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「5.18光州民主化運動」の36周年-真相は究明されたのか?

2016年05月19日 | 三千里コラム

光州民衆抗争36周年の前夜祭(5.17,光州市)



36年前の1980年5月18日、光州市民は新軍部勢力の「5・17非常戒厳全国拡大措置」に反対し、憲政破壊と民主化の逆行に抵抗して起ち上がった。全斗煥・盧泰愚を中心とする新軍部勢力は、事前にデモ鎮圧訓練を受けた空挺部隊を投じてこれを暴力的に鎮圧したために、数多くの市民が犠牲となった。市民虐殺の契機となったのは、その年の5月21日、国防長官室で開かれた新軍部勢力指揮官たちの緊急会議だった。出席者は、イ・フィソン(参謀総長、戒厳司令官)、全斗煥(合同捜査本部長、保安司令官)、盧泰愚(首都警備司令官)、チョン・ホヨン(特殊戦司令官)などである。“光州市民の闘いが激しく鎮圧が容易ではない”との現地報告を受けた彼らは、出動した軍人たちに「自衛権の発動(発砲許可)」を決議する。

自衛権発動の決定から約2時間後の同日午後1時、光州市クムナム路では戒厳軍が市民に対し一斉射撃を開始した。銃声が鳴り止んだのは午後4時だった。その日だけで、キム・ウァンボン君(当時中学三年生)ら34名が犠牲となった。自国民を躊躇なく虐殺する戒厳軍に対抗するため、光州市民は手に銃を取り「市民軍」が組織された。他地域の支援を得ることもできず完全に包囲され孤立した状況だったが、光州市民は全羅南道の道庁に篭り民主主義の松明を掲げ続けた。5月27日午前0時、戒厳軍の一斉攻撃を受け闘いは鎮圧された。10日間の闘いは夥しい犠牲をもたらした。政府の発表によっても、死者166人(傷痍後遺症の死者376人)、行方不明者54人、負傷者3,139人である。

長い間、光州市民の闘いは“北が扇動した暴動”“光州事態”などと罵倒され歪曲された。“暴徒”ではなく「市民軍」、“事態”ではない「民主化運動」として正当な評価を受けるまでには、光州という地域を超えた韓国市民社会の目覚めが必要だったし、苦難に満ちた民主化運動の進展を待たねばならなかった。その後、1987年の全国的な民主化抗争と文民政権(金泳三政権)の登場を機に、1995年「5・18民主化運動などに関する特別法」が制定され、犠牲者に対する補償および犠牲者墓地の聖域化がなされた。また、1997年には「5.18民主化運動」を国家記念日に制定し、その年から政府主管で記念行事が開かれている。

ところが、李明博・朴槿恵政権のもとで極右勢力を中心に、歴史を修正し光州民主化運動の精神を貶めようとする動きが本格化している。5月18日、光州市で開催される記念行事に、朴槿恵大統領は今年も参加しなかった(3年連続)。そして、記念式典で歌われてきた「ニム(あなた)のための行進曲」の斉唱を引き続き拒否している。合唱には反対しないそうだ。「合唱」と「斉唱」はどこが違うのか? 本質的な歴史認識の差異が反映される。参加者にとって「合唱」は聞くもので、必ずしも一緒に歌うことではない。一方、「斉唱」は民主化運動の精神を継承する意思を込めて、参加者が全員で歌うのが前提である。今年の記念式典に大統領代理で参加し演説したファン・ギョアン国務総理は、周囲の参列者が自発的に「ニム(あなた)のための行進曲」を斉唱している間も、固く口を閉じて立っていた。“民主化運動ではなく暴動事態だ”という自身の頑なな認識を表明するかのように…。

さらに看過できないのは、5月17日発刊の『新東亜』6月号に掲載された全斗煥のインタビュー記事だ。そのなかで彼は「あの当時、誰が国民に“発砲しろ”と命令するかね。馬鹿なことを言うんじゃないよ! 私は光州事態とは何の関係もない」と、白々しく市民虐殺の責任を否定している。今も“光州事態”と呼んで憚らない彼の認識が、全てを代弁しているだろう。おそらくそれは、朴槿恵現大統領の歴史認識とも共通すると思われる。前述したように、「自衛権発動」という名目で市民への発砲を許可したのは彼らだった。誰よりも、当時の新軍部勢力で最高権力者だった全斗煥が発砲命令の責任を回避し、それが容認されている現状は、36年を経た今も「5.18光州民主化運動」の真相究明がなされていないことを如実に示している。

1995年12月に「5・18民主化運動などに関する特別法」が制定され、検察は全斗煥・盧泰愚元大統領をはじめ5・18の虐殺関連者16人を起訴した。そして1997年4月には、大法院(最高裁)が彼らに「内乱罪」を適用し無期懲役などの重刑判決を確定している。しかし、主要起訴項目の内乱罪や不正蓄財は、1979年12月の「粛軍クーデター」や執権後の不正蓄財を裁いたもので、光州市民の虐殺を断罪したものではなかったのだ。ちなみに同年12月、全斗煥・盧泰愚らは大統領の特赦で釈放された(2205億ウォンの追徴金を課せられた全斗煥は、今も1673億ウォンを未納)。一大茶番劇の幕はこうしてあっけなく閉じられた。

検察が作成した10万ページ余りに達する訊問調書のどこにも、「発砲命令者」は記載されていない。軍人の銃に撃たれた死者は数百人なのに、銃を撃てと命令を下した者はいないのだ。錦南(クムナム)路など、光州市の随所で虐殺を実行した現場の指揮責任者が誰一人として起訴されなかったのは、彼らが「上官の命令により行動した」と陳述しているからだ。命令を受けて虐殺に加担した者はいるのに、自国民を殺せと命令した者は存在しない。このような歴史の冒涜を許してきたのが、この36年だったのだ。1993年、韓国の市民社会団体は5.18関連諸団体と「5・18問題解決の5大原則」に合意した。①真相究明、②責任者処罰、③名誉回復、④集団賠償、⑤記念事業、がその5原則である。①と②の原則を貫徹するうえで、核心は発砲命令者を明らかにすることではないだろうか。

「ニム(あなた)のための行進曲」のフレーズにあるように、歳月は流れても山河は覚えている。「光州民主化運動」を“光州事態”と歪曲し、「市民軍」を“暴徒”と罵倒する輩が、今も白昼堂々と“愛国者”として振る舞う状況を座視してはならない。真相を究明して責任者を断罪することでしか、真の名誉回復は達成されないからだ(JHK)。