2月25日 月曜日
おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。
世界宗教統一をシンプルに話せば、
仏教・・この世は地獄である。
イスラム教・・・死の恐怖の克服。
キリスト教・・・愛があれば何でも許される。
この三位一体法が 「一人一宗」 祈り方となる。
問題なのは、女性が不在であることだが、
地獄論・死想論・女性論・そしてウィンチューで達成できる。
今日のブログはその中の一つ、死想論である。
死に対して私たちはこれまで固持してきた姿勢に些か混乱が生じている。
社会は死に対して率直な対応をとってきたとは言い難いのだ。
死は生きるもの全てにとって避けることが出来ない 「ゴール」 であって、
「つけ」 を負っているのでは決してない。死は神からの贈り物なのである。
ところが現実は、私たちはまるでそうならないかのように振舞っている。
「ゴール」 を見えないところに隠してしまい、
排除しようとすることに誰も異議を申し立てる素振りを見せない。
それはまるで死の現実を黙殺しようとするかのようである。
確かに、自分自身の死を思い描くことは至難の業だ。傍観するしかない。
そのせいか自分は不死であるという思い込みが自然秩序から破滅を招く。
他人の死については文化人らしく究めて慎重に対応しているが、
それでも他人の死を受け入れることは難儀である。
その度に私たちは深く動揺し期待を裏切られたような気持になるのである。
その背景にあるのは、死の必然性ではなく、
偶然的なものと考えたい願いが見え隠れする。
死者に対する特別な姿勢は、死の恐れを感じさせないためのものだともいえる。
私たちは自らの恐怖を死者に払いのけているのである。
この様な強い影響を我々に及ぼしている現実であるのだが、
うまく対応しきれずに、社会生活は混乱し麻痺し、ひたすら困惑する。
それは新しい対応をまだ発見できないためであろうと考える。
だから死への新しい対応を見出すためには
死に対して今までとはまったく異なる思想や哲学が必要となる。
過去を省察すれば、無知ゆえの軽視に対し宗教がその一端を担っている。
死後の生をより価値の高いものに、完全に意味のあるものとする努力と、
その一方では科学者による来世への価値を低めて現生を重視させる。
この二つの対立が我々を悲観的なものとして否定する態度となる。
普段はそれでも構わないのだが、いったん他人の死に直面するとパニックになる。
死に対する文化人的で宗教的な対応は、
大脳では答えが得られず、ミーム(遺伝子)によって恐怖が半減するどころか克服可能だ。
思考の限界にはミーム(遺伝子)で対応すれば不可能が可能となる。
これまでのように不安定な抑圧よりか、もっとはっきりと示す死想論であるのだ。
その死想論とは、真実の在り方にきちんと配慮し、優しく語り掛けるような、
人生を耐えやすいものにしてくれるという利点が備わっているのである。
死が価値あるものに変えられるならば、受け入れる側も楽しくなるであろう。
死が日常的な出来事として誰もが直視可能な状態に示せば、
偽善的な態度や目を背けて逃げ出すことしか出来なかった社会秩序から大きく脱却するであろう。
社会は一新する。もう、騙されることはない。
死の恐怖は実は人間の深いところでかなりの規制をかけているのである。
社会現象とは、恐怖現象にある。恐怖の減少だ。
なにも死は強者の特権ではなく、弱者の味方でもあるのだ。
つづく。
おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。
世界宗教統一をシンプルに話せば、
仏教・・この世は地獄である。
イスラム教・・・死の恐怖の克服。
キリスト教・・・愛があれば何でも許される。
この三位一体法が 「一人一宗」 祈り方となる。
問題なのは、女性が不在であることだが、
地獄論・死想論・女性論・そしてウィンチューで達成できる。
今日のブログはその中の一つ、死想論である。
死に対して私たちはこれまで固持してきた姿勢に些か混乱が生じている。
社会は死に対して率直な対応をとってきたとは言い難いのだ。
死は生きるもの全てにとって避けることが出来ない 「ゴール」 であって、
「つけ」 を負っているのでは決してない。死は神からの贈り物なのである。
ところが現実は、私たちはまるでそうならないかのように振舞っている。
「ゴール」 を見えないところに隠してしまい、
排除しようとすることに誰も異議を申し立てる素振りを見せない。
それはまるで死の現実を黙殺しようとするかのようである。
確かに、自分自身の死を思い描くことは至難の業だ。傍観するしかない。
そのせいか自分は不死であるという思い込みが自然秩序から破滅を招く。
他人の死については文化人らしく究めて慎重に対応しているが、
それでも他人の死を受け入れることは難儀である。
その度に私たちは深く動揺し期待を裏切られたような気持になるのである。
その背景にあるのは、死の必然性ではなく、
偶然的なものと考えたい願いが見え隠れする。
死者に対する特別な姿勢は、死の恐れを感じさせないためのものだともいえる。
私たちは自らの恐怖を死者に払いのけているのである。
この様な強い影響を我々に及ぼしている現実であるのだが、
うまく対応しきれずに、社会生活は混乱し麻痺し、ひたすら困惑する。
それは新しい対応をまだ発見できないためであろうと考える。
だから死への新しい対応を見出すためには
死に対して今までとはまったく異なる思想や哲学が必要となる。
過去を省察すれば、無知ゆえの軽視に対し宗教がその一端を担っている。
死後の生をより価値の高いものに、完全に意味のあるものとする努力と、
その一方では科学者による来世への価値を低めて現生を重視させる。
この二つの対立が我々を悲観的なものとして否定する態度となる。
普段はそれでも構わないのだが、いったん他人の死に直面するとパニックになる。
死に対する文化人的で宗教的な対応は、
大脳では答えが得られず、ミーム(遺伝子)によって恐怖が半減するどころか克服可能だ。
思考の限界にはミーム(遺伝子)で対応すれば不可能が可能となる。
これまでのように不安定な抑圧よりか、もっとはっきりと示す死想論であるのだ。
その死想論とは、真実の在り方にきちんと配慮し、優しく語り掛けるような、
人生を耐えやすいものにしてくれるという利点が備わっているのである。
死が価値あるものに変えられるならば、受け入れる側も楽しくなるであろう。
死が日常的な出来事として誰もが直視可能な状態に示せば、
偽善的な態度や目を背けて逃げ出すことしか出来なかった社会秩序から大きく脱却するであろう。
社会は一新する。もう、騙されることはない。
死の恐怖は実は人間の深いところでかなりの規制をかけているのである。
社会現象とは、恐怖現象にある。恐怖の減少だ。
なにも死は強者の特権ではなく、弱者の味方でもあるのだ。
つづく。