さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

片山貞美の歌 1

2016年05月08日 | 現代短歌
 以下の文章は、2014年1月付の原稿であるが、読んだことのない人のためにフォルダの中から発掘して再掲する。また新たな状況の文脈のもとに、片山の歌を置くことができるのではないかと思う。

 片山貞美といえば、言葉を通して眼前の物象の在りようを正確無比につかみとり、存在物のモノとしての現れに直接突き当たろうとするかのような作歌姿勢が、私には慕わしい。たとえば無作為に一九八二年刊の歌集『すもも咲く』から二首歌を引いてみると、

  山のいもの天狗の鼻の光りつつ昼けむりくる谷を見おろす
  岩くらく走れる流れ日おもてに玉だれかけて池にさざめく

というような、歌集のどこを開いてみても、モノの物質性と文字の物質性とが、瞬時に融合しつつ打ち合うような独特の詩境を示している。それは定型詩としての玲瓏とした音楽性を含み持つ至高の藝術的達成だった。

 しかし、昭和二五年から三五年ごろまでの約十年間の歌を集めたという第一歌集『つりかはの歌』をめくってみると、後年の円熟の予感はあるものの、だいぶ作品の様相を異にしている。後記において作者自身が、じぶんの歌は、狭い「私歌」にすぎないと謙遜し、あえて自己限定の弁を述べているのにもかかわらず、鋭い社会性を持った歌が数多く収められていることに驚かされるのである。いや、謙遜と言うよりも己の歌の狭さを呪いながら、幾重にも屈折した言葉を連ねたのが、『つりかはの歌』の後記の言葉であった。歌を見よう。

  石炭満載車輌つづき去り水をこぼしつつワム車輌去る
  待たされてゐて仰ぐ電柱複雑にトランスも載せ靄ごもるなり
  心此処に置けば即ち逼塞のただすべのなきさま見するはや

 これが、歌集冒頭の三首である。ここの句またがりの多い不安定なことばの運びに端的にあらわれているものは何か。作者は、真っ黒い石炭列車や、靄に黒々とかすんで見える電柱のトランスを見つめながら、自らの物思いや情念を押しつぶそうとしている。「心此処に置けば」とは、そういうことだ。わかりいい歌ではない。通勤の途次ホームに立って列車を待ちながら、「逼塞」している。言うならば、立ったまま追い詰められているというような状況なのだ。あえてそのような所に身を置こうとする精神の傾きも見て取れよう。

 片山ら多くの「戦中派」の人々は、自己の生活と、生きる上での(それから文学上の)理念となるようなものを、当時流行の社会理論の助けをかりずに自前で再建しなければならなかった。だから、敗戦によって招来された自由も、彼らには無条件に享受できるようなものではなかったのである。

  油槽車はUSA700050わが帰りゆく電車を待てば
  紛れつつありしいのちのいきいきと財万億とともに蘇る
  ひきぬかれたる心胆はをさまれどいまいましjet機飛びすぎつ
 
 これらの歌には、被占領国に生きるくやしさが読みとれる。二首目のjet機は、米軍の軍用機。「ひきぬかれたる心肝」とは、戦争に敗れた日本人の誇りを示唆している。それを己一個の恥辱としても受け止める感覚が、ここには存在する。



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