さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄 6月から12月

2017年01月29日 | 現代短歌
以下は、二〇一〇年一月九日刊の小冊子『一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄と九九年の「未来」月集欄(七・八・九)を読む』の前半の6月から12月の部分である。

○六月号
  じわじわと顔の白さが浮び出るポラロイド写真のような復讐    加藤治郎
  人体の打ちあう音が底ごもる部屋にナイフは清潔である

どこか映画を見ているような物語性が感じられること、それが加藤作品の特徴のひとつではないかと思う。私事の澱みがあるかもしれない作でも、一首めのように、けっこうニヒルで格好いいのだ。

 内腿を撫づるがごとくしてゐたり芽吹きの前の桜木の幹を    大辻隆弘

芽吹く前だから山桜かと思って引いてみたが、この頃は染井吉野を思い浮かべる読者が多いだろう。そうすると、これは咲いたあとになるのか。みだりがわしき落花は風に飛ばされ、雨に洗われた後なのか、その辺がややそぐわない気がする。でも、上句のエロティックな感じがいい。師風の継承と、そこからの逸脱、さらには超脱が、依然として作者の課題かと思う。むろん、他人事ではない。

 雪はみなきのう解けたり黙々と鞭のかたちに道つづきいる   大滝和子
  粘土子という名の女この国にふたりくらいはいないだろうか

自同律の不快と恍惚を歌い続ける大滝ワールドは、時に同語反復の単調さに陥りそうになりながらも、間歇的な修辞の小爆発によって、その鬱血を瞬時に吹き払ってしまうところに特徴がある。

  キューピット風に犬歯のない顔で笑いながら苦しみを言う   東 直子

 何かいろいろと悩みながら試行しているという印象を受けた一連で、端的に言うと、どこかひっかかって来るものが乏しいような気がする。ここからもうひとつ出てゆくには、他者の視線が必要である。二・三人ぐらいで緻密な歌会をやった方がいいのだろうなと、老婆心ながら思う。掲出歌はことばの輪郭がはっきりしていて、「苦しみ」を言う主体の変によじれた意識のありようは伝わる。

  黄昏に毛穴のような目を開く半身不随の都市と俺とが    江田浩司
  血の付いたメスを真水で洗うごと考えており妻への愛を
 戦いの始めは昏くふるえつつ無数の手にて血をぬかれゆく

 どこか悲壮な感じが漂う。「関係」への鋼のごとき意志を感じた一連であった。愚直なまでに闘っている。「生活」の雑事は、そういう本質的な問いかけから人間を救ってくれるものだとぼくは思うものだが、それが生活というものだろうとこれまで思って来たが、作者は「生活」をしつつ、この高度な観念性を手放さない。観念が「生活」であるような「関係」を維持しようとしている。それは大変だろう。だから、しばらく続いたGセンター云々という標題の一連には、ひやひやした。ついに無理がたたって江田さん癌になっちまったのかと思ったからである。どうもそうではなかったらしくてよかった。ちなみにあの一連、「私事」と「観念」の折り合いの付け方が奇矯にすぎてわからないものが多い。だから読みのスタンスがとれない。そういう読みのスタンスを破壊することを意図した作品だと作者は言うかもしれないが、「Gセンター」は生々しすぎる。遊びの入り込む余地がない。何度も言うが、短歌の場合は、今月の一連の方がどうしても読者には伝わりやすい。それはこの詩型が百年がかりで作り上げて来た生理だからである。これは先の江田さんの散文詩集への言及とは別である。「私性」についての問題を典型として、ジャンルは読み方を規定している面がある。それを負性としてとらえるだけではなく、われわれはそれを利用している。利用しながら疑わないのはおかしいと江田さんは言うだろう。それは正論である。ただ、論理的に正しいことがそのまま演繹的に正しい詩の実践(変な表現だが)に直結するとは限らない。「前衛短歌」の問題を、江田さんは考えるべきである。ぼくらは、それを丁寧にやらねばならないと思っている。

  焼け石を踏むはげしさに欲望のカラカラ浴場ありつづけたり    松原未知子

 「欲望」という概念語が歌の均整を破壊しそうになっている。それを百も承知で作者はやっているのだ。この一首が同時代と重なるものを持つように文脈を作り変えることは可能だろうか。小池光の『岡井隆』には、そこのところのヒントが示されていた。もっとも小池はこの歌の「欲望」はあまり支持しないかもしれないが。一連が、イタリアにおける作者の個人的な想念の遊びから時代の文脈へと越境するためには何が必要なのか。そんなことは望まない、と作者は言うだろうか。でも、作者の近刊歌集『戀人(ラバー)のあばら』の〈死に至る病をひとつ下さつていいのよ永遠に生きるのは嫌〉という歌などには、はっきりとそれが感じられた。もっとも個人的な詠嘆であるものが、本質的なところで時代を刺す。松原さんはそういうものを可能にできる作者の一人だと思っている。
 今月は後半から言及しはじめたら、前半まで及ばなかった。申し訳ない。
   《九八年九月号》
○ 七月号
 
  小学校終えしは去年けだるさが子にうっすらと生えはじめたり   中川佐和子
  クローン鮃クローン分葱…はじめから大人の顔の少年少女    桂 保子

 二首とも思い当たるところがある歌だ。学校文化が疲弊の極に達して求心力を失っている一方で、子供社会も小さな単位に解体してしまっている。そのため、柔軟な人間関係を作り上げることが苦手が子供が増えている。いじめもある。いじめられないように気をつかうだけだって大変だ。情報社会の中で、子供たちはみんな変に大人びている。流行に遅れないように。他人のことばに機敏に反応しないといけない。だから、みんなクローンのようにどこか似通って来る。そうやって気をつかって生きて行くのは、実に大変なのだ。「けだるさが子にうっすらと生えはじめたり」黴のような、大人の体毛のような倦怠感。

  オリーブの油煮つめしアレッポの石鹸は母の戦後のにほひ    水沢遙子
  恋を禁ずる父に順う思春期をするどかりけり機関車の笛   釜田初音
  頬に風 老母殺しをうたいいし青森訛りの甦りくる   佐伯裕子

追憶の歌を並べてみた。アレッポはシリアの商業都市。輸入物の石鹸の香が母への追想を誘う。二首めの作者の郷里は山形だった。一九六〇年前後は、まだ現役の機関車が多く走っていた。茶色い貨車の板壁、網棚に乗せられた学生鞄、手にしているのは岩波文庫、というところか。三首めの青森訛りの人物は、たぶん寺山修司だろう。

  かひなにはおほぞらがある春霰散じてゐると瞑りて思ふ     紀野 恵
  ぬるみ来る水を湛うる泥の層の必ずや抱く東京どぜう     柴 善之助

 春の季節が感じられる歌。一首目、両腕をひろげて大空の広さを受け止めている、その時、いまどこかで霰が散っていると感じられた。季節の空気に渾然と一体化したところでよんだ歌、というように解釈してみた。二首め、魚屋の店先にしゃがんで、水面に浮き沈みするドジョウを見ていた幼い頃のことを思い出した。

  さながら引き潮のうみ夕空に残されし星みな透きとおる   さいとうなおこ
  キューピーの背中に走るふたすぢの眉のごときは羽根だと教ふ    大辻隆弘
  なにも映らぬ画面ではない父と母と植木鋏と床のひろがり   加藤聡明

 どれも淡いようでいて、確実に何かをとらえている歌。一首めは、夕空の淡い星の光を、引き潮のあとのきらめきにたとえたところがいい。二首めの「これは何か」と問う子も、それに答える父も無心である。そこがいい。三首めは、消えているテレビのブラウン管に室内の様子が反射しているのだろう。それをことさらに「なにも映らぬ画面ではない」と言ってみせる。思っていることを言わないことから、却って屈従の思いはにじみ出る。そのあたりの引き方が巧みである。言い換えると、抑え込んでしまっている。「父と母と」というのは自分ら夫婦のことではないのか。詳しいことはわからない。けれども、そうだろうと感じさせる。日々をして、あるがままに在らしめよ。加藤さんは現代の修道師であろう。

  逢ふたびに勃起してゐる青年といふ逞しき隠喩をわれに!  松原未知子

 松原さんのセクシーな歌のファンは多い。きっと、もろにエレクトラ・コンプレックスの歌なのだ。『戀人のあばら』の中にあった〈彼らみなホモ・セクシャルでありしことわが感覺の芯を苛む〉という歌が傍証となるだろう。にしても、この凶暴なエッチな雰囲気、好きです。

  胸板に耳を当てればあかねさすアレキサンドリア図書館の見ゆ   大滝和子

 文語で統一すると「当つれば」で、私としてはその方が居心地がいいのだけれども、大滝さんのような口語派の一番苦しいところがここである。胸板と言っているけれども、何に耳を当てているのかは、わからない。現実にこんな男性がいてたまるか。ひょっとして、アレキサンダー大王そのひと。ううむ。

  人から軽く見られているのは背すじが丸いからだ影よワタクシ  岡田智行

 掲出歌は結句がやや難ありなのだが、この歌のかんじだと、岡田さんは「未来」では上野久雄さんの歌などをもっと研究したらどうか。意匠が境涯詠の成立を邪魔しているというか、そんな感じなのだ。

  ドアのノブはいつも冷たし「ヴェネツィアの宿」読み終えて触れたるノブも
                                   東 めぐみ

 一連、どれもムード先行の歌である。これもそうなのだが、かろうじて我慢の範囲内だ。読者も悪いが、こんな甘ったるい詩に安住している作者も悪い。    《九八年十月号》

 付記。当時「美志」という雑誌を一緒に出していたので、この毒舌が可能だった。

○ 八月号

 〈朝が来るからさよならを言えるから〉安っぽい詩のような抱擁      東 直子

 上句はどこかで聞いたようなフレーズである。と同時に、自分の気持を託してしまいたくなるような言葉でもある。作者は、この歌の中の男と女を両方とも許してはいない。でも、受け入れている。朝が来るから、さよならを言えるから。そんなの理由にならないけれど、まるでそういう悲しい抱擁のように、「今」がある。言葉はそれをつかまえている。

  つゆの雨知らぬ間に忘れゐし人は(ふあん)ファゴット吹きでありしよ  紀野 恵
使ひ魔をつね先立ててまつすぐに(きぐ)あゆむかなはららく茨

 今月の一連、どれもいい。作者はことばの音楽を奏でるソリストだから、他人もまた奏者として遇するがごとし。でも、(ふあん)とあるから、何か恋の予感のような、わくわくとした感じと、うまく演奏してくれるのかしら、というコンサート会場に出かけた時のようなスリルを同時に覚えているのだろう。ファゴットが(ふあん)と鳴りそうなおもしろさもある。昔読んだ『トニオ・クレーゲル』の雰囲気をいま思い出した。あの小説の後半に出てくるもう一人の少女、のような、もう一人の男性…。うん、やっぱり恋の思いだ。…それと、アートっていまや郷愁なのかもしれない。音楽の詩としての短歌、というのも残念ながらそうだから、この括弧の技法は、作者が最大限そういう状況にあらがおうとしているものととりたい。

  カピバラはあせた茶色の風合いのセーターみたいな沼を知ってる    小林久美子

今月の一連、南米の風物が感じられて楽しかった。カピバラは、愛らしい目をした巨大なねずみで、水辺に棲息している。南米の事物には、等身大の無限があるようで、現在という時間の底が抜けている。時間のありようが、日本に住むわれわれとどうもちがう。これはただの童画的な世界ではない。ぼくは小林さんには、もっといろいろなことを教えてもらいたいと思っている。

  うちけぶる大和の雨季や経蔵に心経の心滲みゐるらし     黒木三千代

一読して、深い息を吐く。同じ一連の
〈紅葉がそこに散りつむやうに積む千年、まつくろな両界曼荼羅〉にしても、
〈仏龕の扉絵すすけ目に見えぬ菩薩の朱唇ひらめくよ ほら〉
にしても、見つめているのは想念の闇であり、存在の暗がりなのである。作者は雨季の歌の名手だった。

  休日の奴の会社の硝子ドアあかいエックス暗いエックス       岡田智行

 先月は言い足りず、送稿したあとで後悔した。この歌には長い詞書があって、「Xコーポレーション四日市出張所はわが家から歩いて3分の所にある。」とある。「奴」はたぶん友人なのだろう。ぼくは岡田さんのこういうさりげないけれども鋭いところがあるような歌が読みたいと思う。

大きく白い布の嚢がうごめきて苦しむはてに女を産めり     大辻隆弘
生娘のまま衰へむししむらの火照りを嘆き白布を拡ぐ

 一連のはじめの三首(全部で何首めまでかが、わからない)は観劇の歌だろう。いわゆる新劇風の舞台ではなくて、「何もない空間」(ピーター・ブルック)に大きな白い布と役者だけがいるような、前衛的な演劇なのではないかと思う。詞書に場所だけしか書いていないので、その先のことはわからないけれど、手ごたえは充分だ。

  容疑者は早起きである読売をまるめて日比谷線に駆け込む     加藤治郎

 加藤さんが時々作る、「サラリーマン短歌」とでも言うのかな、こういう傾向の作品がぼくは結構好きなのだけれども、あわただしく走るように列車に乗降する自分たちがまるで容疑者で、何かに追われて逃げているみたいだと言っている。何万人もの群衆が行き来する通勤ラッシュの人込みの中には、実際に本物の犯罪容疑者も含まれているにちがいないけれど。

  下着やうファッションをとめ柳々と夕べ都会の面白をとめ    池田はるみ

 今月の一連はあまり賛成でないのだが、「柳々と」がとても生きている言葉遣いなのにひかれた。

  分娩後もなお夜明け前この闇は死ぬ時に還る闇と同じか      大田美和

恐るべき歌を作る人だと思う。この一連を読むと、ぼくは怖くて一キロぐらい走って逃げたくなる。

見たくない認めたくないわたくしが滲みださずや十薬匂う     桂 保子

 自分の発した言葉が後になって何度も頭の中でリピートされてしまって、すごく苦しいという羞恥の感覚。そういうタイプの人に短歌とか歌会とか、時に牢獄のようにつらく感じられることはあるのだろうなあ。桂さんがそうだというのではなくて、この歌からふと思い出した。ほかに、

平編みに時間が編まれゐる真昼向きを変へゆく蕾の百合は      水沢遙子
掌の中に風をすくって耳もとで鳴らす遊びを知っていますか     さいとうなおこ

   《九八年十一月号》
○ 九月号

  浴槽に浸りてをればひるの道に食みしいたどりの酢ゆきがもどる    宮崎茂美
 晴れわたる径をゆくときくたびれてもうはためかぬ旗思ひ出す
  百歳を過ぎにしいのちさみしけれ口許よごし母がもの食む
  身のほとり誰もあらざり夜のテレビ独裁政権の一つが終る

 一連の後半四首を引いた。「もうはためかぬ旗」、百歳の母、隣に誰もいない夜。どれも、たしかな手ごたえが感じられる歌だ。一首め、岩波の『古語辞典』をみると古代には「酸し」に「酢し」の字をあてた例があるようだが、一首めの場合はどうなのか。酢の物を食べたということだろうか。「酸ゆき」は「酸き」と書いて「すゆ・き」と読ませるのではないかと思うが、それでは「す・き」と区別がつかない。小学館の『日本国語大辞典』で「すゆ・し」の項をみると白秋の歌に「酸ゆき」という送り仮名があり、吉井勇に「酸き」という送り仮名の用例がある。

  胸もとに粥こぼしつつこの母の凪の時間の仄明るさは    桂 保子

 宮崎さんの掲出歌の三首めと同じ場面なのだが、こちらは下句に工夫がある。比較してみてどちらに優劣があるということはない。「さみしけれ」と言いたい時は言えばいいし、「仄明るさ」を見出し得る時は、そこに願いを託せばよい。ことばが思いに添ってくれるのは、有り難いことである。

  誕生のその瞬間の鋭さに夏の陽くまなく森をつつめり   大谷真紀子
  念入りに掻きならさるる田の泥の甘からざらんや黒蜜の色   宮原望子
  いま植えしばかりの稲が水面の雲泡立てて戦がんとすも  
  川床の石を朱に染め流れゆく水の心にまぎれざらめや   釜田初音

大谷さんの歌は明るくてすがすがしい。何も考えずに、楽しめばよい歌だと思う。宮原さんの歌も、こういう歌を読んでいると、ぼくはうれしくてしかたがない。田植えの歌がこんなに新鮮なのはなぜだろう。釜田さんの作品は、夕べの光に川床が朱に染まる景色をよんだものか。やり処のない感情を水に託してしまいたいという、沈痛な思いである。

  犀川のさざれ石なる文鎮がひとつ転がり机上は汀    道浦母都子
  書き疲れまどろむ夢にまぎれ入り父の楠の木 母の合歓の木

 二首め、「くすのき」は「くす」とも言うが、「楠の木」は「くすのき」と読むか。仮名がふってあれば問題ないのだろう。父の木、母の木という字面には活気がある。ただ「まぎれ入り」は、連体形にした方が落ち着きがあるような気がする。こちらは受け身で夢に入られる方なのだから、「入り来る」も案としては存在するだろうと思うがどうか。

  格闘する男たちを背に扉閉ずヤマボウシ白く咲きみてる午後   小林成子

 横浜アリーナの競技場で作者は何を見たのだろうか。下句の転換があざやかだ。一連は、どの歌ももう少し突っ込んでみたいところ。

  マリアンナの嘆き「涙」の響きよし遠ざかる頃陣痛きざす    大田美和
  かなしみが声になるまでの数秒を開いたままなり子の目と口は    干場しおり
 自転車に乗る子を押して夜の道の草の香しるきひとところ過ぐ    大辻隆弘
  学校の五月の正門はいり来る柩がこんなに明るいなんて   中川佐和子
  どんよりと性を負いつつ育ちゆく子供の体と心と言いし
  けんくんは学校嫌い いちじくの梢に隠れ見えなくなって   田中 槐
  やみくもに奔り来たれる母に似ず婚に揺れいる娘の細き首   美濃和哥

 今月は子にまつわる歌にいい作品が多いので、まとめてあげてみた。一首めはまだ生まれていないけれど…。誕生から自立まで、思えば長い道程だ。子をうたうことが私状況をこえて時代の課題にそのまま接しているというような角度を、いつも求める必要はないが、やはり求めてゆきたいと思う。

 中川さんの著名な一首、〈なぜ銃で兵士が人を撃つのかと子が問う何が起こるのか見よ〉

を久しぶりに思い出した。こういう中川さんの角度はそう変化していないのではないか。 干場さんの作品はひとつひとつの出来事への新鮮な感覚を感じさせる。母親は子供とともにもう一度生まれ直すのかもしれない。それがだんだん成長するに従って、田中作品のように大人の思う通りには行かなくなり、中川作品のように不可解な生き物となり、おしまいに美濃作品のようにもどかしい他者として立ち上がる。大辻作品は、月光を浴びる幼子の歌以来、ずっと悲劇的な生のドラマを立ち上がらせようとして来た。掲出歌の甘さはいいのではないか。 《九八年十二月号》
  
○ 十月号

  旅行記は放棄(ムール貝)の外殻はこの夕闇におゝうづたかし   紀野 恵

 徒労の末に、ある企図を放棄する。それが何かは知らない。けれども、手作業の結果である無数の貝の殻、これをどうしてくれよう。暮れかかって途方に暮れる。……そんなような物語ができあがる。グラックの『シルトの岸辺』って、紀野さんは読んだことがありますか。

  よくしなる大きな弓の輪のなかを二匹の蝶がくぐっていった  小林久美子

 この人もシュールレアリストだろう。先日、小林さんの歌集『ピラルク』について画家の北川民次を引き合いに出して考えてみたのだが、この作者が芯の部分でどういう社会性を持っているのかが、実は私にはまだよくわからない。それは表現として出て来ていないのではないかと思う。だから、謎の多い作者なのである。

  胸にわく霧のごときをなだめつつ 殺戮は花ティムールの華    さいとうなおこ

世界史は虐殺の歴史と言っても過言ではない。試みに地図帳を拡げて空想旅行をしてみても、出会うのは死者ばかり。絢爛たる遺物はすべて血の代償だ。

  人並みに罪逃れんとする死者のきみと輪ゴムに撃ち合う晨   柚木 新

 前後の歌によると、夢の中で旧知の人物に実は自分は人殺しをしたのだと告白されるのである。しかも、その人はすでに死んでいて、この世にいない。「輪ゴムに撃ち合う」ような遊びをする仲というのは、たぶん親しかった友人だろう。人間の想念というもののうす暗さに触れている歌。

  ひたすらにさまよふ数日、眼なき闇の空間に観音さまが旗ふる   宮崎茂美

 目の手術をしたあとの作品。「眼なき闇の空間に」がまだ推敲の余地ありのようだが、結句はおもしろい。ことばを通してあらわれてくる魂の深さのようなものを思う。

  頽廃に培はれたる無垢ゆゑに傷あまたありあまたくれなゐ        高島 裕
  浮遊する固有名詞のかずかずを輝かしめて始発待ちをり  
 
 この一連は時代の痛みにじかに触れているだろう。高島さんの修辞は、武闘アニメのキャラクターのように装飾過剰のところが微妙にポスト・モダン風でもあるという、かなり危うい面がある。たとえば一連のはじめの歌の「病める天使の面」という表現は通俗だと思う一方で、あえて通俗的な行き方を作者は選んでいるのだろうとも思う。わざと過剰にしてあるものを過剰だから直しなさいという技術批評は滑稽だろう。でも、掲出歌の一首めは結句がくどい。高島さんのねらいだと、一首のバランスについての月並みなコメントが有効な局面と、そうでない局面との直感的な見分けが大事になってくる。作者が全部自分でそこのところの技術的な反省を担いきるというのは至難のわざである。先日「ドアーズ」という映画を見ていて思ったのだが、ある文体を究極的なところで支えるのは時代の波のようなものなのであって、そうなると細部なんて吹っ飛んでしまうものなのだ。最終的には、どんな強い基調音が鳴り響いているのかということに尽きるのかもしれない。

  雲の峰をうすく夕陽が染めている たむろする君等のはるかな上だ   柴 善之助

 こういう若者への視線もある。諧謔の中に仕方ねェな、という気分も感じられる。

  怪談より事実は奇にして男性の子宮内膜症をテレビは映す   宮原望子
  ちかちかと騒ぐ精子の映像はじょじょに身内に響くともなく     佐伯裕子
  戦利品なるわたくしが賭けられているここちせりウィンブルドン    大滝和子
  あるだけの花投げ入れよトゥールーズ競技場てふ棺桶のため    田中 槐

 テレビの映像をきっかけとしている歌を並べてみた。提示されたばかりの映像に対して見る側はとりあえず責任はない。けれども不断に何らかの情緒的な反応を強いられる。強い違和感を覚える映像もある。宮原作品は従来からのひとつの行き方である。作者は事実をのべて余計な感想をさしはさまない。佐伯作品は環境ホルモンに関連するニュース映像に漠然とした不安と居心地の悪さを覚えている。あとの二首は、言わずと知れたテニスとサッカーの観戦の歌。周知の素材にどれだけ修辞が立ち向かうことができるかを楽しんでいる。こちらは、つい風刺の刺のようなものを期待してしまうのだが、短歌が蝋人形の陳列館にならないように、二人とも健闘しているのは、まちがいがないところだ。 

 この月次批評も今月を入れてあと三回になった。私はおなじみの作者のおなじみの作風の歌というのは、あまり取り上げたくない。どこか目新しさがほしい。その一方で、なるたけ出来がいい歌を引くべきではないかとも思うから、悩む。「~してほしい」ということばづかいをしたことがあったが、あれは私の高所からの指導的助言などではなく、衷心からの希望の表明であった。

  歩道の柵の小さな穴を灰皿にして参政権行使した話   東 直子
「矢印はみんな矢じりに見えてくる」フライドポテトをかじりつつ言う   門馬真樹

《九九年一月号》
○ 十一月号

  虚しさを喰らい尽くして口を血で濡らす男の独りのこころ     今井正和

 結句で「男の独りのこころ」などと自分で言ってしまうところが危ういし、くどいようにも思うが、何か切実なものが出ている歌と思って読んだ。

  いしぶみに名を刻むため尋ねたずね韓国の農道を行く洪さんの背中  中原千絵子

沖縄戦の死者の一人として「平和の礎」に名を刻むために、韓国に住む遺族のもとを尋ねる洪さんを追うのは、テレビ・カメラか。一連のおしまいに、

  犯罪の家に生れしごとくにもこの国に生れしことを苦しむ

 という作品が置かれることによって、このドキュメントは自身の問題になった。歴史の中の刺を持った記憶。それを覚えておくことと、思い出すことには、困難がともなう。

  藤堂藩京屋敷虜囚儒者姜沆故国韓国旅宿愍然     李 正子
  四百年超えて沈寿官の「帰郷展」南原の鶴が海に翔つとぞ

 やや様式的な作品ではあるが、これも歴史的な記憶を問題にしている。二首目の沈壽官は明治時代の薩摩焼の陶芸家であり、秀吉に朝鮮から拉致されて来た高麗の陶工の子孫である。それを四百年超えての「帰郷」ととらえることのうちには、強い民族的なこだわりがある。

  大ぶりということだけで存在が憎々しけれ新高梨は      道浦母都子
膝たてて「見せてるんだ」と観客に言いにし大地喜和子のおらぬ     佐伯裕子
二十代の三人率ゐる夫と我は見つめられをり少子のくににて    水沢遙子
田村隆一逝き堀田善衛逝き晩夏は運ぶ言葉の柩    秋山律子
置き去りにされたる者は青衿のセルが似合いき祖母とわが呼びて    大谷真紀子

 いずれも句またがりや字余りに特徴がある作品で、新高梨、大地喜和子、少子のくに(中国)、田村隆一と堀田善衛の訃音と、それぞれに具体的な内容の核があり、一読して納得させられる。(秋山作品は確認できたので誤記を正して引いた。)

  思い出すことならできる俺のいた子宮が蜃気楼だってこと        釜田初音
  少年が青年になれぬ最果ての砂みりみりとスーダン・ミッション     美濃和哥

 これは一連の中で読まないとテーマがつかみにくい歌。成長し、自立しようとして苦闘している息子をはらはらしながら見ている母親の気持を歌ったものだろう。

  右の視野左の視野に重ならず白昼は人の影のみ増えて    さいとうなおこ
八月の立山に来つ悼むとはケルン積むこと鳥語聞くこと     桂 保子

 澄明な空間の把握がある作品で、いずれも作者が資質として持っているものが生かされている。外界の事物の感官への訴えを自意識や自分の想念とバランスすること、そこに短歌の醍醐味はある。

わが産みてわが預れる子らなればやすらぎ近くにあらむを信ずる     旗谷早織
  寸暇なく勤しむ小人気がつけばわれの行く手の整ひゐたり    

 自分の子を自分が「預れる」と表現するところにこの人の意識というものの特異さがあり、それを言葉にするのはいかにも困難なことだろうと思う。そこで「小人」というような奇矯な着想が出てくるのだが、そのあたりの思考の回路に着いていけない読者はここでつまずくだろう。晩年の梶井基次郎に見えたそうだが、小人が見えるというのは心身ともに危険な時だそうである。それを知ってか知らずか、あえて奇想のひとつとして用いる作者の意識のよじれは相当なもので、この人には何かがある、だ。……約半分をコメントしたところで、もう紙数が尽きかけている。

  け し て 走ってはだめ砂と粉わからなくなるからきをつけて    小林久美子

 「消して」と「決して」がダブっている。語と語との間にある境界があいまいに融解した時に、言葉は小さな叫びのようなものをもらしながら発光することがある。一連はこの欄の今月一番の実験作。あとは引くのみ。

  若者の流れのなかにいるわけだタクシーの鼻にズボンこすられ    柴 善之助
  戦犯の汚名に死にし人の無念ありありと顕つ若きまなざし     宮崎茂美
  自滅する星のあること若き日にまして生産的仕事為さず     柚木 新
力づくの死なぬ男がおほ暴れアメリカ映画ありがたきかな    池田はるみ
  公の身はまぶしさに耐へながらふかく見据ゑて言質を取りぬ    高島 裕
  精神は追い身体は追われつつビビアン・スーの朱色の部分      中澤 系
  数字マニアの幼児の家に水こぼれ蜂のいくつか死んでいたりき     東 直子
  傘の骨なほして旅をゆきしひと あくがれはかつてみづみづしくて    大辻隆弘
  フル・バケツ・オブ・キクノハナ盆が来てさはさは道に売られてゐたり 紀野 恵
ひまわりは種をがばりと晒しいつ 母の嘔吐はかなしかりけり      加藤治郎
   《九九年二月号》
○ 十二月号

  三島由紀夫は金槌だつた 白浜に海水パンツ埋もれたまま    松原未知子
セルジュ・ゲンスブールに
  君はあらゆる放尿をしてみせたセクシァリテの出口もとめて

 一連の中でこの二首に丸をつけていたら、池田はるみさんもこれがいいと言っていた。実に高級なウィットがあって、楽しい。口語文体も字余りも、ごく自然で滞るところがない。三島由紀夫は強面のニヒリストでありながら言動の端々に男の稚気を感じさせた。また、育ちの良さもにじみでていた。絶版にされた福島次郎の小説『剣と寒虹』のエピソードも、その一面を物語るものであろう。

    遣らず雨あとから郁乎全句集
  真横から見られてゐしは犬神か菊座か十月のまくらやみ     加藤聡明

 俳句様の詞書をうけて、それと対話するように歌一首が並ぶという構成で、とりあげられている俳人の名がどれも異色である。その俳人の句柄を歌一首でつかみとりながら、同時に自己の生の苦みもどこかに投影させている。掲出歌は、いかにも加藤郁乎好みの衆道系の語彙の選択が楽しい。

  あまだむ軽の道ゆく点鬼簿や魔女の箒になりたる言葉     江田浩司
  あまつたふ入り日に濡れし鉄塔に狐の耳の生えしもの憂さ

 初句に枕詞を据えての一連。一連には「首」や「波」といった作者の好きな語彙が出てくる歌があるが、読者としては、魔女の箒や鉄塔に生える狐の耳の意外さの方をとりたい。一首め、「詩」を書くことは「死」を書くことであるというのは、ブランショなど引っ張ってくるまでもなく現代の文学にとっては自明のことだ。ただ詩的言語は不毛さと背中合わせのところがあって、いささかの自戒をこめて言うなら、使えば使うほど修辞のなかで言葉が死んでゆくということがある。人がことばの後に「実」を求めるのはそのような時である。だから、二首めの寂寥感の方が分かりやすい。

  ゆっくりと時間流れよ紀州には仏の華の降る海がある     道浦母都子

 古代の仏教者たちは普陀洛渡海を夢見て、那智熊野の海において捨身の行をおこなったと伝えられている。豊饒な黄金光に包まれた幻想に身をまかせることが、すなわち死についての想念であったというのは、考えてみれば実に幸福なことだ。

  ソンブレロ星雲探すきみたちへ 星の呼吸に息を合わせよ    さいとうなおこ

 謎めいた一連である。短歌によって祈る、そういう営みを示す一連であるかもしれないと思った。

  告知して刻む時間の透くさえに砂降る遠き街を言うなり     秋山律子
  ふうせんかずらの種とり終えて来年も生きるつもりと母ははじらう   中原千絵子
  ちちははの昏き部分を亨けしこと呟くわれを見ているわれは    小林成子
  等分に子らを愛さず世を過ぎし小柄な祖母をましぐらに想う    中川佐和子
  梅雨の夜の底に無言の一家族追ひつ追はれつワイパーはづむ    旗谷早織

 それぞれが言いにくいところを言葉にかえながら、一歩も退くことができない現実を前に、それをあるがままに受け止めて立っているというおもむきだ。肉親にまつわる事柄を認識する時の角度のようなものが、各人各様である。その認識、思いの切実さとリアルさに胸をうたれる。

  青く透くホースのうちにさゐさゐと夏のをはりの水うごきをり    水沢遙子
  つむじ風の音水の音雷の音冷え冷えと秋は山よりくだる    李 正子
  官能の世界だという勘違いそれでもマウスで海をさまよう     門馬真樹

 さわやかな印象のある歌を引いてみた。一首めは「さいさいと」が何とも言えず味がある。二首めは単純に言っているようでいて、長い時間をかけてつかみとった実感のようなものが歌われているのだと思った。三首めは、パソコンの原色の画面には「官能」的な陶酔感にさそうようなものがあるのかもしれない。ウィンドウズの画面にしても、ブルーが基調だ。

スイッチをぱちんと点けてぼくというオペレーションシステム作動する 中澤 系
げんじつが僕はとても欲しかった一文字ごとに愛が遠いよ      東 直子
  かの人とあなたのあわいの山脈の尾根の芝生を少しいただく     小林久美子

 一首めをみていて思うことは、案外にこの感覚は楽天的なのではないかということだ。二首めは、「ぼく」の前に壁のように透明な膜のように介在している主なものは〈言語〉だと言いたそうだが、果たしてそうか。わかりやすい方に寄ってしまったかもしれない。三首めも、そのあたりの〈捉えがたい何か〉の把握にかかわる歌だ。このひとたちの追究すべき領野は、まだまだ拡がっている。

 以上をもってこの数年間にわたった月旦の重責を離れる。今年は節目として散文集*を出すつもりである。愛読してくださった方々にお礼を申し上げたい。
    *『解読現代短歌』九九年四月刊のこと。


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