★この写真は三千里鉄道10周年記念誌に寄せられた故人の祝賀メッセージに添えられていた。
統一ニュースに載ったアメリカ在住ハン・ホソク氏(米統一問題研究所代表)の追悼文に、この写真にまつわるエピソードが…。その部分だけ訳してみた。
時は1995年、金日成主席一周忌に日本を経て強行訪北、亡き夫・ムン牧師の宿泊した部屋でピョンヤン最後の夜を過ごしながらの一幕だ。
…
平壌に行く時は,チョン・ギョンモ先生と同行したが、ソウルに帰る時はパク・ヨンギル長老一人で板門店軍事境界線を越えなければならなかった。
部屋の中に流れた沈黙を破って、パク・ヨンギル長老が私たちに同行する人はいないかと、尋ねた。
恐らく1989年夏イム・スギョン全大協代表が平壌で開かれた第13次世界青年学生祝典に参加した後、板門店軍事境界線を越えて南側に帰る時、ムン・キュヒョン神父が同行したことを記憶してのことであったろう。
しかし、パク・ヨンギル長老と同行する勇士は、私たちの中からはでなかった。
平壌を離れてニューヨークに戻る私の心は重かった。
板門店軍事境界線を一人で越え逮捕されるパク・ヨンギル長老に、何の助けを差しのべることなく、帰る私の無力さを恥ずかしく思いながら…。
それから20日余りが経ったある日、私はニューヨークの我が家で郵便配達された日刊紙<ハンギョレ>の写真に釘付けになった。1995年8月1日<ハンギョレ>に載った報道写真一枚が、私をひきつけた。 その報道写真の中には、簡素な服を着た顔なじみのおばあさん1人が、板門店軍事境界線を踏んで両手を上にあげ何か叫んでいた。
写真には解説記事など一行もなくて、
“平和統一万歳!”という六字だけが添えられていた。
統一ニュースに載ったアメリカ在住ハン・ホソク氏(米統一問題研究所代表)の追悼文に、この写真にまつわるエピソードが…。その部分だけ訳してみた。
時は1995年、金日成主席一周忌に日本を経て強行訪北、亡き夫・ムン牧師の宿泊した部屋でピョンヤン最後の夜を過ごしながらの一幕だ。
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平壌に行く時は,チョン・ギョンモ先生と同行したが、ソウルに帰る時はパク・ヨンギル長老一人で板門店軍事境界線を越えなければならなかった。
部屋の中に流れた沈黙を破って、パク・ヨンギル長老が私たちに同行する人はいないかと、尋ねた。
恐らく1989年夏イム・スギョン全大協代表が平壌で開かれた第13次世界青年学生祝典に参加した後、板門店軍事境界線を越えて南側に帰る時、ムン・キュヒョン神父が同行したことを記憶してのことであったろう。
しかし、パク・ヨンギル長老と同行する勇士は、私たちの中からはでなかった。
平壌を離れてニューヨークに戻る私の心は重かった。
板門店軍事境界線を一人で越え逮捕されるパク・ヨンギル長老に、何の助けを差しのべることなく、帰る私の無力さを恥ずかしく思いながら…。
それから20日余りが経ったある日、私はニューヨークの我が家で郵便配達された日刊紙<ハンギョレ>の写真に釘付けになった。1995年8月1日<ハンギョレ>に載った報道写真一枚が、私をひきつけた。 その報道写真の中には、簡素な服を着た顔なじみのおばあさん1人が、板門店軍事境界線を踏んで両手を上にあげ何か叫んでいた。
写真には解説記事など一行もなくて、
“平和統一万歳!”という六字だけが添えられていた。
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