さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『土の文明史』からよもやま話

2020年02月16日 | 現代短歌 文学 文化
これはすでに終刊になった短歌誌「はな」に出した文章。最近当方に電話がかかって来た高額な参加費をとる雑誌にではない。 
 
 一つめ。昨年あたりから農耕文明の来し方・行く末について、長いスパンで考えてみようと思い立って、手始めに『土の文明史』(デイビッド・モントゴメリー著片岡夏実訳)という本を買ってめくってみた。そのあとに「食糧が決定づけた文明の勃興と崩壊」という副題のついた『食糧の帝国』という書物を見て、水田を減らすことに熱心な現代日本の農業政策は、とてつもない愚行であるということが、よくわかった。同書によれば、今後数十年のうちに地球全体が厳しい食糧危機に見舞われる可能性があり、特に隣国の中国の予想される食糧事情は危機的である。現在多くの農産物を日本に輸出したがっているアメリカも、土地と水が根本のところでだめになりつつあるのは、中国と変わりはなく、万一アメリカが不作になって農産物の輸出を大幅に減らすというようなことになったら、日本人はたちまちに飢えなくてはならなくなる。十年単位ではなく、数十年の単位、さらには百年という単位で農業に関する政治の政策というものは考えられなくてはならないのに、そういうことを考える政治家はほとんどいないのではないか。
昭和の山林・田畑というものは、江戸時代までの蓄積を基盤として目の前にあったのであり、現代人はその祖先の遺産をずっと食いつぶして来たのである。捨てられた田畑の様子に目をとめている短歌作品を、私は貴重な現代批判と思う。農業を知っている高齢者の短歌が、根源的なところで現代社会を批判することになっているということを、私は見過したくない。毎月発行されている結社誌の片隅に、案外将来を予見する歌が紛れ込んでいる可能性は十分にあると私は思っている。

  近年吉野山の桜の勢いが弱まっているという報道を、どこ読んだか失念したが、最近私は目にした。これは日本の山野の将来に対する重大な警告である。戦後の農地改革で山林地主だけは、ほぼ対象外になった。現代はその山林地主の子孫が、自己の資産を管理しきれなくなっているのである。吉野山は、そのひとつのあらわれと言っていいのではないか。「毎日新聞」の湘南版では、秦野の霊園開発に伴う山林の伐採が、残された貴重な生物資源をいかに損いつつあるかを連続的に報道している。これも先祖伝来の山林を金に換えることしか頭にないような、都市在住の山林地主の子孫が山を売ったために生起して来た事象であろう。いつぞや報道されていた二宮の山中の膨大な廃棄物の不法投棄も、同じことの別の表れとして見ることができる。短歌の作者は、そういうところに常民として目を注ぐことができる存在だ。これは、老人ホームや福祉施設の中においても同じことである。短歌の作者ならではの観察が、現状をするどく描出し、また現在の矛盾を射抜くものとなるというようなことは、あるのではないかと私は思っている。そうであればこそ、読者もそのような短歌作者のメッセージを的確に読み取って、これを社会に還元していかなくてはならない。

  二つ目。話はとぶが、かつて「アララギ」は『支那事変歌集』というアンソロジーを刊行した。これは単なる戦争協力の翼賛歌集では決してなかったのであって、その中には、兵士の目から見た戦争というものの実相が、赤裸々に描かれていたのである。これは宮柊二の連作を掲載した天理時報社版の『大東亜戦争歌集 将兵篇』においても同様である。渦中のまなざしをもって描かれたものは、常に真実を射抜くところがある。それを読み取っていく読書行為が、作品の意味を社会へとつないでゆくことになるのではないかと、私は考える。

  私はあまりよく知らない歌人なのでぼかして書くが、ある有名な一人の歌人が、養護老人施設に入所して後、施設の中には季節がないと言って、入所以後きっぱりと短歌を詠むのをやめてしまったという文章を以前読んだことがある。私は、それをいいこととは思わなかった。これこそ日本の福祉施設の欠陥と精神的な遅れを示すもの以外の何物でもない事象ではないかと思った。私は、短歌を詠む高齢歌人のためには、短歌ボランティアを組織していきたいと思う。もっと広げるなら、詩歌ボランティアである。これによって詩歌にかかわる高齢者が、いつまでも健康寿命を維持し、正岡子規のように口に筆をくわえて絶筆を残して死んでいけるような、そういうサポート環境を作り出していきたい。諦めて言いたいことも言わないで死んでゆく友人の姿を私は見たくない。存分に言いたいことを言って、戦って死んで行ってもらいたい。わが最良の歌友たちには、この日本の文化軽視の医療介護の現状を積極的に変革し、改革する担い手の一人となってもらいたい。そのための先進的な取り組みを作り出す余地は、歌人にはまだまだ残されているはずである。以上、問題提起としたい。

 ※ しかし、念のため。黒川博行の小説『勁草』(徳間文庫)に出てくるような悪人も世の中にはいるので、高齢者と接する人間については、幾重にも視えないところで審査するシステムを(内々に)構築しておくことが必要だ。この小説は、自分が善人でだまされやすいなと思う人には一読をおすすめしたい。

 子供に接する職業人でも同様なケースがあることは、2月4日(月)の「毎日新聞」16面に出てくる女子高生を死に追いやった女性児童福祉司の例からわかった。福祉関係の仕事につくような人は、人間というものの駄目さ加減をよく知って、自身がそういう弱いだめな人間の部分を持っているという自覚を持って仕事につけるような文学教育を受けるべきではないだろうか。
 だから、文学軽視の今度の文科省の高校の国語の科目再編案は噴飯ものなのだ。文科省の視学官の大滝一登などは、「高校一年生対象の「現代の国語」に文学を入れることについては相応の「理論武装」をしてきてもらわないといけません」などと、「口頭で」指示を出したそうだ。官僚の専制ここに極まれり、というところである。

 また、この何十年かの間に、国民の知らないうちに、この国の小学校の「国語」の時間はかつての半分以下に減ってしまった。このカリキュラムも実に危うい。人間存在についての知を磨く、ということは、「国語」のなかの文学教育の大切な一面である。そうした「国語」の時間を限界まで削って早期英語教育と早期情報プログラミング教育を優先的に付け加えている。それもこれも財界の近視眼が遠因の一つである。この国の財界に智者はいないのか。

 

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