迷宮映画館

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獄(ひとや)に咲く花

2010年05月22日 | は行 日本映画
江戸末期、長州萩の野山獄に投獄された男、吉田松陰。
けがれを知らず、己の信じる道を突き進む。そこに私利私欲はひとかけらもない。彼にある思いは、純粋にこの世界をどうしたらよいものにできるか。この世の矛盾を打破するためには、何をしなければならないのか・・・。

そのためには、己がどうなろうと構わない。自分の信念を貫くことができたなら、死もいとわない・・・・。

言うは易しで、そんな考えを持って突き進んだ人間は数多くいたと思う。しかし、真にそれを実行し、まっすぐに突き進み、そして死んでいった男は、そういない。いや、そのように生きようとしたのではなく、そう生きるべく世に遣わされた。。。。

司馬遼太郎は、そういう人間を「花神」と呼んだ。花咲じじいである。枯れ木に花を咲かせたのは奇跡ではなく、そうするべく運命づけられてこの世に遣わされたと考える。
それが吉田松陰である。

彼が何をなしたか・・・・。何をしたかといわれると、映画の中でも言われるように、彼自身はなにも成し遂げてはいないかもしれない。世の中を見、外国をその目でみたいと渇望し、なんとか思いを遂げようと実行したが失敗。獄につながれ、普通はそこでがっくり来るはずだが、どっこい彼に落ち込んでる暇はない。

語句につながれていても、彼の超ポジティブな生き方は変わらない。何の未来も希望のないはずの獄の中で、勉学に励み、そのうざいまでもの前向きな生き方を周りに強制し、いつの間にか、まるで荒んでいた獄仲間を松陰ワールドに引き込んでしまう。

彼の人生の中で、唯一花があったとき。色気の花である。一生独身をとおした・・・というよりも、彼は童貞であったといわれるが、彼の生きざまに色気はいらない。でも、たった一度だけ心を交わしたのが、獄中で出会った、高須久・・・だ。まさしく精神の愛である。

わずかな邂逅であったが、久との出会いがたとえ獄であっても、精神を前向きに高めていく。今風にいえば、「どんだけ前向きなんだ!」と、あきれらそうだが、それが松陰だ。

彼が目指す矛盾のない、だれしもが幸せに生きるため世界を作ろうとすれば、大きく立ちはだかるのが幕府である。この頃、幕府を倒そうとか、徳川家をなくそうなどという考えまで及んだ人物はそういない。それが彼こそ草莽の志士、彼から幕末が始まった・・・といわれるゆえんだ。

彼はなにを成し遂げなかったかもしれないが、彼がいなければ幕末は来なかった。いや、彼が遣わされたのは、時代を変えるためだった・・・・と、考えたほうがしっくりくる。

危なっかしく、要領が悪く、生真面目で、融通が利かない。しかし、人間としての魅力にあふれ、口だけでない!今の政治家の方々をご覧になったら、どんだけお嘆きになるかと、察するに余りあるが、そんな生き方の一片を切り取ったのが、今回の映画となる。

ものすごい前置きで、恐縮です。
獄での久とのやり取りは有名であるが、それをこのようにして切り取って描いたものは初めて見た。獄とはいっても、それぞれの部屋に鍵はかからず、合宿生活みたいだ。食事もなんだか豪勢で、牢部屋の中には立派な箪笥まである。

最初は胡散臭い松陰のKYぶりを斜めに見ていた獄中の人たちが、徐々に松陰に惹きつけられ、前向きに取り組んでいこうと変化する様子が面白い。

松陰役の役者さんは、「長州ファイブ」の遠藤勤助だったというが、あまり既視感がないのが先入観なし見るのに役にたった。

で、久役がなるほど、サラブレッドの近衛はな。目黒祐樹の娘さん。さすがにうまい。たたずまいがいい。最初の目にクマ作って、生気のない様子から、毅然とした武家のお内儀風になった姿など、お見事。



中心になった人物二人が、あまり知られていない俳優さんというのが、地味な映画という印象を強くしてて、実際に見ても思いっきり地味だったが、なかなか良くできていた。脇をしめてたベテラン俳優さんたちが映画を応援しているかのように見えた。本田博太郎書の題字もなかなか素敵。

今なぜ、松陰なのか?と、つらつら考える。政治には気骨がいる。平安の世だろうと、幕末の乱世だろうと、どんな時でも。あんな気骨の「花神」を、今の時代は必要としているのだが・・・。

◎◎◎○●

「獄(ひとや)に咲く花」

監督 石原興
出演 近衛はな 前田倫良 神山繁 勝村政信 池内万作 本田博太郎 目黒祐樹


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