さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

綾部光芳歌集『水泉』 1

2016年07月17日 | 現代短歌
 飯能に生れ育ち、五年前から秩父に越して暮らしているという作者の第七歌集。緑の豊かなところに隠棲しているかたちだが、世間の出来事や、自他の在り様を問う作者の言葉は、きりりと引き締まっていて、批評的な含蓄に富む。

旧居には思ひ出多しちちははもはらからも妻も住みてゐたりき
わがつひの日を思はむかいつぽんの椿を剪れば血噴く思ひす

「ちちはは」も「妻」も、もうこの世には居ない。転居にあたって遺愛の木を切ったのだろう。哀切な歌である。

たまものの新蕎麦の香をしみじみと味はひゆくにきみを想ふも
壮年と晩年の妻を想ふときそれぞれ滝のやうに響かふ
調子にはのるなと天よりこゑのあり妻の声かも目覚めてみれば
恋しきは手の届かざる地にをりて匂ひも届き来ざる晩秋

 決定的に失ってしまったあとでも、常にその人と対話をすることができるなら、その人はうしなわれていない。作者は、折々に「天よりこゑ」のようなものに触れているのだ。

錯乱に抑への効かぬもの言ひを自他痛め深き傷負はすなり

 これは私も身近の人から聞いたことがある場面なので、周囲の痛みはいかばかりかと思う。人はそう簡単に老いもせず、また死にもしない。話の通じなくなった相手とやりとりを重ねるごとに傷は深まるのである。つらいことだが、こうやって見つめて歌の格調のなかにつかみ、詠懐の詩とするのである。



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