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忘却を願うのか?

2016年08月29日 | 三千里コラム

‘慰安婦’問題の日韓政府合意に抗議するキム・ボクトンさん(8.26,ソウル)



昨年12月28日、日韓の両政府は「‘慰安婦’問題が最終的かつ不可逆的に解決された」との合意を発表した。当事者の意思と心情を無視した政府間合意は歓迎されず、今も抗議と糾弾が内外で続いている。あれから8ヶ月が経過した今年の8月24日、日本政府は閣議決定により、10億円を韓国政府主導の「和解・癒やし財団」に拠出すると発表した。9月上旬までに、今年度の予算から支出されるという。菅義偉官房長官は「支出が完了すれば、日本側の責務は果たしたことになる」と述べた。

本当にそう思っているなら、あまりにも安易な発想であろう。昨年末の合意で岸田外相は、「‘慰安婦’問題の責任を痛感する」と発言した。真摯に責任を痛感するならば10億円は「賠償金」であるべきだが、「拠出金」と規定されている。言うまでもないが、「拠出金」に賠償や補償の意味はない。政府予算で開発途上国に支給される、「政府開発援助資金(ODA)」のような性格だと言えよう。

被害女性の一人キム・ボクトンさん(90歳)は8月26日、記者会見で次のように憤りを表現した。「幾ばくかのお金目当てに20余年間を闘ったのではない。日本政府が心から謝罪することが前提だ。韓国政府は‘慰労金’という名目でこの問題に幕を引こうとする。私たちを10億円で売り渡すことに他ならない」。

口先だけの謝罪で賠償を拒否する日本政府、被害女性たちの声に耳を傾けようとしない韓国政府…。日本では、‘慰安婦’問題合意に関する韓国社会の怒りが、なかなか理解されないようだ。参考のために、8月29日付『ハンギョレ新聞』のコラムを紹介する。筆者は統一外交問題のチーフであるイ・ジェフン記者だ。記者の糾弾は、被害女性たちを蔑ろにする朴槿恵政権に向けられている。(JHK)


忘却を願うのか?

朴槿恵大統領の言葉を思い出す。「被害者の方々は高齢であり、今年だけでも9名が他界された。生存者は46名となった。今回の合意は、こうした緊急性と現実的な制約の下で、最善の努力を傾けて成し遂げた結果だ」。昨年12月28日、韓日政府間の日本軍‘慰安婦’問題合意直後に発表したメッセージである。

大統領はその後も、折を見てこの合意を強調している。そして、12・28合意を批判する人々を‘無責任な扇動をする輩’と断定してきた。幾つかの例をあげよう。
「最大限の誠意を持って、今できる最高の合意を求めて努力したことを評価すべきです。かつて国政を担当していた時には問題の解決すら試みようとしなかったのに、今になって‘無効’だと主張して政治的攻撃の口実とするのは本当に残念です」(1月13日、年頭記者会見)。

大統領はとりわけ‘真心’と‘切迫性’を強調する。「今でも遅すぎたくらいだ」(上述の年頭記者会見)。「年老いた被害女性(ハルモニ)たちが、1人でもたくさん生きておられる間に問題を解決せねばならないという切迫した心情で、集中的かつ多角的な努力を傾けた結果だ」(3.1節記念演説)と。

だが、いつからか大統領は、この問題を口にしなくなった。「韓日関係も歴史を直視しつつ、未来指向的な関係に新しく作り変えて行かねばならないでしょう」(8月15日光復節の祝辞)。大統領の年間演説のなかでも、最も重要な光復節の祝辞において、‘慰安婦被害者’の‘慰’の字も出てこなかった。韓日関係に関しても、ただ一行の言及に終わっている。

ならば率直に伺いたい。大統領は本当に、切迫した心情でハルモニたちの苦痛に共感しているのか。朴槿恵大統領は好悪の感情を隠すことができない人だ。自分の秘書官出身であるイ・ジョンヒョン議員がセヌリ党の代表(最高職)に選出されるや、大統領官邸に招待した。そして、庶民たちは存在すらろくに知らず口にもできない最高級の、トリュフやフカヒレ料理でもてなした。しかし、2013年2月25日の就任後、大統領は一度もハルモニたちを大統領官邸に招いたことはなく、暖かいご飯の一食すら接待したことがない。否、就任の以前であれ以後であれ、朴槿恵大統領はハルモニたちに直接会ったことがない。一度として手を握ってあげたこともなく、ご飯の一食も共に食べたことがないのに、どうしてハルモニたちの苦痛を共感するというのだろうか?

12・28合意を発表した当事者のユン・ビョンセ外交部長官もまた、合意から今日に至るまで、ハルモニたちには会っていない。ユン長官の言葉もそれらしく聞こえる。「被害者のハルモニたちが皆亡くなった後に合意しても、何の意味があるのか」(2015年12月31日、セヌリ党議員総会での報告)。昨日も‘切迫した心情’(8月28日『韓国放送』の日曜診断)を強調しているほどだ。ところでユン長官はなぜ、合意後すでに6名の方が無念な思いでこの世を去られたのに、ハルモニたちに直接合って説明し、慰労して理解を求めようとはしないのか?

彼はかつて、日本軍‘慰安婦’問題を「反人道的犯罪であり、人類の普遍的な人権問題であり、未解決の生々しい問題」(2014年3月5日、第25回国連人権理事会基調演説)だと強調したのだが…。ユン長官は今年の3月2日にも、第31回国連人権理事会で演説している。しかし彼は、韓日合意を踏まえてか、今回は慰安婦の‘慰’の字も口にしなかった。

大統領と外交部長官が願うのは何だろう? 忘却なのか? 記憶なのか?

収容者の90%がガス室で死んだアウシュビッツの生存者であり、“時代の証言者”でもあったプリーモ・レーヴィは警告した。「事件は起きたし、だからこそ、再び起こり得る。これが私たちの話そうとする核心だ」(『溺れるものと救われるもの』)。レーヴィは遺書とも言えるこの言葉を書き記した翌年、1987年4月11日に、トリノの自宅アパート4階から飛び降りて自ら命を絶った。‘記憶’を避けたがる世の中に疲れて…。

忘却を願うのか、あなたは。

真の民族解放に向けて

2016年08月19日 | 三千里コラム

朝鮮半島の平和と自主統一を求める8・15民族大会(2016.8.15,ソウル・大学路)



久しぶりに、8月15日を祖国で迎えることになった。ソウルの旧西大門刑務所歴史館で開催される「2016西大門独立民主祝祭」に参加するためだ。大日本帝国の植民地統治が終了したこの日を、北では「解放節」、南では「光復節」と呼んで記念している。

今年で6回目になる今年の祝祭では、一つの特別展示が催された。第11獄舎の3号監房をブースにした「在日同胞良心囚-苦難と希望の道」という資料展示だ。ご存知のように1970年代~80年代にかけて、母国留学生をはじめとする数多くの在日韓国人がスパイ罪を捏造され、ここ西大門拘置所に収監された。再審裁判を通じて無罪判決の確定が相次いでいるが、今回の特別展示は、ようやく韓国内でもこの問題に対する関心が高まってきたことを反映しているようだ。

酷暑の折だったが、8月14日の前夜祭にはたくさんの入場者が訪れた。もちろん、他の展示室や文化公演などが中心で、特別展示が世論の注目を集めたわけではない。特別展示の実現には、管轄部署である西大門区庁の役割も無視できない。民選区長が野党(共に民主党)出身の進歩的な人士であったことも、一つの要因といえよう。

韓国民主化運動の成果の一つとして、過去事件の再検討事業を上げたい。盧武鉉政権期に設立され、李明博政権期に解散された「真実・和解のための過去事件整理委員会」がその典型である。だが、この委員会が担った使命は未完の状態だ。真相の究明と被害者の救済がなされていない公安事件が、決して少なくないのだ。そして、民族分断と軍事独裁に基因する民衆の苦痛を、事件数を示す統計データが語り尽くすことはできない。

何よりも祝祭の名称が、私たちの課題が未達成であることを示している。「独立民主」という用語は、植民地統治と独裁政権に抵抗した歴史を象徴している。しかし、「光復」が真の「民族解放」となるためには、分断に終止符を打つ「統一」の二文字が必要だ。遠からぬ未来に、西大門の行事が「独立民主統一祝祭」として開催されることを願ってやまない。

当日(8月14日)の夜、ソウルの市庁広場では「8・15自主統一大会」の前夜祭が開催された。諸団体と全国各地からの参加者で広場は埋まり、「サードの韓国配置撤回、朝鮮戦争平和協定の締結、南北当局対話の再開」などを掲げ熱のこもったスピーチと文化公演が行われた。中でも、全国を巡回して平和統一の気運を高めてきた「統一先鋒隊」の青年学生たちが舞台に登場すると、ボルテージは頂点に達した。

相次いで、プロの芸術家たちにも劣らない公演がくり広げられた。何よりも、日本では想像できない平和統一への熱気に触れることができ、感慨もひとしおだった。統一運動の市民的な拡大という課題が、少しづつ現実化されているようで頼もしかった。

さて、リオ・オリンピックも残り少なくなった。フィナーレはやはり男子マラソンのようだ。思い起こせば、80年前の1936年8月9日、ベルリン・オリンピックの金・銅メダリストは植民地朝鮮の青年だった。ソン・ギジョン(孫基禎)とナム・スンリョン(南昇竜)。「消えた国旗」という事件を記憶される読者も少なくないだろう。表彰台中央のソン・ギジョンから、ユニホームの日の丸を消したとして、民族紙が停刊処分を受けたのだ。

表彰式で日の丸を見上げることを拒否した二人の青年、ユニホームの日の丸を消した民族新聞。植民地の時代を生きたアスリートとジャーナリストの、ささやかな、しかしとても勇敢な抵抗だった。

最後に、朝鮮民族の誇りだった二人のメダリストに関する逸話を紹介しよう。マラソン競技の終了後、大日本帝国の代表チームがレセプションを開催したが、二人は参加せず、朝鮮人だけの祝賀会に現れた。豆腐工場の壁に太極旗を掲げた祝賀会は、在独同胞のアン・ボングンが主催した。アン・ジュングン(安重根)義士の従弟である。

朝鮮国内は二人の快挙に沸き返った。「ソン・ギジョン万歳(マンセー)」の叫びは、1919年の3・1独立運動を彷彿させるほどだったという。8月13日、『朝鮮中央日報』と『東亜日報(地方版)』に日章旗を消したソン選手の写真が掲載された。朝鮮総督府は当時、印刷機の不都合で起きたことだろうと不問にしたそうだ。ところが8月25日の『東亜日報』に再度、日章旗のない写真が登場するや大騒ぎになった。『東亜日報』は無期停刊、独立運動家ヨ・ウニョン(呂運亭)が社長の『朝鮮中央日報』は廃刊に追い込まれた。

青年ソン・ギジョンの気概も大したものだった。ベルリンで外国人にサインを求められると、必ずKOREAと書いた。一連の行動から大日本帝国の特別高等警察は、彼を要視察人物としてマークした。ヨ・ウニョンとも親しく、私席では「思想犯として睨まれても構わない」と発言していた彼に対し、大日本帝国の報復は残忍で執拗だった。

「不逞鮮人が独立の気運を高めかねない」との理由で、彼はその後、内外の主要な大会に参加できなかった。マラソン・ランナーとして全盛期だったソン・ギジョンの心情は如何ばかりであったろうか。翌年、彼は明治大学の予科に入学するが、陸上部には入らなかった。彼が再びトラックに勇姿を見せるのは1988年、ソウル・オリンピックの最終聖火ランナーとしてだ。ベルリンの英雄はすでに、76歳だった。(JHK)