さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

川野里子『葛原妙子』

2019年09月12日 | 現代短歌 文学 文化
 私は詩歌の本を読む時に、半眼とでも言おうか、読むような読まないような感じの状態に自分を置いておいて、ページをめくりながら目に飛び込んでくるところだけを読む、というような読み方をしばしばする。それで良ければ、それは(自分にとって)良いものの筈なので、そこに理屈は入り込まない。

 川野里子の今度の本は、まさにそういう読書に適していて、電車のなかで一日目にざっと半分を見、次の日におわりまでめくって、最後の一ページをめくり終えた次のページに白紙が現れた時に、映画館を出たあとのような感じを味わった。

 はじめからおわりまで、一気に読み飛ばしているのだけれど、一種の快楽的読書とでも言おうか、その感じをしばらく味わっていたくて、次の日に再び本を取りだし、わらわらと目を這い廻らせて、気になった歌に立ち止まり、引用されている茂吉の鶴の歌にあらためて驚倒したりしながら、硬質の鉱物のような、おしゃれでしかもフェティッシュ感満載の葛原妙子の歌にあらわれている一貫性のようなもの、美に執し、美を求め続けるこころの渇望の深さを思った。

 こんなふうに純一に美を求め続けるこころをすでに自分は失っている、のかもしれない。が、それが世俗にまみれて生きるということであり、私はそれを否定しない。そのうえで、葛原妙子のような生き方もまた、詩歌に生きる人にとっては、ひとつの理想像なのかもしれないが、それは危うい道ではあるのだ。その懸崖を歩んだ稀有な人として、葛原妙子を讃仰するということは、遂には一読者でしかない読者の贅沢な悦びであるのだけれど、自身も表現者の一人として、葛原の深堀りされた表現世界に長いこと向き合ってきた川野里子のしぶとい我慢力のようなものにも、思いは及ばないではない。

 書くということは、要するにそういうことなのだが、書きながら解放されてゆくアナーキーな読みの部分、想像力によって悪意すらも解放される瞬間に立ち会っている「読み」の記述が、何とも貴重である。


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