さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

短歌を読むということ

2019年02月23日 | 現代短歌
※ 先日一ページだけ田中教子の評論集『覚醒の暗指』について「歌壇」にコメントを書く機会が与えられたが、私が田中の所論に多少共鳴する部分がある点について、その根拠となる私自身の短歌観を書いた文章があったので、ここに載せる。岡井隆の『詩歌の近代』が出た直後のものである。以前「短歌研究」の評論賞への応募原稿として書いたものの前半部分である。  

  夢への潜入

 詩歌を読みはじめて、それに没入できるようになるまでに、ほんの少しだが苦しみに似た気持を味わう場合がある。たとえてみると離陸の困難のようなもの、詩に向かってこころのはたらきが流れ出すのを抑えとどめる規制力のようなもの、欝気分の固まりのようなものである。そういう感じがあまりにも強い時には、要するに心が詩歌向きではないのだから、読むのをやめる。そういう時は、言葉で書かれたものが、みんな自分から遠ざかってしまっている。それは疲れているとか寝不足であるといった、こちらの生体のリズムと関係している個別的な経験にすぎないのだが、その一方で、作品の提示しているヴィジョンの高みにこちらがついて行くことができないことへの苛立ちと焦りの気持が原因である場合も、ないわけではない。それでも何とか持ちこたえて、つかみどころがないままに何ページかをめくってみてから、ようやく言葉に自分のこころが添いはじめるということがあったりする。読み、感ずるということの根本的な不確かさへの認識を抜きにして、この揺らぎやすい経験を絶対化することはできないのではないだろうか。
 詩歌を読みながら、自分が感じていることを正確に対象化して書いてみたいという願望を、ある種の人々が抱くのは、理由がないことではないだろう。書くことを通じて、初読の際には漠然とした予感のようなものでしかなかったものがはっきりと形をなし、手にとって見られるようなものとなってこちらの所有に帰す。そういう至福の思いを一度でも経験してしまったら、書き続けるほかはないのである。虚心に作品に向き合うこと、そうやって没入することを妨げるものがあるとしたら、それは何か。平板で退屈な言葉の羅列と、自己満足でしかない事実の提示、無反省な繰り返しの再生産、何ひとつ新たなものを付加することのない模倣、通念をそのまま自分の判断とした程度の底の浅い発見の誇示、地位保身のための証文作り……。われわれが常日頃目にしている作品の大半がこういうもので占められているとしたら、それは悲しむべきことだ。なぜか歌人は、疲労と倦怠に押し潰されそうになりながら、使命感の固まりのようになって読み続けてしまうのであるが……。 しかし、問題はこれだけではない。時の隔たりの感覚、時代とズレているという感じが、作品への全的な没入を妨げる場合もある。もしくは、作品の含み持つ時代性への手掛かりがつかめなくて苦しむということもある。作品のアクチュアリティー(現在の中における真実性)をめぐって、読み手が瞬時に判別し、良否を決定し、つまりは批評してゆくための根拠のようなものを、われわれはどこに求めていったらいいのか。
 好き嫌いの中にも批評はある、と言えるだろう。そこに端的にあらわれているアクチュアリティーの感受の問題というのは、依然としてあり続ける。そこに「選」の問題もからんでくるのだろうが、それはひとまずおく。瞬時に判別される作品の「詩性」を見極めるには、読み手の時代認識や思想の洗練が必要だろう。そうしてもうひとつ、読者の読詩の経験の積み重ねと知識がいるだろう。このことは、岡井隆の近著『詩歌の近代』をみればよくわかる。考えてみれば一九七三年刊行の『茂吉の歌私記』以来、何十年にもわたって一貫して岡井は読詩のための訓練を重ねてきたと言えるのだ。『詩歌の近代』の冒頭の一行は
 
 長く詩を読んで来てあらためて思うのは「詩は個人的な体験だ」という当り前のことである。

というものだ。話がここで振り出しに戻ってしまうようだが、仕方がない。まずこのことを確認するところから出発するほかはない。その上で方法を求めてゆくことにする。詩歌を読むのに際して「方法」はあるのか?笑わないでもらいたい。短歌にかかわっている人間ならば誰もが疑問に感じながら、納得のいくような答が見つからずにお茶を濁してすごしている問題の一つがここにはある。
 この問題に愚直なまでに真剣に正面からぶつかったのが、シリーズ「短歌と日本人」(岩波書店刊)における幾人もの論者たちである。「つまるところ短歌定型とは何か?」「現代短歌とは何か?」という問いを立てるところから始めるのである。話が大きくなりすぎるのでこのシリーズについて直接言及はしないが、この文章は私なりのあのシリーズのいくつかの論文への応答として書き始めたものだ。元に戻る。詩歌を読むのに際して、いや、もっと限って、短歌を読むのに際して、われわれはどのような方法を拠りどころとすべきなのか。
 まず私の考え方の大枠を示したい。それは、短歌はさまざまな既存のことばの引用と変形によって成立している文芸型式だ、というものである。これは五七五七七の音数律(正確には語音数律)という外側からの規定ではなくて、あくまでも内容についての議論の粗筋である。既存のことばの引用と変形というのであれば、短歌に独創性はないと言っているように思われる方もあるのかもしれないが、決してそんなことはない。詩歌というもの、文学作品というものが、もともとそういう性質を帯びているのだし、人間の言語活動の総体がもともとそういうものなのである。ただ断っておくと、私が「既存のことばの引用と変形」と言ったのは、短歌に固有の生理のようなものへの認識に基づいている。その点では、守旧派と目される歌人たちも新進気鋭の若手と認められている作者たちも同工異曲と言ってことばが悪ければ、それほど大きな違いはないように思える。私は短歌を貶めてこう言っているのではない。逆に短歌の言語芸術としての重要な側面を確認したいがためにこう述べている。
短歌が五七五七七の音数律という基本を守り続けるかぎり、短歌においては構文の破壊に限度と制約があり、その限度と制約が及ぶ範囲の中で繰り返し用いられる決まり文句の数はおのずと限定されてきてしまう。そのために、一首の短歌作品はそれが成立した時点で、必ず既成のことばの運用の仕方を取り入れざるを得ないのである。例をあげると、

 きみの眠りの内部を (7・4)
 もし見られるものなら (6・4)
 あおい蘭がめらめらと (6・5)
 燃えあがっている (7)
 のかもしれない (7)
          松浦寿輝作「冷菓」        (詩集『鳥の計画』より)

という詩の書きようが、どこかで五・七の基本的な音数律を持っていると私が感じたとしても、これを短歌として読むということはない。でもこの詩は7・4/6・4/6・5/7/7という音数律において、7音と5音を基調としている。(6音は速読によって5音の長さになるか、または休拍を入れて7音に等しくもなるし、4音は一拍分の休拍を含み持つものとして考えることもできる。)要するに、この詩には音数律による定型の感覚がある。詩人はこういう一回毎の定型の組成をそのつど捨ててゆくのに対して、歌人はひとつ定型に固執し続けるから「歌人」という自己規定を受け入れることになっている。試みにこの詩を短歌にしてみると、

  なれ
 眠りゐる汝の内部にわれは見むめらめらと 青き蘭が燃ゆるを

ということになるのだが、両者は決定的に違う詩である。なぜなら、

 燃えあがっている
 のかもしれない

という二行のうちの「のかもしれない」の部分を、歌人は「む」や「らむ」という文語助動詞ひとつで簡潔に処理することを学んで知っているからである。「燃えあがっている/のかもしれない」を言い換える幾通りものバリエーションは、歌人にとっては与えられている。一般に、等しなみに「推量」の助動詞と呼びならわされている文語の助動詞「む」は、聞き手に承認をもとめる問いかけの気持をどんな場合にも内在させている。そして、それは歴史の浅い口語とは違った用例の積み重ねの中で洗練されてきたものである。たとえば『万葉集』の「秋の田の穂のへに霧らふ朝霞いづへの方にわが恋やまむ」(八八)の結句の「む」は、集団的な享受の態勢の中で聞き取られた「む」なのであって、たとえ無意識であるにせよ、「む」を用いることは、すなわちそういう歴史的な古層に立脚しているということになるのだ。
 私は右の松浦の詩の一節の短歌への翻案に際して「む」を用いた。これによって元の詩から失われたものがある。それは、「かもしれない」の孤独な留保が持つ強度である。ある事柄や命題を断定的に語ることへの繊細な恐れの感覚をどんな場合にも堅持しつつ語るという詩人の書法の無視である。「かもしれない」が支えているものは、不安定な懐疑的精神の高度化した自意識の語りなのである。「む」の使用は、叙情的判断停止への傾斜を含み持っている。「む」が持っている歴史の厚みが、自意識の鋭角的な突出を和らげ、円満な様式の美感へと主体の危機的思考を溶解しながら抱きとめる。
 次に短歌型式が犠牲にしているものについて触れておく。自由詩が行がえによって気息の変化を生み出しているのに対して、短歌の場合は多行書きを採用してもそう大きな変化は期待できない。具体的に説明すると、

燃えあがっているのかもしれない

と一行にして書く場合、

燃え あがって いる のかも しれない
とぶつぶつに切って書く場合、

     燃え
あがって
いる
  のかもしれない

と活字の組み方を変えて視覚的な効果をあげる場合など、そういう多様な表記の喜びを犠牲にしたところで、断念のように短歌定型は選び取られている。その場合、繰り返すが「燃ゆらむ」「燃えむ」という語の選択のところで歌人はそれほど気をつかう必要がないし、また、「燃えあがっている/のかもしれない」をどう表記したらいいのかという気づかいをする必要もない。どうしたらいいのかということは、一定の規則として与えられている。そうすると、歌人がこだわらなくてはならないのは、掲出の詩の部分で言うと、技術的な処理が可能な助動詞的部分を除いた、「きみの眠りの内部を」「あおい蘭がめらめらと」「燃えあがっている」という着想を、どのように定型の中で整えるかという一点にしぼられる。
 右に掲出した詩は「冷菓」という全部で八連の詩の一連めであるのにすぎない。次の連めがけて飛躍してゆく自由を、詩は当たり前のようにのびのびと行使するが、短歌の場合は一首が終わった段階でいったん完結してしまう。短歌は連作という方法を近代になってうみだしながらも、そういう自由詩の持つ気まぐれさや、不安なまでに型式に関して任意であることに対して背を向けてきた。先にちょっとだけ触れた「構文の破壊における限度と制約」ということについて補足しておく。再び松浦寿輝の別の詩を引用すると、

 ………に逸る風をへて ………の止水の愉 楽へとすすみ ………を歌い の強いられ た過剰のなかで ………
                   「つややかなきれ、あるいは骸」

 という断片を読者は短詩として読むことは可能であっても、短歌として読むことはない。でもこの詩は、歌とは何か、詩とは何かということを考える人間にとっては示唆的な何かを含み持つ詩であるように思われる。なぜここに引用したのかというと、「止水の愉楽へとすすみ」は75であり、「強いられた過剰のなかで」は57であるということが引っ掛かりとしてある。省略によって詩らしさが失われる寸前のところで、残された断片が詩らしく残るために75と57の調子が呼び出されているということが気になる。歌人はこのような断片を短歌へと凝縮させてゆく手立てを知っているはずだ。まさにそのことに対して、この詩は皮肉な視線を投げかけているのではないか。ある人々にとっては「………」という対象の位置に何が来るのかということよりも、「止水の愉楽へとすすみ」という精神の境位の方が大切だったりするが、詩人にとっては、「………を歌い」ということは聖なる領域でもなんでもないのである。「………を歌い」が自己目的化されたありようを詩人はむしろ突き放す。若い歌人たちがこういう視線を受けとめられるほどに意識的になれたら、きっと短歌は変わるだろうと思う。わかりにくいことを書き加えてしまったかもしれない。
 詩歌は虚心に読むばかりである。その時の自分のこころに沁みてくれば、それでいいのである。ただ、あれを取り、これを捨て、ということが必要な時に何の基準もないというのではどうにもならない。先に「アクチュアリティーの感受の問題」と言った。「読詩の経験の蓄積」と言った。結局、それだけで短歌の読みは支えられているのか。(以下略)

※ とういうことで、文語助動詞についての考え方などにおいて、私は原則的に田中教子と共通する問題意識を持っている。これを明晰でないと一刀両断した書評も目にしたが、あまり生産的ではないと感じた。

 私は「読みへの通路」という短文を「未来」に五十回連載したことがある。「読み」の問題の実践として、このブログの文章も書いているので、ここに補足してみた。


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