さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

雑感

2020年08月16日 | 政治
 「ラストエンペラー」という映画のなかで、元満州国皇帝の溥儀は、収容施設に入れられてこれまでの経緯を残らず告白し、懺悔することを求められる。その反省生活が明けた後は、命を保証されることになった。これは多くの日本の戦争犯罪を犯した軍人や憲兵のような人たちに対しても同様の措置が取られたのであって、周恩来は、日本帝国主義を憎んで個々の日本人を憎まず、と言って、フランスだったらきっと処刑されたであろうような多くの人々を、反省と懺悔の生活を送らせた後、生きて返してよこした。そうして一般の中国民衆にもそういう考え方を広めるようにつとめた。私はその生還した一人が書いた手記を学生の頃に読んだことがある。それは命を助けてもらえた温情への感謝の念をもって書かれたもので、別に洗脳されて帰って来て共産主義の宣伝をするために書かれたものではなかった。たしか『人間回復』という本だったが、私はそういう歴史的な恩義のようなものを日本人は忘れてはならないと思う。

 日本の中国侵略については、日露戦争の際に大陸にわたった日本人が現地の中国農村などの劣悪な生活を見て帰って、それが中国人を見下す意識が広範に民衆の間に広まるきっかけとなったということを読んだことがある。日本の軍部や指導層が中国におけるナショナリズムの評価を見誤ったのは、近代化に失敗した中国に対する差別意識が存在したからである。今日の中国の指導層のウイグル族やチベット人に対して持つ政治的感覚は、かつての日本の指導層が中国に対して抱いていた差別意識と相似的ではないのだろうか。共産主義は、反自由主義だから全体主義と同じものなのか。現状ではそう見える。

 半世紀、さらには七十五年という歳月を経たら、人間というものは変わる。国家というものも変わるのだろう。しかし、不変のもの、理念というものを常に高く掲げ続けていてもらいたい。日本の場合、それは自由主義と平和主義、戦争を賛美しないこと、武器を輸出しないこと、戦争に参加しないことだったのではないだろうか。そういう点から見れば、すでに武器輸出を許し、湾岸戦争以降自衛隊を派遣せざるを得なくなっている。今日の日本のこの変化は好ましいものなのかどうか。

 大きな議論と小さな議論はつながっている。日常生活と大きな政策はつながっている。コロナ禍のせいで、そのことの意味が痛いほどわかるようになった。だから、人々は大きな議論を避けてはならないのである。

 庶民の小商いが、これほど広範に政策によって息の根を止められるような事態は、戦後七十五年なかったことだ。かつてない事態に直面してどう振舞うべきなのか、何をしていったらいいのか。それがわれわれ一人一人に問われている。



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