さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

松谷明彦『人口減少時代の大都市経済』2  

2018年08月13日 | 暮らし
 (承前)
「 いま一つ大都市地域の社会資本について懸念されることがある。近年、次々と展開される大規模再開発についてである。この場合、主体は民間施設であるが、近い将来、急速な縮小が予想される大都市地域の投資能力を食うという点では、公共施設となんら変わりはない。問題は、その再開発施設がこの先も大都市地域にとって有用かつ優良な社会資本として存続し得るのかという点である。つまり、その再開発施設が十分に活用され、維持管理と更新投資が的確に行われるのかという問題であるが、まずは、その再開発の背景と未来を考えてみよう。」

 この十数年のうちに、私がよく利用していた相模大野や、東海道線沿線の辻堂や戸塚が、だいたい同じような感じに再開発が完了した。商店街だった一角が消えてテナント化し、大規模店が参入している。けれども、たとえば辻堂の駅近くのビルのスーパーに入ってみると、食料品などの価格が低くおさえられている。家賃は高いはずなのだが、薄利多売でのりきるかたちなのではないかと思う。または、家賃をあまり高く設定できないのかもしれない。心配なのは相模大野である。人口に比してショッピングエリアの規模が広すぎ、商店の数も多すぎる気がする。テナントはどこも経営が苦しいのではないだろうか。だから、ずっと気になっていた。この本にはこの問題についての言及がある。

「 日本の大都市を表象するものは、何といってもその物量であろう。(略・海外の先進国の都市ではそうではない。)そうしたまさにモノに囲まれた風景を、われわれ日本人はごく当然のごとく受け止め、それこそが大都市的な豊かさと思いがちであるが、世界的には特殊日本的な風景と言うべきなのである。

(略・過度の機械化によりわずかな稼働率の低下が収益構造に重大な悪影響を及ぼすために、常にそれだけのモノを売り切らなくてはならないために、モノが溢れる。)

当然流通機構は肥大化する。近年、次々と展開される大規模再開発は、ビジネスセンターやショッピングセンターの域を超えた集客装置としての性格を持つ。人を集め、巨大な複合施設のなかで時間を過ごさせることで、通常の購入行動を超える消費を喚起しようというわけである。

(略・日本の市場は均質的、均一的な需要構造であり、極端にいうとひとつの商品にひとつのタイプの商品しか存在しない。多種類の仕様のバリエーションがあったとしてもタイプは同じである。そのために売り方が一つになる。また、顧客もひとつということになる。)

商品のタイプは一つ、売り方も一つ、顧客も一つとなれば、大量仕入れ、大量販売にうってつけである。大量に仕入れ、店頭に大量に並べれば、たいていの通行人が足を止め、手に取ってくれる。大都市に店舗が高密度に展開され、かつそれぞれの店頭に商品が溢れるのは、人口密度が高く通行人が多いということだけでなく、それらの通行人のほとんどが同じ消費パターンにあることが大いに関係している。東京とパリでは需要構造が違うということである。 」

「 様々な大規模再開発施設やそれらの高密度な店舗は、今後とも日本経済の一角として顧客を惹き付け、付加価値を生み出し続けられるのだろうか。基本的には否定的にならざるを得ない。前章で、機械化と大量生産を軸とした現在のビジネスモデルはすでにその持続可能性を完全に失っていることを指摘した。つまりそうした店舗に対する生産側からの必要性は間違いなく激減する。
そして均質的・均一的な消費構造を生み出した終身雇用・年功賃金制もまた、近い将来確実に崩壊する。(略)日本の需要構造は大きく変わらざるを得ない。 」

 近年外国人観光客の増大が報じられているが、スクウェアの乏しい日本の都市に魅力を感じない人たちは、どんどん大都市離れをしていっているのではないかと思う。それが地方の魅力の発見や、新たな観光スポットの創出につながっているのは、考えてみれば皮肉な現象である。また、中国の人たちの消費行動が歓迎されているが、それは彼らの大部分が一定程度日本人と同じ均質的な消費者だからであろう。

 引用が長くなるのでまとめて言うと、「 人口減少時代にあっては、大都市は、再開発ではなくリノベーションによる都市機能の維持向上をこそ考えるべきだろう。 」というのが本書の重要な提言である。

 お金を持っていない人が何もしないでいられる場所では、会話・おしゃべりができることも条件のひとつである。私の見聞したいくつかの公共の施設では、本やベンチが置いてあって無料で利用できるものの、そこでは静粛であることが求められている。利用する人たちは、個々に切り離されており、子供たちの歓声は聞こえず、高齢者は孤独なままである。また地域の会館などでは、サークルなりなんなりに加入しないとそこでの利便性を手に入れることはできない。市内在住という資格が要り、登録する必要がある。これらのスペースは、スクエアからは程遠いのである。

 実は貧しい大都市の社会資本、という現実に日本人は目を向ける必要がある。逆に言うと、今後地方都市で重点的に何をやっていけばいいのかということは見えるはずである。大都市と同じことをしない、大都市はモデルではない、ということがヒントになる。

 地方では郊外型のショッピングセンターが一般化しているけれども、これは自動車を利用しないといけないし、そこにお金を持たないですごせるスクエアが存在するわけではない。行政に可能なことがあるとすれば、すでに設置されてしまったショッピングセンターの脇に、無料ですごせるスペースを併設するかたちが考えられる。多くは駐車場となっている場所をその分の対価を支払ってスクエア化し、維持管理の仕方を地域のボランティアや利用者自身に担ってもらうかたちである。これはひとつの例だが、これは菜園でも果樹園でも花園でもいいのである。そこにベンチや簡易なカフェがあればいい。

 江戸川区に住んでいる私の知人のおばあさんは、駅近くのスタバだったかドトールだったかのコーヒー店に行くのが日課だと言っておられた。しかし、ほとんど誰とも会話することはないのである。また、お金を払わなればそこにはいられない。

 他人と交流し会話をすることが高齢者の健康維持に役立つ。とすれば、スクエアの維持費用など、医療費や介護費の大きさに比べたらずっと低いはずである。行政はあらゆるアイデアを駆使して、日本の都市の自由度を高め、資本に専有され尽くした公共スペースを、お金を使いたくない(使うことができない)人たちのために開放するスクエアを設置してゆく必要がある。

※ 追記。
 と、こう書いてからしばらくして、相模大野の伊勢丹の撤退が発表された。当方の危惧が的中したと言うべきか。だいたい西口の商業ビルなど作らなくても、従来の街路沿いの店が生きて機能していたのに、それをわざわざつぶしてテナントのビルを建て増した結果がこうなったのである。この打撃は大きい。 

 こうなったら、すでに建ててしまった建物の使い道を速いうちに再度練り直して、起死回生のアイデアをひねり出すほかに手立てはないように思われる。

 ひとつ考えられるのは、シニア向けの映画館である。これは地域の高齢者割引に割引料金を無料または格安のチケットなどで引き当てて、間接的な市の援助を行う。周辺には、高齢者がたむろできるスペースを設けるとともに、半官の子供の預かり施設や、子育て中のファミリー向けの設備を充実し、「都市の縁側」機能を目に見えるかたちで演出する。なお、映画館は、海老名にある映画館などをモデルにするのではなく、かつての池袋文芸座をモデルとするべきだ。安価、格安にして、大スクリーンでテレビドラマやスポーツ中継を見せるのでもいいかもしれない。サッカーチームや、野球チームとタイアップしてもいい。改築費用はかかるが、いまのままで続けていても、二十年もしないうちに駅周辺の商業施設の半分が閉鎖されているか、安易な「アウトレット」に占められているようなことになりかねない。
                                     (10.9日追記)



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