さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

松本実穂『黒い光 二〇一五年パリ同時多発テロ事件・その後』

2020年05月30日 | 現代短歌
 角川書店刊。著者自身の手になる立派な写真と短歌作品で構成されていて、装丁・本文デザインは南一夫。歌集としてだけでなく、写真集として扱われてもいいだろう。立派な装丁の本で、価格はふんだんに写真が挿入されているわりに税別2,000円と低く抑えられている。

 巻頭のモノトーンの写真は、霧中の冬木立のシルエットの向こうに太陽がぼんやりとかすんでいて、樹林の幹の地面に近い部分が闇に溶け込んでいる様子を写したもので、そこに次の二首の歌が示されている。裏表紙の帯に引かれている歌はどれもよいが、私はこちらにひかれる。

  走りゆくこの汽車もいま消されをらんボーヌの丘は深き霧のなか

  輪郭をもたざる命やはらかく黄にくぐもれりあれは太陽

ページをめくったところにある写真は、テロの現場に献灯にやってきた市民たちが集まっている舗道を後景にして、手前からその奥までずらりと蠟燭が並んでおり、そこにこちらを向いてしゃがんだ中年の男性が、今まさに持って来た蠟燭を手向けようとして手を伸ばした瞬間が写されている。そこに次の歌がある。

  自爆テロはいまkamikazeと呼ばれをり若く死にゆくことのみ似たる
   ※「kamikaze」に「カミカズ」と振り仮名。
  
 「カミカズ」という読み仮名に注意すべきだろう。もうひとつページを繰ると、蠟燭に混じって花首だけの薔薇の花が手前に大きく三輪写っており、奥には献花に訪れた女性らしい二人の人物の姿がぼんやりと見えている。
詞書がある。「二〇一五年十一月十三日 パリ同時多発テロ事件」。震えるような臨場感が伝わってきた一連である。
あとがきをみると、当時筆者はリヨンに住み、娘がパリに住んで居たのだという。この歌集自体は、十七年以上住んだフランスでの生活を終えるのを機にまとめられたものだというが、帰国して本を出して間もなく世界はコロナ騒ぎに巻き込まれてしまい、著者のフランスに住む人々への思いは、ずっと日本に住む人たちとはまた別種のものがあるだろう。

 劇場の惨状伝ふる中継の声に重なるイマジンの歌

集中にはパリの市民生活を伝える好吟がふくまれるが、一集の狙いは緊張感をただよわせるテロ事件以後のフランス社会の空気を写すことにあり、この騒然としたパリと日本の類似「戒厳令」下の沈んだ空気とは、ずいぶん異なった対照をなして作者には見えているにちがいない。

  マカロンのかさこそ箱に鳴るやうに売られてゆきぬ朱き小鳥は

  麦の波に囲まれてある廃棄場に崩れつつ立つ観覧車見ゆ

  地下ガレージの我が家の倉庫バールにて破られてをり二つ隣も

  遅延情報見て立つわれの傍らを兵士さざつと上りゆきたり

  戒厳令敷かるるパリの小春日を娘は電話に告げて切りたり

  触れさうで触れぬ肩あり硬質の冬の光を乗せてトラムは

ここに引いた小鳥市の歌やトラムのなかで孤独感をかみしめる歌などがとてもいい。「心の花」のなかにある、物に即して自他を立体的に客観視しまた劇化しようとする詠風は、著者のフランス生活を描写するうえで合っていたと言うべきであろう。


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