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板門店の南北合意に思うこと

2015年08月26日 | 三千里コラム

板門店の南北高位級会談(8.22~8.25)



喜ぶべきか、歎くべきなのか...。
8月22日から始まった板門店での南北高位級会談は、四日間(会談時間は43時間)に及ぶマラソン交渉を経て、ようやく合意に到達した。植民地支配からの解放70周年を迎えた朝鮮半島の8月は、南北の共同祝典どころか、民族分断と対決の70年を象徴するかのように、一触即発の軍事緊張が展開された。

発端は8月4日、南側の非武装地帯で発生した地雷の爆発だった。二名の軍人が重症を負い、韓国軍は北の「木箱地雷」による挑発と断定した。朝鮮人民軍は捏造だと否定したが、南は報復措置として10日、2004年から中断していた最前線での対北宣伝放送を再開した。

8月20日には、放送の中断要求を受け入れなかったとして北が4発を砲撃し、南が29発を応射する砲撃戦が展開された。そして21日には、同日午後5時を期して「準戦時体制」に突入するとの、金正恩・最高司令官命令が出されている。2010年11月に起きた延坪島砲撃戦を彷彿させる緊張事態となったのだ。

だが、南北両政府がともに軍事衝突の拡大を望まなかったのだろう。北からの提案を受け、22日から高位級会談が板門店の南側事務所で開かれた。北はファン・ビョンソ人民軍総政治局長とキム・ヤンゴン労働党書記(統一戦線部長)、南はキム・グァンジン大統領府国家安保室長とホン・ヨンピョ統一部長官が出席した。軍事と統一問題のトップ同士による、事実上の最高位級会談となった。

25日の午前0時を過ぎて、ようやく6項目の合意文書が採択された。以下の通りである。


1.南と北は、関係改善のための当局者会談をソウルまたはピョンヤンで近日中に開催し、 今後、諸分野での対話と交渉を進めていくことにした。

2.北側は、軍事境界線非武装地帯南側地域で発生した最近の地雷爆発で、南側軍人が負傷したことに対し、遺憾の意を表明した。

3.南側は、異常な事態が発生しない限り、軍事境界線一帯のすべての拡声器放送を8月25日12時を期して中断することにした。

4.北側は、準戦時体制を解除することにした。

5.南と北は、今年の中秋節(チュソク)を契機に離散家族の再会事業を実施し、今後も継続していくことにした。このための赤十字実務交渉を、9月初めに行うことにした。

6.南と北は、多様な分野での民間交流を活性化することにした。


合意の核心は、軍事的な緊張状態を緩和する2、3、4項と言えるだろう。いずれも、朴槿恵大統領と金正恩第一委員長の裁可なくしては不可能な合意である。南が要求した地雷爆発の「謝罪」を、北は行為主体の曖昧な「遺憾」で決着させた。南はこれを実質的な「北の謝罪」と主張するだろう。ともあれ「遺憾」を前提にして、南の「宣伝放送の中断」と北の「準戦時体制の解除」が交換された。なかなかの交渉技術だと思う。

今後の南北関係改善を担うのは1、5、6項である。なかでも、5項の離散家族の再開事業が極めて重要な意味を持つだろう。今年の秋夕(チュソク)は9月27日。9月初めの赤十字会談が順調に進めば、金剛山で離散家族の再会事業が実現するはずだ。中断されている金剛山観光事業の再開に、弾みがつく契機となってほしい。

合意文書には触れられていないが、民間交流を妨げているのは李明博政権期の「5.24措置」だ。「5.24措置」によって北の船舶は南の海域を運航できず、南北交易と対北新規投資も全面禁止され、人道的な対北支援すら政府の制約下に置かれている。「5.24措置」が存続する限り、南北の民間交流活性化は夢物語にすぎないだろう。

にも拘らず、「多様な分野での民間交流の活性化」が合意されている。そして、近日中に当局者会談を双方の首都で開くという。行間を、しっかりと読まねばならないようだ。

支持基盤である保守勢力に配慮して「5.24措置」の撤廃を公式化できないが、朴槿恵政権は南北の民間交流を徐々に拡大することで、実質的に「5.24措置」を無力化していく算段ではないだろうか。そのような暗黙の了解が、今回の高位級会談であったのではないだろうか。ぜひ、そうあってほしいものだ。

何よりも今回の会談がもたらした成果は、南北の高位当局者が対話と交渉を重ねることで合意に到達できるという、貴重な体験を共有したことではないだろうか。根深い相互不信から会うことすら回避していたために、相手を理解する機会を自ら放棄し敵対心だけを高めてきたのだ。

「不信と対決」から「和解と協力」への転換を謳った『6・15共同宣言』から15年を経た今、南北の現当局者に民族的な使命を促したい。わが民族の分断に寄生し軍事大国化への野心を露わにする安倍政権に対処するためにも、これ以上の南北対決は無意味であり、平和共存の実体を誇示していきたいと思う。(JHK)

『祖国が捨てた人々-在日同胞留学生スパイ事件の記録』

2015年08月09日 | 三千里コラム

金孝淳『祖国が捨てた人々-在日同胞留学生スパイ事件の記録』



2015年8月15日付で、一冊の本が韓国の「書海(ソヘ)文集」という出版社から出ています。『祖国が捨てた人々-在日同胞留学生スパイ事件の記録』という本で、著者は金孝淳(キム・ヒョスン)さん。『ハンギョレ新聞』の元東京特派員で、編集局長も務めた韓国を代表するジャーナリストです。今は「フォーラム真実と正義」の共同代表です。この新刊は当事者や関係者の証言と膨大な資料をもとに、1970年代~80年代に量産された「在日韓国人留学生スパイ事件」の真相と背景に迫ったものです。400ページを越える大著ですが、この事件に関して国内外で、これほど総合的に分析し解説した書物に出会ったことはありません。

8月7日付『ハンギョレ新聞』にハン・スンドン記者の書評が掲載されました。全文を翻訳して紹介します。良書の日本語訳が、速やかに刊行されることを願っています(JHK)。



書評:「在日同胞スパイ」、私たちはこの証言に無関心でいる権利がない

この本を読むならば、私たちが生きてきた社会を、そして大韓民国という国を、根本的に考え直すことになるだろう。
私たちが生きてきた国の実体、この国を支配して運営してきた人々の考え方や道徳的・人格的な水準が、せいぜいこの程度だったのか...。

とても信じられないが、過去の時期に“国家転覆を企図したとてつもない変乱”として発表・報道(または、発表もされずに隠蔽)され、数多くの若者を死刑・無期囚へと追いやった「在日同胞留学生スパイ事件」は、そのほとんどが捏造された偽りであったことを、『祖国が捨てた人々』は生き生きと、そして冷静に示してくれる。それら事件の真相と、被害者たちの悔しい心情、事件を捏造した政権の非人間的な意図と不道徳性を、これ程までに具体的で総合的に明らかにした本は、これが初めてだ。

想像を絶するこの本の内容が真実であることを、被害当事者たちの証言と「民主社会のための弁護士会(民弁)」の弁論および裁判資料、日本の官と民の証言、そして何よりも数十年が過ぎた後に、重刑を宣告した元判決の誤ちを明らかにして再審で無罪判決を下した大韓民国の司法府が、保証している。被害者たちと同時代を生きた人間として、私たちはこの本の証言に無関心でいる権利がない。ただただ、関心を傾けてこのおぞましい悲劇を振り返り、再発防止策を探しだす義務があるのみだ。

2010年7月15日、ソウル高等法院刑事10部(裁判長イ・カンウォン部長判事)は、在日同胞イ・ジョンス(57歳)のスパイ事件再審で無罪を宣告し、判決文を次のように結んでいる。

“この事件は在日同胞留学生をスパイとして捏造するために、民間人に対する捜査権がない保安司令部(国軍機務司令部の前身)が、安全企画部(国家情報院の前身)名義で被告人を不法連行し、39日間もの強制拘禁状態で拷問による自白を引き出し、それによって被告人が5年8ヶ月間の貴重な青春を刑務所で送ることになった事件である。在外国民を保護し内国人と差別待遇をしてはならない責務を持つ国家が、反政府勢力を押さえつけるという政権安保の次元から、日本で生まれ育った被告人が韓国語をよくできずに十分な防御権を行使できないことを悪用して、在日同胞という特殊性を無視し、更には工作政治の生贄としたのがこの事件の本質である。”

京都出身の彼は自身のアイデンティティを追求する苦悩から、祖国留学によって人生を新たに始めようと高麗大学国文科に入学した。1982年11月6日、当時24才の青年だった彼は、何の理由も告げられぬまま下宿部屋から保安司令部捜査官らに連行された。殴打と水拷問、性器に電線を巻く電気拷問の末にスパイにされて10年の懲役刑を宣告されてから、約30年ぶりの無罪判決だった。彼を始めとして「在日同胞スパイ事件」の再審無罪判決が続いている。これまでに、再審無罪判決が下されたのは20余件。日本関連の「スパイ事件」に巻き込まれた人は約150名で、その内、在日同胞だけでも80余名に及ぶと推定される。

1951年に奈良県大和高田市で生まれ、二十才になる1971年、初めて祖国の地を踏んだカン・ジョンホン(64歳)。「在外国民研究所」を経てソウル大学の医学部予科に進学した彼は1975年、やはりわけも分からないまま保安司令部に連行され、惨たらしい拷問を受けて‘スパイ団の主犯’にされた。そして当時、西大門拘置所の最年少死刑囚となった。何と5年9ヶ月もの間、24時間手錠をかけたまま監獄生活をしたという。彼が仮釈放で出所したのは、13年後の1988年12月21日。彼が保安司令部から西大門拘置所に収監される時、大佐の階級章を着けた将校(おそらく対共課長)はこんなことを言った。

“知ってのとおり時局が極めて騒々しい。ベトナムが亡び、北がいつ赤化統一を企図するかわからない状況だ。何としてでも学生たちの国家観を正さなければならない。 ひとまずお前たちが我々の脚本に協力しろ。裁判が終わったら内密に釈放してやるから。”

‘裁判が終わったら内密に釈放してやる’という約束は、当初から嘘だった。それでも彼が13年後に出所できたのは、1987年の六月抗争で頂点に達した民主化運動のおかげだった。

一連の事件の始まりは1971年4月、朴正熙と金大中が激突した大統領選挙直前に検挙された京都出身ソウル大生、徐勝・徐俊植の比較的広く知られた「徐兄弟スパイ事件」だった。『祖国が捨てた人々』は、1975年に在日同胞留学生が大量に捕えられた「11・22事件」で中央情報部に連行され、輪姦された事実を暴露した埼玉県出身のクォン・マルチャさんらの話で始まる。

そしてキム・ウォンジュン、ユ・ヨンス/ユ・ソンサム兄弟、キム・ジョンサ、イ・チョル/ミン・ヒャンスク夫婦、「鬱陵島(ウルルンド)スパイ団事件」のイ・ジャヨン、ユン・ジョンホン、ホ・チョルチュン、チョウ・イルチ、チョウ・シンチ、ソン・ユヒョン、チャン・ヨンシク、イ・ドンソク、キム・チョルヒョン、カン・ウギュ、ヤン・ナムグック、チョウ・ドックン、チェ・チョルギョ、パク・パク、チン・ドゥヒョン、ペク・オックァン、キム・スンイル、チェ・ヨンスク、キム・ダルナム、そして拷問で精神錯乱となり結局は飢え死にしたパク・ジョンギ…。

『祖国が捨てた人々』はこれら事件の単純な羅列ではなく、その背景となる在日同胞の受難の歴史と時代的脈絡を通して立体的に眺望する。スパイの捏造過程で「在日韓国民団」は5・16クーデターの後、反李承晩の亡命家たちが主導した軍事政権に反対する「自主派」と、親日派が掌握した「親政権派」に分裂し、本国の公安当局が介入することで「自主派」は除去される。その際には日本の公安調査庁と、韓国政府から「報国勲章光復章」を受けた「アジア民族同盟名誉会長」の肩書を持つヤクザ組織「柳川組」の頭目、ヤン・ウォンソク等も動員された。

在日同胞留学生の救援運動に献身的だった高齢(80歳)の吉松繁牧師は、“日本政府の独裁政権支援こそがすべての悪の根源だ”と言った。“スパイ”にされた留学生の救出には、多くの日本市民が重要な役割をした。当時、大多数の韓国人はメディアの無関心もあって、事態を正しく知ることすらできなかった。
日帝時代に朝鮮人独立運動家を弁護した古谷貞夫・日本朝鮮研究所理事長が1971年12月20日、朴正熙大統領に向けて書いたという以下の公開書簡が、説得力を持って迫ってくる。

“8・15以前の日本国家は韓民族の最も優れた子供たち、独立の意志を曲げない闘士たちを、その主張に深く耳を傾けることなく国家という名の下に多数殺してきました。それを私たちは、慙愧の思いで記憶にとどめています。また、韓民族に量りしれない民族的損失を被らせたことに断腸の思いを持っています。私たちはこのようなことが再び繰り返されないように、日本政府の対韓政策および在日韓国人政策をずっと批判してきました。ところが今、あなた方があなたの息子と同世代の、韓民族の将来をまさに背負っていかねばならない前途有望な青年たちを、国家の名の下にいとも簡単に殺そうとしています。このような姿勢は、かつて日本帝国主義が犯した悪しき手法にとても似ています。”

著者が本の序文に書いている次のような姜尚中教授の話も、とても骨身にしみるものだ。在日同胞では初めて東京大学の専任教授になっただけでなく、日本で最も影響力のある学者の一人となった姜尚中教授と、彼と同じ世代だが‘スパイ’にされ青春の夢を没収された他の多くの在日同胞留学生たち...。両者の間の、途方もない差異を作り出した決定的な要因は、彼らは祖国に留学にし、姜尚中教授はドイツに留学したという事実だ。