さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

田井安曇歌集『山口村相聞』 改稿

2016年07月09日 | 現代短歌
 この本は、古書で買って積んであったものなのだが、ある時水に浸かってしまったのである。物置きとして借りている古い一部屋の二階の水のパイプが破裂して、不動産屋から電話が入り、見に行った時には何百冊かの本が駄目になっていた。それでも、あまり水をかぶっていなそうな本を車に積んで持ち帰り、夏だったので車(貨室の広いワゴン車である)に入れたまま乾燥させてみようと考えたのだが、やっぱり駄目で大半の本を廃棄した。それでも捨てなかった本のうちの一冊が、この歌集である。

はだかにて臥ているアダムイブ二人おのもおのもの沈黙に照る

 「臥ている」は、「ふしている」と読むか「ねている」と読むか。「おのもおのも」は「各々」を荘重に言った句法。沈黙している二人の姿が、苦々しい(にがにがしい、ですよ)思いを抱えて背中をそむけあう夫婦の姿を思わせる。もう一首、アダムとイブの歌があった。

アダムといいイヴといいあうまはだかのよろこび一つ天はゆるさず

 この後に絵画を詠んだ歌を配して韜晦しているが、歌の意味は、たぶん、好きになった女性がいたのだけれども、何もしないうちに別れてしまった、というような複雑な事実的な背景がありそうな気がする。一冊を読んでいると、ほとほと自分の身勝手に困惑し、われとわが行いに天を仰いであきれている男の姿が見えてくる。と言ってはみても、妻なる女性の目は厳しくて、そういう男を易々と許しはしないのであったか。作者の私生活に詳しい人ならいろいろと言いそうだが、私はそこを詮索する趣味はない。

念のために書いておくと、むろん上の歌が出ている一連では、キリスト教の厳しく<性>を抑圧したあり方を題材としているのである。けれども、繰り返しになるが、そういう事柄を通して、歌われているのは、作者自身の<性>にまつわる苦しみなのである。上の歌に続く作品は、次のようなものである。

感性をやわす<性>とぞ 童貞にあらぬ聖の宣いにける  
      ※「聖」に「ひじり」、「宣」に「のたま」と振り仮名。
大いなる乳房の女横たわり天使を描かざりしクールベ
      ※「女」に「おみな」と振り仮名。
西空の茜するころほのかなる<性>もちて天使の集い来れよ
人魚でなくてよかったのかどうか斯がなくば精神はもっと屹立するか
      ※「斯」に「し」と振り仮名。
くらやみの中の触覚のするどけれ女体男体という束のある
胸の辺の二つ隆起を子に属すものと教会ははやく決めにき

 半分だけ引いた。これだけだって相当に満たされず懊悩している気配は感じられるだろう。よって、私は最初に引いた「はだかにて臥ているアダムイブ二人おのもおのもの沈黙に照る」を、田井安曇の秀歌の一つとして称揚してみたいのである。




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