明日から秋雨だそうで、晴れは今日まで・・・
いつもと違うコースで、秋満載!?
ワラ束
朝顔
シュウメイギク
紫陽花みたいなんですが・・・
柿
ハナニラ
ツマグロヒョウモン
ジャコウアゲハの女の子・・・男の子は真っ黒なので識別が簡単です。
体内に毒を持っていて、鳥など外敵に襲われることがありません。
そのせいでしょうか、ほかのアゲハチョウにくらべると、あまりはばたかずにゆったりと飛びます
コミスジ
ベニシジミ
キタテハ
クリ・・・まだ青いですね。
かりん
モズ
キクイモモドキ
ホオズキ
ほおずきを漢字で書くと、鬼灯ですが・・・その字の通りになってますね。
これはみかん?
苔むす、瓦屋根
イヌタデ
これは、白花のイヌタデかな?
八重のムクゲ
ノウゼンカズラ・・・カーブミラーに写ったのを撮りました。
ケイトウ
ケイトウと言うと赤と思いますが、他の色もあるんですね。
ケイトウの俳句では、正岡子規の
「鶏頭の十四五本(じゅうしごほん)もありぬべし」が有名ですね。
子規が病床から前庭を眺めた時の句です。
病に伏している自分と、他の花を圧倒するように(元気に・勇ましく)咲く子規が好んだ真っ赤な鶏頭を対比し詠んでいる句ですが・・・
この句に関しては評価が分かれ、「鶏頭論争」と呼ばれる論争がありました。(以下wikiから抜粋)
歌人・作家の長塚節は「この句がわかる俳人は今は居まい」と絶賛、
同じく歌人の斎藤茂吉も、子規の写生が万葉の時代の純真素朴にまで届いた「芭蕉も蕪村も追随を許さぬ」ほどの傑作と評価しています。
ところが、戦後、俳人の志摩芳次郎がこの句が単なる報告をしているに過ぎず、
たとえば「花見客十四五人は居りぬべし」などのようにいくらでも同種の句が作れるし、それらとの間に優劣の差が見られないと否定。
また斎藤玄も「鶏頭」を「枯菊」などに、「十四五本」を「七八本」に置き換えうるのではないかという意見をだしました。
これに対して、山口誓子は鶏頭が病に伏している子規の自身の”生の深処”に触れた句であると評価、
西東三鬼も、病で弱っている作者と、鶏頭という「無骨で強健」な存在が十四五本も群立しているという力強いイメージとの対比を評価しています。
このように俳人の中で評価が分かれ、『俳句研究』では俳人22名にこの句についてアンケートを取る「鶏頭問答」なる企画も行われたそうです。
結局、この論争は評論家の山本健吉が「鶏頭論争終結」を発表、その中で
誓子、三鬼の擁護意見が「病者の論理を前提に置きすぎている」としつつ、
「十四五本」を「七八本」に変え得るとした斎藤の説に対して現実の鶏頭と作品の世界の鶏頭とを混同していると批判して、
言葉の効果のうえで明らかに前者が優れていると指摘、
その上でこの句が子規の「鮮やかな心象風景」を示していると改めて高く評価し論争を締めくくっています。
今では、この健吉の評価が定着しているようですね。
それにしても、志摩や斎藤の意見は、素人の私が読んでも無理があるように思いますね。
芭蕉の有名な句「松島や ああ 松島や 松島や」に対して・・・
「富士山や ああ 富士山や 富士山や」と置き換えられるって言ってるようなものに感じます。
もう一つ鶏頭で印象に残る句があります。
「一本の鶏頭燃えて戦(いくさ)終る」(加藤楸邨)
昭和20年8月15日、昭和天皇の音曲放送を聞いての句です。
この日については、昭和の名だたる俳人が詠んでいます。
「玉音のまぎれがちなり汗冷ゆる」(日野草城)
「寒燈の一つ一つよ国敗れ」(西東三鬼)
「泣くときは泣くべし萩が咲けば秋」(山口青邨)
「いくたびか哭きて炎天さめゆけり」(山口誓子)
「てんと虫一兵われの死なざりし」(安住敦)
秀逸なのはこの句
「何もかもあっけらかんと西日中」
久保田万太郎の名句です。
ちなみに「西日中」は中学校の名前ではありません(笑)西日のことです。
長くなりました。m(_ _)m
では、今日の続きは、また明日(´ー`)/~~