犯罪行為を誰が犯したのかという、最も核心的な内容には触れていない。そのことで、「慰安婦」問題は民間業者の責任であって日本軍とは関係がない、とでも言わんばかりである。

「人身売買の犠牲となり、筆舌に尽くしがたい痛みと苦しみを経験された人々を思うと心が痛む」という首相の発言は、第三者的な立場からの個人的な憐憫と同情の表示に過ぎない。決して、加害国の政府を代表する謝罪と反省の言葉ではないのだ。

インタビューで首相は「歴史上で多くの戦争が発生し、そこでは女性たちの人権が侵害された」とも述べている。この発言の意図も明確であろう。‘従軍「慰安婦」問題は日本だけの問題ではない。戦時下では他の国々も同じような罪を犯した。なぜ日本だけが非難されるのか’という、駄々っ子のように稚拙な反論である。

「慰安婦」制度は日本軍が犯した‘特殊な事例’でなく、戦争に付随する‘普遍的な悲劇’なのだという論理のすり替えは、‘植民地獲得に奔走していた欧米列強と同じく、大日本帝国も朝鮮と台湾を植民地支配しただけ’という主張を彷彿させる。

人権の視点は、そのような責任回避を容認しない。いつ、どこであれ、女性を監禁し、軍人の性奴隷となることを際限なく強制した制度そのものを糾弾するのである。決して、日本軍「慰安婦」制度だけを糾弾しているのではない。日本政府が糾弾されるのは、その歴史的な事実に向きあおうとせず、責任回避に終始しているからだ。

安部首相が4月29日、米議会でどのような演説をするのか注視したい。日本軍「慰安婦」問題への言及を通じて、彼の歴史認識が検証されることになるだろう。同時に、上下両院議員たちの人権意識が問われる場でもある。「河野談話を踏まえている」という口先だけの反省に免罪符を与えるようなら、米国政府と議会は、「日米同盟強化」の国益を優先するあまり、「人間の尊厳」という根源的な価値を蔑ろにしたとの批難を免れまい。

想えば8年前の2007年7月31日、米下院は日本軍「慰安婦」制度を‘残虐性と規模において前例のない世紀の犯罪’と糾弾する『決議案121号』を満場一致で採択した。決議案は‘慰安婦の動員に強制性がなかったという日本首相の主張は強弁に過ぎない。公式声明を通じて謝罪せよ’と勧告した。その時も今も、日本の首相は、安倍晋三、まさに彼なのである。

「慰安婦」問題に関する安部首相の歴史認識には、何らの変化も見られない。
歴史は二度くり返すという。一度目は悲劇、二度目は喜劇として...。だが、これ以上は見たくもない喜劇である。(JHK)

韓国・中国・日本の三国外相会議

2015年03月23日 | 三千里コラム

三国外相会議(左から日本・韓国・中国の外相、3.21ソウル)



3月21日、韓国・中国・日本の三国外相会議が3年ぶりにソウルで開かれた。会議後の記者会見ではメディア向けの共同発表文も出されている。それによると、三国の首脳会談を「最も早期で都合のよい時期に開催すべく努力する」ことで一致したという。

日本政府は、懸案であった韓国・中国との関係改善において大きな前進だと自賛しているが、首脳会談開催への前途は多難なようだ。と言うのも、中国政府が安倍政権の歴史認識に深い疑念を抱いているからだ。

共同記者発表の場で中国の王毅外相は、「歴史の直視」という表現をくり返した。彼は冒頭発言で“正視歴史、開闢未来。この八文字が本日の会議における最も重要な合意だ”と述べ、華麗な外交文書に幻惑されてはならないとの意を明確にしている。

共同発表文にも「歴史を直視して未来に向かうとの精神を根本に」と表現されている。‘未来志向’の後半部だけにスポットを当てがちな日本政府の報道は、要注意なのである。その間、くり返し強調してきたように、中国政府は戦後70年の「安倍談話」を注視している。三国首脳会談の開催は、「安倍談話」の内容次第といえるだろう。

中国政府の立場を誤解しないために、王毅外相の発言をもう少し追ってみよう。共同記者発表の場で彼は、“終戦から70年を迎えるが、三国にとって歴史問題は過去形ではない。依然として現在進行形だが、今後も未来形となって障害になってはならない。”と警告を発した。

さらに21日の夜、中国メディアとの取材では、より明確に“歴史を直視することは、すなわち過去の侵略の史実と植民地支配を否定しないことだ。今年は日本にとってテストであり、機会でもある。日本がこの機会を捉え徹底的に過去を清算できるのか、われわれは目を凝らして注視している”と述べている。

一方、共同発表文には朝鮮半島の核問題に関する記述も盛られている。「朝鮮半島での核兵器開発を明確に反対する立場を再確認し、関連する安保理決議および9.19共同声明が定めた国際的義務と約束が誠実に履行されねばならない。...朝鮮半島非核化の実質的進展を成し遂げるために、6者会談の意味ある再開に向け共同の努力を継続していく」という内容だ。

韓国政府はこの点に関し、“三国外相会議の共同発表文で、北の核開発に反対する合意が記述されたのは初めてのことだ”と高く評価した。確かに中国政府は一貫して北朝鮮の核開発反対の立場を堅持し、国連安保理の制裁決議にも賛同している。しかし、一方的に北朝鮮の核放棄先行を主張しているわけではない。中国が常に6者会談の『9.19共同声明』を重視していることを看過してはなるまい。

2005年の第4回6者会談で採択された『9.19共同声明』は、双務的な内容である。北朝鮮に核放棄の先行義務を定めたものではない。米国が朝鮮戦争の平和協定締結に応じ、米日が北朝鮮との国交正常化を同時に推進するとの合意だった。また、核施設の解体に伴い、五カ国による対北エネルギー支援も含まれている。

北朝鮮が核開発に依拠しなくても自国の主権と安全を確保できる内容であったからこそ、共同声明が採択されたのだ。
中国はその原点に立ち戻ることを主張しているに過ぎない。「9.19共同声明の誠実な履行」と、「朝鮮半島非核化の実質的進展を成し遂げる6者会談の意味ある再開」が、共同発表文に明記された所以はそこにあるのだ。くれぐれも、‘我田引水’の解釈は禁物である。

最後に、今回の三国外相会議の背景には、米中の葛藤と対立があることにも触れておきたい。アメリカ政府は対中国包囲網の一環として、THHAD(終末高高度防衛ミサイル)システムの配備を推進している。当面の候補地は韓国と日本だ。日本では着々と導入準備が進んでいるが、韓国では市民の反対が高まっている。そして、中国政府の強い懸念表明に朴槿恵政権の苦悩は深まるばかりだ。

最大の貿易相手国である中国との経済関係を考慮するなら、安易にTHHADの導入を推進するわけにはいかない。かといって、‘命綱’である韓米軍事同盟を損傷するような行為は言語道断であろう。米政府の要求を拒否することは、まさに‘逆鱗’に触れることであるからだ。

そこで、妥協策として登場したのが、中国政府が推進するAIIB(アジア・インフラ投資銀行)への参加である。AIIBは2013年10月、中国が主唱しインド・パキスタン・ネパールなど21カ国が設立覚書を締結している。今年の3月末までに創設会員国を募り、年末に出帆する予定だ。AIIBは米日が主導するADB(アジア開発銀行)や米国主導のWB(世界銀行)に対抗し、中国が主導して設立する国際銀行である。

ADBなど国際開発銀行の議決権は、供与国の持分によって左右される。ADBにおける持分は2013年末の時点で、日本15.67%、米国15.56%、中国6.47%である。理事会で個別の投資事案を審議する際には85%の賛同が必要なので、米日が反対すれば何一つ推進することができない。しかも最近のADBは、病院・医療・福祉など貧困国の問題解決を重視しており、インフラ投資の比重は約10%(年間100億ドル規模)にとどまっている。ADBの現状に不満を抱く中国は、AIIB資本金1000億ドルのうち500億ドルを出資することで、50%の持分と49%の議決権を確保した。中国が約束するAIIBの‘公正で民主的な運営’に関しては、今後も検証する必要があるだろう。

AIIBの創設は国際開発金融システムの根幹を揺るがす変革であり、米国にとって容認したくない事態である。それで、日本を始めとする主要な同盟国には、参加しないように圧力を行使してきた。ところが最近になって、イギリスを始めドイツ・フランス・イタリアなどが相次いでAIIBへの参加を表明している。中国の台頭によって、米国主導の国際秩序が変移せざるを得なくなっているのだろう。

また、英・独・仏・伊などEU主要国にとっても、中国やミャンマーなどアジア地域インフラ投資の膨大な需要(OECDの推算では2030年までに8兆3千億ドル)を見過ごすわけには行かない。米日主導で排他的に運営されるADBではなく、AIIBの出現で新たな可能性を見出そうとするのだろう。世界的な不況の折、これほどの魅力的な市場は他にないからだ。

アメリカの意向に忠実な日韓両政府は、中国のAIIB勧誘に無関心を装ってきた。だが、G7の大半がすでに中国になびいている現状を前にして、いつまでも‘禁欲’を貫くことは難しいようだ。韓国政府は否定しているが、三国外相会議に先立って開かれた韓中外相会談で、韓国側はAIIB参加に前向きな反応を示したという。

はたして、朴槿恵政権はどのような決断を下すのだろうか。‘軍事は米国、経済は中国’という安易な弥縫策が通じるほど、国際政治の舞台は甘くない。民族分断という敵対状況を続けていては、南北のどちらも国力を消耗するだけだ。そして単独で東北アジアの周辺大国に対処するには、自ずと限界が生じるしかない。南北が和解し協力することで、互いに生かし合う道を選択してほしいものだ。(JHK)

メルケル首相の訪日メッセージ

2015年03月15日 | 三千里コラム

メルケル首相の訪日に関する3月10日付『ハンギョレ新聞』漫評
(メルケル「歴史の清算を!」、安倍「沈黙と冷や汗」、親日派の韓国教育部長官「過去を問うな!」)



ドイツのアンゲラ・メルケル首相が3月9日、二日間の日程で訪日した。2008年以来、7年ぶりの訪日だ。目的は、今年6月にドイツで開催されるG7(先進国首脳会議)に向けた準備のためと言われている。短時間の日程で彼女は、膨大な仕事をこなしている。

9日に『朝日新聞』社屋での記念講演、及び安部首相との首脳会談(全体会合やレセプションを含め、両首脳は5時間半を共に過ごした)。10日は、民主党・岡田克也代表との約40分にわたる会談。ドイツ首相として何らかのメッセージを発した機会が、少なくとも三回あったわけだ。

問題は、岡田代表との会談内容だった。野党党首との、どちらかと言えば“私的で打ち解けた対話の場”であったからか、メルケル首相は歴史問題でかなり踏み込んだ発言をしたようだ。岡田代表が「戦後70年になるが、日本は中国・韓国と和解したとは言い難い。ドイツの場合はどうだったか」と尋ねたところ、メルケル首相は「歴史問題を完全に解決するのは不可能だ。だから私たちは、常に過去を直視しなければならない」と答えている。

会談直後に行われた岡田代表のテレビインタビューによると、メルケル首相が自発的に慰安婦問題を取り上げ「東アジアの状況を考えると日韓関係は極めて重要だ。(慰安婦問題)をきちんと解決する方が好ましくないだろうか。日本と韓国は価値観を共有しているので和解は重要だ」と述べたそうだ。

日本政府としては“聞きたくない”発言であろう。ドイツ政府も外交上の配慮からか、日本政府のメンツを重んじる“アフターケア”を講じている。菅義偉官房長官は13日の記者会見で、メルケル首相が岡田代表に‘従軍慰安婦問題の解決を求める発言をした’との報道に関し、ドイツ政府から「メルケル首相は過去の問題について、日本政府がどうすべきかというような発言を行った事実はない」との説明があったと紹介した。

一方の岡田代表は同日、国会内で記者団に「(メルケル氏から)問題を解決した方がよいという話があった。私もかなり丸めて言っているが、(メルケル氏が)慰安婦問題を取り上げたことは紛れもない事実だ。ドイツ政府も民主党に何も抗議していない」と語っている。

日本国内の極右的なインターネット世論は、岡田代表を“嘘つき”と罵倒する内容で占められている。筆者としては、歴史問題に関するメルケル首相の真意を把握するうえで、9日に行なった記念講演と、首脳会談後の記者会見における発言に注目したい。

「ドイツは幸運に恵まれました。悲惨な第2次世界大戦の経験ののち、世界がドイツによって経験しなければならなかったナチスの時代、ホロコーストの時代があったにもかかわらず、私たちを国際社会に受け入れてくれたという幸運です。どうして可能だったのか? 一つには、ドイツが過去ときちんと向き合ったからでしょう。」(記念講演での質疑応答-『朝日新聞』ホームページから引用)

「私は、日本に対して、アドバイスを申し上げるために参ったわけではありません。私には、戦後、ドイツが何をしたかということについて、お話することしかできません。戦後、ドイツではどのように過去の総括を行うのか、どのように恐ろしい所業に対応するのかについて、非常につっこんだ議論が行われてきました。ナチスとホロコーストは、我々が担わなければならない重い罪です。その意味で、この過去の総括というのは、やはり和解のための前提の一部分でした。」(共同記者会見での時事通信社・高橋記者に質問に対する答弁-日本政府外務省のホームページより引用)

筆者が得た結論は明白だ。メルケル首相とドイツ政府は、真の和解に至る道が決して容易なものではないことを強調したのであろう。「侵略や強制支配の過程で犯した非人道的な罪を、完全に払拭することも、なかったかのように粉飾することもできない。それ故に加害国は、常に歴史と向き合い過去の誤ちを再確認して、忘れないために努力しなければならない」というメッセージなのだ。

ただ、優れた外交官でもあるメルケル首相は、他国への直言がしばしば意図とは逆効果を生むことを承知している。それで、日本への直接的な批判は避け、ドイツが実践した政策について淡々と述べる道を選択したのだろう。

以下に、メルケル首相の訪日に関するドイツの新聞記事を紹介する。3月9日付『南ドイツ新聞』で、タイトルは「‘丁寧な批判’という形での訪日」だ。全文は長坂道子さんのブログ「ときどき日記」http://mnagasaka.exblog.jp/を参照されたい。(JHK)

「…今年は第二次世界大戦後70年。日本は近隣諸国に惨劇をもたらしたが、ドイツと異なり、今日にいたるまでその責任を正面から引き受けてこなかった。右寄りの安倍首相は、戦争犯罪を相対化しようとさえしている。そんなわけで現政権にとってリベラルな朝日新聞は目の敵なのである。

安倍人脈は、慰安婦問題での朝日新聞の数年前の誤報道を利用することで、従軍慰安婦たちのたどった悲劇について、これを根本から疑問視しようとする。こうした背景を踏まえたからこそ、メルケル首相は今回の訪日に際し、敢えて朝日新聞への露出にこだわったわけであり、そこには彼女の明確な意思表明があったのである。

もちろん月曜日、メルケル首相は日本の政府と直に渡り合うようなことはしていない。その替わりに、メルケル首相は自らの経験について淡々と語ったにすぎない。“ドイツは第二次世界大戦勃発の責任、ホロコーストの責任を負っているにもかかわらず、国同士の共存に再び仲間入りを許されました。それは自らの責任を認めたからなのです。過去の徹底的な検証や反省の作業が、和解を可能にした条件の一つなのです。ドイツはけれど、幸運でもありました。なぜなら、近隣諸国が和解のための手を差し出してくれたからです”と。

日本がこうしたオブラートにくるまれた批判をどのようにかわすかが、端的に見て取れたのがNHKのメルケル首相訪問の扱いであろう。会合の場所がかの悪評高き朝日新聞であったということを、NHKの報道は伏せた。そしてメルケル首相のスピーチに関しては、ごく一部を抜粋したに過ぎず、そこでは“ドイツが和解への意志を持った近隣諸国に恵まれたことは幸運だった”ということだけが紹介された。彼女の言葉の中での“自らの責任を引き受けなければならない”という部分はカットされていた。安倍首相もまた、共同記者会見においてメルケル首相のスピーチにはまったく触れなかった。…」

駐韓米国大使への襲撃事件、韓国平和運動団体の見解は?

2015年03月06日 | 三千里コラム

戦争反対・テロ反対の緊急記者会見(3.5,ソウル)


3月5日の午前7時半頃、政府系団体主催の朝食講演会に招待された米国のマーク・リッパート駐韓大使が、果物ナイフを持った男に襲われ顔と腕を負傷した。男は「米韓合同演習反対、南北統一!」などのスローガンを叫んでいたそうだ。これに対し韓国政府と与党は、「従北・左翼勢力の組織的な犯行」と断定し、背後関係を徹底捜査すべきだとの立場を表明している。

セヌリ党のスポークスマンであるキム・ヨンウ議員は、「精神錯乱者の個人的犯行とは考えられない。逮捕された金氏はその間、一貫して従北左翼の活動家だった」と述べ、今回の事件を平和運動団体を弾圧する契機にし兼ねない姿勢だ。外遊中の朴槿恵大統領も「韓米同盟に対する攻撃」とのコメントを表明したが、誇大解釈の感を否めない。

駐韓米国大使へのテロは極めて遺憾な事態であり、リッパート大使の速やかな快癒を願うばかりである。しかし、今回の事件はあくまでも個人的な突発行動であり、過度の政治的な対処は自制すべきであろう。事件直後、米韓合同演習の中断と南北対話の再開を求めてきた諸団体が、緊急の記者会見を行なった。以下に、同日付『統一ニュース』に掲載された速報を紹介する。(JHK)


“リッパート駐韓大使への襲撃、我々はいかなる暴力行為にも断固として反対する!”

民主労組、韓国労総、韓国進歩連帯など40余の団体で構成される『戦争反対平和実現・国民行動』(以下、国民行動)は5日、マーク・リッパート駐韓米国大使への襲撃事件に対して、上のように論評した。

『国民行動』はこの事件を“特定個人の行動”と規定し、セヌリ党と政府、メディアに向けて“進歩・平和運動陣営に対する従北公安弾圧を拡大するなど、政治的に悪用しようとする不純な動きを中断せよ。推測と歪曲報道で真実を糊塗してはならず、客観的で公正に報道しなければならない”と主張した。

『韓国キリスト教会協議会』(NCCK、総務:キム・ヨンジュ牧師)もこの日、暴力的な意思表現に対する憂慮を表明し、マーク・リッパート大使の早急な快癒を祈願するとともに、家族に慰労の言葉を伝えた。

NCCKはまた、今回の事件によって韓米間に不必要な誤解が起きないことを願うとの意向を明らかにした。そして、このような意向を連帯関係にある米監理教会、米長老教会、米聖公会をはじめとするすべての教会に伝達したと語った。

また、去る1月8日からソウル市鍾路5街にある「韓国キリスト教会館」で籠城中の、『コリア連帯』と『全国牧師たちの正義平和協議会』平和統一委員会もこの日、光化門の李舜臣将軍銅像前で緊急記者会見を開き、リッパート大使襲撃事件に対する立場を明らかにした。

一同は“私たちはそれがテロならば、爆弾や銃でなくカミソリであったとしても、原則的に反対する。”と強調した。そて、この事件を公安弾圧に利用しようとする試みと、保守メディアの扇情的な報道に対して憂慮を表明した。

一同はまた、リッパート大使への襲撃事件は“あくまでも偶発的で個人的なテロ”だと規定し、これを奇貨として“米韓合同で展開中のキー・リゾルブ、フォール・イーグルなど核戦争演習の危険性が隠蔽されたり、その中断を要求する正当な反戦平和運動が弾圧されることがあってはならない”と主張した。

植民地朝鮮と満州国(続)

2015年03月01日 | 三千里コラム

表彰台の孫基禎と南昇龍(1936.8.9,ベルリン)


今日は「3.1独立運動」から96周年の日です。植民地の時代を行きた青年たちは、どのような心情で生きたのか...。今から79年前、ベルリンの郊外を疾走した若き朝鮮のアスリートたちに暫し思いを馳せながら、「植民地朝鮮と満州国」の続きをお送りします。(JHK)


日本の占領政策は「点・線・面」の政策といえる。「点」は占領地の主な駅だ。「線」は植民地支配の主要インフラである鉄道網である。鉄道が長い線となり、中間の諸駅を連結する。日本は、駅と鉄道路線の周辺に日本人移住民を定着させた。そして、駅と線路を中心に軍隊の活動半径となる地域を「面」と見なす。

「面」は日本の占領統治が支配力を発揮する空間である。主な駅を基点に通信網と行政機関、軍部隊などが入って行く。これらに依拠して、日本の企業家と商人、農民たちは新しい市場と土地の主人として、その地位を確立したのだ。満州で日本の鉄道網が広がることは、それだけ帝国日本の勢力が拡張されることを意味した。

「東京からヨーロッパ行き」列車に乗った日本人の日程は?

「満鉄」がスタートした1906年から日本が敗戦した1945年まで、中国北東部の満州にはクモの巣のように鉄道網が敷かれた。「満鉄」本線である「ハルビン-大連」間をはじめとして、南には北京と天津、北にはロシア国境地帯まで鉄道が敷かれた。「吉長鉄道」は咸鏡道の会寧まで連結されたし、そこから更に、清津(チョンジン)、雄基(ウンギ)、羅津(ナジン)まで続いた。そして奉天(ポンチョン)から安東(アンドン)までの「安奉鉄道」は、朝鮮の新義州(シンウィジュ)と連結された。

1911年、鴨緑江鉄橋の完工により、朝鮮半島を貫通して国境を越える鉄道が誕生したのだ。 日本人は、夢にまで描いた大陸への進出と理想郷、ヨーロッパに至る道を切り開いたことに感激した。“脱亜入欧”のスローガンには黄色人種の劣等感が滲んでいるが、「アジアを脱離してヨーロッパと肩を並べる」という日本の目標が、実現されたように思われたのだろう。日本人の自負心は溢れるばかりだった。

日露戦争の講和後、両国は正常な外交関係を修復し、「シベリア横断鉄道」を利用してアジアとヨーロッパをつなぐ大鉄道網計画を稼動させた。1911年以後、東京ではサンクト・ペテルブルクとベルリン、パリに行く連結乗車券を購入できるようになった。
 
東京からヨーロッパへの行路は、第1次世界大戦とロシア革命の混沌期を経て、第2次大戦・独ソ戦争が始まるまでの期間、活発に運行された。では、「西伯利経由欧亜連絡乗車船券」という名称のシルクロード乗車券は、どのような行路だったのか。順を追って出かけてみよう。

東京からヨーロッパに向かう旅行者は、連絡乗車船券を購入して新橋駅発の国際列車に乗車する。日本で国際列車として運営されたのは「さくら」、「ふじ」、そして‘七(なな)列車’と呼ばれた「第7列車」だった。「第7列車」は東京を出発して大阪を経由し、下関駅に到着する。旅行者は直ちに下関港に移動して、連絡船「7号船(七便)」に乗り釜山港に向かう。「7号船」を降りた乗客は釜山駅で国際列車「ひかり」に乗る。京城-平壌-新義州を経て、列車は鴨緑江を渡り国境を越え、新京まで行くのだ。  

新京は現在の長春であり、日本が建てた傀儡満州国の首都だった。新京駅には「703列車」が待機している。「703列車」に乗り換えてハルビン(哈爾濱)まで走る。ハルビンは、ロシアが「東清鉄道」を敷設してヨーロッパ風に建設した都市である。この都市でヨーロッパの香りを味わった旅行者は、国際列車「701列車」に乗って満州の原野を走ることになる。「 701列車」はハルビンから「東清鉄道」を走行し、西側の満洲里を過ぎてチタで「シベリア横断鉄道」に接続される。  

日本から「シベリア横断鉄道」を経由してヨーロッパまで行くには、三種類のルートがあった。①先に紹介した「第7列車」と連絡船「7号船」を利用して朝鮮半島を経由するルート、②満鉄の出発地である大連港まで船で移動し、大連-ハルビン間の「南満洲鉄道」路線を利用するルート、③ウラジオストックに行って、そこから直接「シベリア横断列車」に乗るルート、などだ。この三種類のルートは全て、東京を出発してから約5日後に、ようやく満州の地に足を踏み入れることができたという。

ハルビンやウラジオストックに到着したヨーロッパ行きの旅行者は、ここから覚悟を固めなければならない。満州からモスクワまで11日間、ずっと列車の中で過ごすことになるからだ。ベルリンに行くなら2日、パリには3日を、モスクワから更に走らなければならなかった。それでも、「シベリア横断鉄道」の人気は高かった。船に乗るなら1ヶ月半かかったし、経費も列車より三倍が高かった。列車の乗客は高波の恐怖に怯えることもなく、すさまじい船酔いの心配をしなくても良かったのだ。1940年3月~5月の期間、国際列車を利用した外国人乗客は、平均で120人余りに達した。

「シベリア横断列車」の最東端の出発地はウラジオストックだ。ウラジオストックから一時間余り走ればウスリースクに到着する。ウスリースク駅は分岐点だ。北に上がれば「シベリア横断鉄道」の本線に繋がり、約11時間の走行で東北ロシア最大の都市、ハバロフスクに着く。西に方向を定めれば、中国とソ連の国境警戒地点を過ぎ、ハルビンに到着する。この、ウラジオストック~ウスーリスク~ハルビンに至る道は、安重根(アン・ジュングン)が伊藤博文を射殺するために移動した経路でもある。  

青年ソン・キジョンとナム・スンニョンは、どのようにベルリンまで行ったのか?

「満州鉄道」と「シベリア横断鉄道」に乗った朝鮮人は、どんな人々だったのか? 亡国の恨(ハン)を胸に抱いた数多くの革命家とその家族たちだった。あるいは、様々な理由で祖国を去らねばならなかった民衆も、列車の乗客となった。そしてスターリンの強制移住政策により、一日にして生活の場から追い出された中央アジア移住民も忘れてはなるまい。だが今は、ある二人の旅行経路だけを追って行くことにしよう。占領国の国旗を胸に着け、オリンピックでマラソンを走ることになった青年、孫基禎(ソン・キジョン)と南昇龍(ナム・スンニョン)だ。  

ベルリン・オリンピックを控え東京で合宿訓練をしていた孫基禎は、口に合わない日本の食べ物に閉口していた。こっそりと外出しては、朝鮮味噌(テンジャン)、唐辛子味噌(コチュジャン)、キムチなどが出る朝鮮料理を買って食べたりもしたが、キムチと大根キムチ(カクテギ)だけは断つことに決心した。日本でも食べるのが難しい食料を、ベルリンではさらに入手し難いと考えたからだ。

孫基禎たちは1936年6月、オリンピック開幕二ヶ月前の時点で、選手団本陣より先にベルリンへと出発した。マラソンコースの下見など、現地適応訓練のためだった。彼らは東京から汽車と船に乗り、釜山に到着して京釜線でソウルに到着した。ソウル駅からは満州行きの列車に乗り換え、その後は「シベリア横断列車」を利用した。  

孫基禎の証言を聞いてみよう。以下は、彼の自叙伝『私の祖国、私のマラソン』に収録されている内容だ。  

“私たちが乗ったのは旅客用の汽車ではなく、軍装備輸送用の貨物列車のようなものだった。正規の旅客列車は一週間に二便しかなかったし、私たちが出発する日には便がなかった。列車は急に停車したかと思えば、予告もなしに発車した。一日中、麦畑の間を走る日もあれば、湖の側を際限もなく走る日もあった。”

孫基禎が“際限もなく湖の側を走り続けた”という場所は、イルクーツクのバイカル湖循環路線のことだろう。貨物列車に乗った植民地青年の旅程は、民族の運命のように疲労困憊するものだった。  

“鉄道は複線化作業の真っ最中だった。行く途中、他の列車と出会う度に私たちの汽車は駅構内で待機しなければならなかった。初めはそれでも見慣れない風景に気をとられたが、次第に見飽きた風景となり疲れるだけだった。…列車が止まっている間、硬くなった体をほぐすために、私たちは時おり線路沿いに走ったりしたのだが、これが大きな問題になるとは夢にも思わなかった。

 ソ連の役人たちは、私たちがソ連の鉄道事情を密かに調査していると疑って問い詰めた。 戦争の暗雲が立ち込めようとする時代で、各国は神経を尖らせていた。軍需品列車の機密情報を探ろうとしていると、誤解したようだ。モスクワ駅に到着したが、市内に宿舎を定めることもせず、二昼夜を列車の中で座ったまま過ごすことになった。…大使館からは10時過ぎまで朝食を持ってこなかったので、皆の不満がすごかった。運動選手は食事時間を厳守してこそコンディション調整ができるのに、佐藤コーチは私たちの不満をなだめるどころか、‘駄々をこねるなら本国に送還させる’と圧迫した。

 7月17日、2週間ぶりに漸くベルリンに到着した。ベルリン駅にはドイツ駐在日本大使館の職員たちが出迎えにきた。先発隊を迎えるやいなや彼らは、「なぜマラソンに朝鮮人が二人も入っているのか」と、不満をぶちまけた。半月間も苦しい列車の旅を経て到着したのに、こんな酷い挨拶を受けることになるとは、悔し涙がこみ上げてきた。”


8月9日、ベルリンのオリンピック・スタジアム。マラソンの決勝テープを切った選手は、日本大使館の職員たちが腹立たしく思った朝鮮人、孫基禎だった。日章旗を胸に着けた青年は、当時のマラソン記録で‘魔の壁’と見なされていた2時間30分台を突破した。

朝鮮の青年は2時間29分19秒の世界新記録でゴール・ラインを通過したが、両手を高く上げることも、明るく笑うこともしなかった。サイズが小さくてレース中、ずっと苦痛だったマラソン・シューズを脱ぎ捨てただけだった。笑顔で判断するなら、2位の英国選手ハーパーが優勝者のようだった。ペース・メーカーに徹して孫基禎の優勝を助けた南昇龍が、3位に入った。  

二人の青年は10万観衆の歓呼を受けて表彰台に上がったが、暗い表情のまま項垂れていた。朝鮮の青年たちは、国旗掲揚台に上がる日章旗を見ることができなかったのだろう。「君が代」が鳴り響き「日の丸」が上がる間、頭(こうべ)を垂れた孫基禎は、優勝者にだけ与えられる月桂樹の束を胸に抱え、ユニフォームの日章旗を覆った。

日本政府は彼の行為を不敬極まりないとし、その後に開かれた陸上競技大会には、孫基禎の出場を許可しなかった。二人の青年の快挙は日本を経て朝鮮にも伝わった。植民地の民衆は孫基禎と南昇龍の世界制覇に感激と誇りを禁じ得なかったが、その分、亡国の悔し涙も呑まねばならなかった。(完)