今日は旧暦9月12日、明日の月は十三夜です。
十三夜の話題は後程・・・
高速道理のアンダーパスに朝日
柿と鉄塔。2題
カラスウリ
ちょっとピント外れですが・・・アオサギが頭上を
かすんでいますが、富士山
ノスリ
どんぐり
ヒヨドリ
ススキ
穭田
柿
蓮池に寄りました。
枯蓮の中にコサギ
茎が折れ曲がって池に突き刺さるさまは、戦場で戦いが終わり、敗れた人の刀や槍が地面に刺さっている様に見えます。
「修羅場なり田の蓮枯れて折れ曲り」 (西島陽子朗)
コガモ
ピントが合ってませんが、小魚を獲ったみたい。
おまけは我が家の庭
ニワザクラが1輪・・・
季節外れに咲く、帰り花ですね、返り花とも書きます。
晩秋や冬に暖かい日が続いて咲く花を呼びますが・・・
異常気象続きなので四季の別が崩れているのかもしれませんね。
季節外れの花が普通に咲いて、「帰り花」ということばが意味をなさないような時が来ないと良いのですが・・・
「かへり花暁の月にちりつくす」 (与謝蕪村)
「帰り花むかしのゆめの寂かなる」 (円地文子)
こちらはこれから咲くシュウメイギク
明日は十三夜
満月の二日前、左側が少し欠けた姿が、満月にない風情があるとして、
旧暦8月15日の中秋の名月に対して、「後の月」と呼んで平安から鎌倉時代の貴族は菊の花と一緒に見て楽しんでいました。
十五夜は中国からの渡来文化ですが、十三夜は日本独自の風習です。
平安時代後期の藤原宗忠の日記『中右記(ちゅうゆうき)』には、ある年の九月十三日夜、
たまたま明月を愛でていた宇多天皇(在位西暦887~897)の発意により、
この夜が「名月の夜」と定められたと書かれています。
この後、いつから宴が開かれるようになったかは、不明ですが、
9月13日の月を詠んだ一番古い歌は、宇多天皇の子である醍醐天皇が
延喜十九年(919)九月十三日の日付がある『躬恒集』に次の歌を詠んでいます。
「ももしきの大宮ながら八十島をみる心地する秋の夜の月」
(宮中にいながら八十島を見る心地がするような遣り水を照らしてだしている秋の月)
庭園を海辺の眺望に見立てた歌です。
その詞書は
清涼殿の南のつまにみかは水ながれいでたり。
その前栽にささら河あり。延喜十九年九月十三日に賀せしめ給ふ。
題に月にのりてささら水をもてあそぶ。詩歌心にまかす
ですが、中には月見の宴を催したとは書いてはありませんが、
十三夜の月を愛でる慣習があったと分かります。
九月十三夜の月を詠んだ歌では、平安中期の能因法師のものが名高いです。
東国を旅した折、信濃の国の月の名所、姨捨(をばすて)山に旅寝して見た月を思い出しての歌です。
九月十三夜の月をひとりながめて思ひ出で侍りける
「さらしなや姨捨山に旅寝して今宵の月を昔みしかな」(能因集)
十五夜を芋名月と呼ぶのに対して、十三夜は豆名月とか栗名月と呼びます。
十五夜を見たなら、十三夜もみましょう。
十五夜と十三夜の月を両方とも見るのが風流で「二夜の月」と呼びました。
地方によっては、どちらか一方を見ないのは「片見月」と呼んで無粋と思われたようですね。
とっ、云うことで、明日の十三夜を愛でましょう。!!!
では、今日の続きは、また明日(^^)/~~~
十三夜の話題は後程・・・
高速道理のアンダーパスに朝日
柿と鉄塔。2題
カラスウリ
ちょっとピント外れですが・・・アオサギが頭上を
かすんでいますが、富士山
ノスリ
どんぐり
ヒヨドリ
ススキ
穭田
柿
蓮池に寄りました。
枯蓮の中にコサギ
茎が折れ曲がって池に突き刺さるさまは、戦場で戦いが終わり、敗れた人の刀や槍が地面に刺さっている様に見えます。
「修羅場なり田の蓮枯れて折れ曲り」 (西島陽子朗)
コガモ
ピントが合ってませんが、小魚を獲ったみたい。
おまけは我が家の庭
ニワザクラが1輪・・・
季節外れに咲く、帰り花ですね、返り花とも書きます。
晩秋や冬に暖かい日が続いて咲く花を呼びますが・・・
異常気象続きなので四季の別が崩れているのかもしれませんね。
季節外れの花が普通に咲いて、「帰り花」ということばが意味をなさないような時が来ないと良いのですが・・・
「かへり花暁の月にちりつくす」 (与謝蕪村)
「帰り花むかしのゆめの寂かなる」 (円地文子)
こちらはこれから咲くシュウメイギク
明日は十三夜
満月の二日前、左側が少し欠けた姿が、満月にない風情があるとして、
旧暦8月15日の中秋の名月に対して、「後の月」と呼んで平安から鎌倉時代の貴族は菊の花と一緒に見て楽しんでいました。
十五夜は中国からの渡来文化ですが、十三夜は日本独自の風習です。
平安時代後期の藤原宗忠の日記『中右記(ちゅうゆうき)』には、ある年の九月十三日夜、
たまたま明月を愛でていた宇多天皇(在位西暦887~897)の発意により、
この夜が「名月の夜」と定められたと書かれています。
この後、いつから宴が開かれるようになったかは、不明ですが、
9月13日の月を詠んだ一番古い歌は、宇多天皇の子である醍醐天皇が
延喜十九年(919)九月十三日の日付がある『躬恒集』に次の歌を詠んでいます。
「ももしきの大宮ながら八十島をみる心地する秋の夜の月」
(宮中にいながら八十島を見る心地がするような遣り水を照らしてだしている秋の月)
庭園を海辺の眺望に見立てた歌です。
その詞書は
清涼殿の南のつまにみかは水ながれいでたり。
その前栽にささら河あり。延喜十九年九月十三日に賀せしめ給ふ。
題に月にのりてささら水をもてあそぶ。詩歌心にまかす
ですが、中には月見の宴を催したとは書いてはありませんが、
十三夜の月を愛でる慣習があったと分かります。
九月十三夜の月を詠んだ歌では、平安中期の能因法師のものが名高いです。
東国を旅した折、信濃の国の月の名所、姨捨(をばすて)山に旅寝して見た月を思い出しての歌です。
九月十三夜の月をひとりながめて思ひ出で侍りける
「さらしなや姨捨山に旅寝して今宵の月を昔みしかな」(能因集)
十五夜を芋名月と呼ぶのに対して、十三夜は豆名月とか栗名月と呼びます。
十五夜を見たなら、十三夜もみましょう。
十五夜と十三夜の月を両方とも見るのが風流で「二夜の月」と呼びました。
地方によっては、どちらか一方を見ないのは「片見月」と呼んで無粋と思われたようですね。
とっ、云うことで、明日の十三夜を愛でましょう。!!!
では、今日の続きは、また明日(^^)/~~~