さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

奈賀美和子『風を聴く』

2017年06月30日 | 現代短歌 文学 文化
 なつかしい、という単語に当たる言葉は英語にはないのだそうだ。では、何と言い換えよう。それと同じように、奈賀美和子の歌のよろしさを人に伝えるには、どのような言葉がふさわしいのか、にわかに私にはわからない。何しろ『ふたつの耳』以来のファンだから、奈賀さんの歌集は文字で書かれているけれども、たとえ言うと「香り帖」のようなもので、そういう物が世の中にあるとして、ちょっと広げると、たちまちに匂いやかな歌のことばの世界に包まれるのだ。だから、一度に通読してしまうなんて、そんなもったいないことはできない。ちびちび読むつもりである。

 徹底的に求心的な歌であり、そのようなこころの態勢を維持して歌を作り続けるためには、常にある種の集中と、平静な「観」のかまえが必要なのだ。それは別に求道的なものでもないし、禁欲的なものでもなくて、ゆったりとした自然体とでも言ったらいいか。要はその昔「未来」の私の先輩の歌人上野久雄が言っていた「どんな時でも歌が作れるこころの状態でいることが大切なんです」ということに尽きるのだが、そのような心のありようを追求することのなかに、願いのような、祈りのような何かが立ちあらわれるのだ。ふわっと風のようにこちらのセンスの総体を吹き抜ける気配がある。


 踏みて入る闇の霊場わつと寄りすつと去りたり思ひのなべて


 日照雨降るこのきらきらの時の間に呼ばれゆきたる雲一つあり

     ※「日照雨」に「そばへ」と振り仮名。


 この国の曖昧ゆゑの温とさの言葉眠らす言葉のあはひ


 こんなにも空が高いとおもふなりあなたの逝きて日々に仰ぐに


 細部に通い合う気息が、自ずとよく選ばれた平淡な言葉の一粒一粒を生き返らせる作用を持っているのである。これは日本語のわかる人のための贈り物だから、無粋な私の早々の推奨の弁、すぐに全部は読まないつもりでいるので、秀歌はほかにいくらもあるはずだ。

書かないで読者に委ねるつもりだったが、掲出歌についてやはり何か書いてみることにしたい。よく見ていると、奈賀さんの歌は、句と句の間の「切れ」が普通の人のよくありがちな「切れ」ではないのだ。この作者は。むろん短歌という定型詩の性格上、型通りのものもあるのだけれども、「わつと寄りすつと去りたり」というような一回性を感じさせるつかみ方のある歌が、どの一連を読んでいても必ず何首かある。

二首目、「このきらきらの時の間に」と言っておいて、ここまでは誰でも言える言葉なのかもしれないが、続く「呼ばれゆきたる雲一つあり」という四句目は、これはなかなか普通は出て来ない。そうして結句の「雲一つあり」は型だけれども、それは水盤の土台のようなものだから、ここだけ見て当たり前などと言ってはならない。

三首目。「この国の曖昧ゆゑの温とさの」、と来て「言葉眠らす」という四句目には、言うまでもなく批評の目が働いている。読みながらにやっとして、この人でも最近はこんな事を言いたい時代になっているんだな、と思うのである。四首目は、この歌が身に沁みるような人は奈賀さんの歌の新たなファンになるかもしれないと思って、引いてみた。


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