金枢機卿が逝った。金スファンー70年代、80年代に何度も聞いた響きだ。晩年蝋燭デモに異論を唱え、明洞聖堂前で蝋燭を灯した若者たちを失望させた。教会内の正義具現司祭の責任者を除名?することもあった。竜山惨事のミサも拒否…。
しかし、全生涯を俯瞰し金枢機卿を眺めれば、世界と朝鮮半島に影響を及ぼし続けた巨人であることに間違いない。
故人の遺志を継ぎ、これからは貧しい人たちと共に分かち合う愛を実践する政治であってほしいと願うばかりだ。
5日間の喪中はさすがに休戦、共に故人の「和解と愛」を口にしていた。
愛は理念を越えることが出来ないのか。理念戦争の末路に真の勝利者はいないのだ。
宗教に縁のない僕だが、故人の冥福を祈りつつ、その足跡をなぞってみた。NAMSANG
金寿換樞機卿の生涯
金樞機卿は 1922年,宗教家庭 5男 3女の末っ子に生まれた.
大邱神学校を卒業、ソウルに上って5年制小神学教に入学した。当時 '皇国臣民としてその所感を書きなさい'と言う試験問題に "私は皇国臣民ではない. したがって所感なし"と書いた.その後、日本に留学、1941年 東京上智大学に。
金樞機卿は解放後 1947年、カトリック大学に復校して ,1951年大邱で司祭 ,1966年 馬山教区長 ′ 1968年 ソウル・大教区長に上がった. それから 3年後の 1969年に枢機卿に。47歳の年であった。
当時金樞機卿は 1968年韓国教会では初めて社会的発言をする. 労動者の人間尊厳回復のためだ.
彼は合法的労働組合を弾圧し、不法解雇した 事件に対して ‘社会正義と労動者権益擁護のための司教団共同ステートメント’を発表した.金樞機卿と明洞聖堂が民主化の大きい支えになる瞬間だった.
1969年 3月教皇パウロ6世が発表した新しい樞機卿名簿に金寿換大主教の名前が…. 韓国′東洋で最初の樞機卿が誕生したのだ. 当時金樞機卿の年は 47歳で, 全世界樞機卿 134人の中最年少だった. 教皇を補助して教皇選挙権と被選挙権を持つ高位聖職者となり,韓国教会が世界で高い地位を占めた。
金樞機卿は以後 30年の間、ソウル大教区長在任、2度にかけて韓国カトリック司教回のトップを歴任し, 1975年からは平壌教区長も兼ねた.
金樞機卿は北朝鮮教会と同胞をいつも憶えようと努力した. それはなによりもソウル教区の管轄区域が休戦線を超えて黄海道までつながるという事実とも関連があった.
統一に備えてこれからの北朝鮮宣教のための実質的基盤を用意するために 1995年 ‘民族和解委員会’を設立する. 同年 3月 7日明洞大聖堂で はじめた‘民族和解ミサ’は、今も毎週火曜日午後 7時に行われている.
“この世の中では、誰もが尊重を受けることができる. …私が、貧しくて疎外された人々に注目する理由です. 彼らのための ‘優先的愛’から一歩進んで貧しい人々と ‘共に分かち合う愛’へと進まなければなりません.”
1970年代民主化運動の側に止まったことも同じな脈絡だ.池ハッスン司教の拘束、 1974年民青学連事件, 1978年同一紡織労組事件など、金樞機卿はメッセージや講演, 時局談話などを通じて韓国社会の構造的矛盾をつき始めた. 70-80年代、金樞機卿は我が社会民主化運動の支柱であり最後の砦だった.
1987年 6?10 民主抗争の時も明洞聖堂公権力投入という一触即発の危機をそんな信念一つで阻んだ.
“聖堂の中に警察が入って来れば先頭に私がいる, その後に神父たち, 修道女たちがいるはずです. 私たちをすべて倒してから後に学生たちがいるはずです.”
(訳者注ー運動家の学生を教会が匿っていた)
それに先立ち 5.18光州の時は市民を支持、全斗換を叱咤した.
負傷者のために見舞金も送った.
晩年(90年代以降)、運動圏からは保守傾向と批判されたが、しかしそれでもその存在感は絶大であった。
(参考)
韓国の宗教人口
仏教 約1千万ー人口比22%
キリスト教(改信教、天主教) 1千3700万ー人口比 29%