迷宮映画館

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ひめゆり

2008年06月24日 | は行 日本映画
第二次世界大戦、太平洋戦争の末期、連合国軍は、徐々に日本に迫り、外堀から埋めていき、本丸に乗り込もうとした直前のことである。

連合国軍は、大艦隊を組んで、沖縄に上陸しようとしていた。読谷海岸にずらりと並んだ大艦隊から、容赦なく飛んでくる艦砲射撃。第二のノルマンディー作戦と言われたが、日本軍にそれに対抗するだけの戦力はすでになく、黙って艦砲射撃を受けていた。

何の抵抗もなく、「まるでピクニックのようだった・・」と言わしめた上陸。無抵抗の日本の様子から、連合国軍は、すぐさま投降するだろうと甘く見ていた。しかし、そこから地獄の2ヶ月が始まるのである。

・・・・何度も、何度も繰り返して語ってきた沖縄戦の様子だ。修学旅行に行く前の生徒に、平和教育を行ってきたが、映像を見せ、地図で説明し、現在の基地の様子を見、今自分たちがここにこうしていることの意義を伝えようとしてきた。

しかし、自分に欠けていたのは実際に沖縄の地に行ったことがないこと。さも見たことがあるかのように話しても、忸怩たる思いをぬぐえなかった。いつか行きたいと願いながら、なかなか行く機会がなかったのだが、念願の沖縄旅行を2年前に断行。やっとこの目できちんと見ることができた。

この目で見てきた嘉数の丘、ひめゆり、摩文仁(まぶに)の丘の慰霊の碑、そして延々と続く基地。やはり違う。映像や、本とは違う。つくづく来てよかった、見てよかったと思った。

ひめゆり記念館には、少女と教師の写真が、ずらっと並んでいた。それらはみな、あの時を生き、そして死んでいった人たち。そこで命を落とすことなど、夢にも思わずに、動員され、看護の仕事に就いた16歳から19歳の少女たちのまっすぐな目が、こちらを見ている。

彼女らは卒業式直前に動員され、病院として連れて行かれたところは、赤十字のマークなどどこにもない、壕の中だった。ごつごつした岩の中で、右も左もわからない彼女たちは、それこそコマネズミのように働いた。包帯を替え、手術の助手をし、切り落とされた手足を捨てに行き、死んでしまった兵隊の死体を片付ける。

体を横たえる暇もなく、本当に倒れる寸前まで働いた。でも、傷ついた兵隊は、次から次へとやってくる。絶えまなく働いた彼女らに待っていたのは、日本軍の負け。沖縄守備隊は、撤退を余儀なくされる。

そこで戦闘をやめることは、簡単にできたはずだが、日本軍はそれをしなかった。なぜなら、沖縄はすでに捨石。本土決戦のため、一日でも、一時間でも時間を稼ぐ。これが沖縄戦の使命だったからだ。それは硫黄島でも同じことだった。

沖縄戦の本当の地獄は、ここから始まる。連合国軍は、丘を一つ一つつぶして、一歩一歩、島南に退却する日本軍を追い詰めていく。血で血を洗う戦争だった。その戦場となったのは、市井の人たちが暮らす日常の中。軍人はもとより、市民も完全に戦闘に巻き込まれて、軍と一緒に南へ、南へと移動する。当然、ひめゆり隊も一緒だ。そこでとことん叩き込まれたのは戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」だ。

生き残ったおばあたちは、自分が体験した地獄の様子を振り絞るように語る。生き地獄の様子など、誰が語りたいものか。でも、おばあたちは、そのために自分らが生かされたんだとの強い意志から、振り絞るように語るのだ。

ガマの中の地獄、目の前で逝ってしまった仲間たち、手りゅう弾で自決をした友人、火炎放射機で追いまくられた様子、うじの湧く病巣・・・。どれも悲しすぎる。忘れたくても忘れられないような出来事の数々。できればこんなことを口に出したくもないはずだ。でも、自分が語らなければ一体誰が語るのか。あの時死んでいった仲間に申し訳が立たない。

と話すおばあたちが一様に語るのが、絶対に捕虜になってはいけないと叩き込まれたこと。その間違った教えによって、どれだけ無駄な血が流されたか。無意味な戦いを続けなければならなかったのか。

彼らは皆死ぬ時に「死にたくない。悔しい」・・・そう言って死んでいった。生かされた自分たちに残された使命だというのだ。

おばあたち、がんばって。アラウンド80のおばあたち。これを見た人たちは、絶対に戦争なんか起こさない。

「ひめゆり」

監督 柴田 昌平


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
教えてる人にこんな事を言うのは失礼ですけど (GMN)
2008-06-26 23:23:26
やっぱり教科書じゃわかんないだろうな~って思います。じゃあ映画なりドキュメンタリーを観たからといって戦争わかるのかつったってそれも違って、やっぱり実際に体験した人じゃなきゃわからない事ってあると思います。

でも、だからこそこうして記録を残さなきゃって思ったんだろうし、生き残った彼女達も忘れたいけれど忘れてはいけない事をきちんと伝えていかないとって思ったんだろうな~みたいな風な事を思いました。

あと10年20年もして戦争の体験者が本当に居なくなったらどうなっちゃうんでしょうね?ホントに教科書の1ページでしかなくなってしまうんじゃないか?なんて考えるとちょっと怖いなとも思います。
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>GMNさま (sakurai)
2008-06-27 08:58:18
全然失礼でないです。
教科書には、例の問題もあったように、ほとんど載ってません。
修学旅行の飛行機使用が解禁になってから、沖縄旅行を始めたのですが、そこから皆がちょっと嫌がる平和教育です。
で、あたしがいくら語ったって、おっしゃる通り本質を語れるはずがない。戦争のなんたるかを知ってるのか、と言われたら知らないです。
ここは、知らずに生きてこられたことを幸せに思うほかないです。その状況の中で、自分がやれることをやる。
なぜ戦争になってしまったかの、戦争をやめることはできなかったのか、なぜ日本はそういう道を選ばざるを得なかったのか・・・と言うあたりを追及することでしょうか。
次の講座は、その辺をテーマにしようと思ってます。
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