さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

古谷智子『片山廣子』

2018年07月10日 | 
  質量ともにみごとなバランスのとれた好ましい書物である。片山廣子は、大正期におけるアイルランド文学の先駆的な紹介者にして歌人であり、晩年の芥川龍之介の最後の恋人でもあった。そうして軽井沢のつながりから、堀辰雄の小説『菜穂子』の母のモデルともなっている。

本書の著者は歌人だから、歌誌「心の花」の会員で短歌も詠んだ芥川と片山廣子の心の交流の姿を、短歌作品に即してその微細な心理の襞に分け入り、丁寧に読解してみせた。芥川の手紙は不幸にして焼かれてしまったが、廣子の芥川宛の手紙が発見公開されたことによって、二つの知性の芳しい交流の姿が自然と浮かび上がる。

本書の表紙にもなっている二十歳の肖像写真の片山廣子は、旺盛な知的好奇心が目の輝きにあらわれた美女である。しかし、生涯を控えめに生きた彼女には、おどろくほどスナップ写真が残されていないという。随筆集『燈火節』の中から紹介されている「地山謙」という文章は、そういう人柄と生き方を象徴するものだ。この文章を選び出したところに、本書の著者古谷智子の見識があらわれている。

息子にすすめられて、廣子は易をたてる稽古をするようになった。自分の一生を占ってみると、「地山謙」と出た。それは、苦労が絶えないという「地水師」ではなかった。

「頭を高く上げることなく、謙虚の心を以て一生うづもれて働らき、無事に平和に死ねるのであると解釈した。何よりも「終り有り吉」といふ言葉は明るい希望を持たせてくれる。何か困るとき迷ふ時、私は常に護符のやうに、謙は亨る謙は亨るとつぶやく、さうすると非常な勇気が出て来てトンネルの路を掘ってゆく工夫のやうに暗い中でもコツコツ、コツコツ働いてゆける。」 片山廣子「地山謙」  ※「亨る」は「とおる」。

 この随筆集は、昭和三十年、著者が没する二年前に第三回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。
巻末の古谷智子選一二五首のなかからいくつか選んで読んでみたい。

 いにしへの病者を洗ひたまひけむ大き湯殿をふと思ひたる   片山廣子

これは光明皇后が、らい病の患者の体を湯殿で「洗ひたまひけむ」、仏の慈悲のこころをもって湯で洗いすすぎなさったという古代の伝説をうたったものである。町湯の片隅でこんなことを思っている。

 さびしさの大なる現はれの浅間山さやかなりけふの青空のなかに

 影もなく白き路かな信濃なる追分のみちのわかれめに来つ

 廣子の歌には、胸を張って気持ちを外側に押し広げてゆくような、素朴な詠嘆がまず先立つものとしてあることが感じられる。掲出歌について表記を変えて分析してみる。一字明けは小休止。

 さびしさの 大なる現はれの浅間山 さやかなり。
 けふの青空のなかに

 影もなく白き路かな。信濃なる 追分のみちのわかれめに来つ

こんなふうに句の隙間でたっぷり時間をかけて嘆声をこめる。うた、なのだ。 

 日の照りの一めんにおもし路のうへの馬糞にうごく青き蝶のむれ

 「日の照りの一めんにおもし」という把握は、高原の夏の日差しを十全にとらえている。

 亡き友のやどりし部屋に一夜寝て目さむれば聞こゆ小鳥のこゑごゑ

 人は死に吾はながらへ幾世経て今も親しくいともしたしき

 これは芥川龍之介との交情を踏まえて読むべき歌。本書の第一部五章に丁寧な解説がなされている。

 本書は、今から一四〇年前に生れた一女性の生涯を描くことを通して、大正末期の文化史を最深の部分から照射している。また初期の廣子の歌を通して、「心の花」における浪漫主義の一典型を知ることができる。そうして、うたによって心の静安を得た孤影深き一人の歌人の生き方に、詩歌や文学が人生において持つ豊かな意味を感じさせてやまないのである。
 

 

 






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