長女の旦那の実家が福島県南相馬市小高区なんです。
そして、義父が福島原発で大手ゼネコンの安全担当として勤務、まさしく原発の安全神話を守るための勤務を30年にわたって続けてきた人です。
その人が、あの震災の日から今年2月までの日々の出来事や考えたことを和歌と文章で綴った著書が昨日届きました。
中途半端に引用してご本人の思いと違う印象を与えたくないので、長くなりますが、「謹呈」の言葉と「序にかえて」をそのまま載せます。
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謹呈
野生に生きる獣たちは、傷つけば即ちそれは死を意味するという。
しかし人間は、悲しいときは悲しい歌を歌い、
寂しいときは寂しい歌を歌い、
心に負った傷をお互いに舐め合って生きている。
想定外の地震が津波を生み、
津波は家族を奪い、田畑を奪い、
我故郷においては原子力発電所を破壊し、
緑の大地を放射能で汚染した。
ある者は未来を、将来を見出せずに苦しみつつ仮設住宅に、
ある者は子のために親も故郷も捨てて知らない土地へ、
またある者はあの日以前の日を取り戻すために立ち上がった者もいる。
小生もあの日以来、親戚宅や体育館の避難生活を転々とし、
今は自宅から十数キロの所の借り上げ住宅で生活をしている。
高齢を言い訳に正規の職にも就かず、あの日以来のメモを整理してみた。
師に付いて勉強した経験もなく、新聞の学芸欄に掲載されている三十一文字に格別な興味を持つでもない者のその内容は、稚拙で他愛のないものであろう。
更に、今、死を目前にしている者に対してカメラを回し続けるカメラマンの度胸もなく、
屍に鞭を打ち生前を確かめようとする探究心があるわけでもない内容ではあるが、
各位のご協力により人生初めての「著書」が纏まった。
序にかえて
復興元年と銘打って始まった平成24年も立春を迎えた。
「福島の復興無くして震災の復旧復興なし」と格好のいい謳い文句から11カ月が過ぎた。
警戒区域の見直しも話題になっている昨今である。
しかし、わが故郷南相馬市小高区は、あの日から暦が止まったままである。
11カ月の間に自分の故郷に帰れたのは、一時帰宅の許可のあった2回のみである。
警戒区域ということで、何も手が下されていない。
地震で倒壊した家屋が道をふさいでいる。
あの日のままである。
変わったのは、庭の雑草が伸びて、そして枯れたことぐらい・・・・・・か。
先日、阪神淡路大震災から17年とのことでニュースがあった。
阪神淡路は、外観上は、完全に復旧されたように見える。
しかしわが故郷は、未だに手が付けられない状態である。
放射能の影響がそうしているのかもしれないが、最早一年を迎えようとしているのにだ。
阪神淡路に負けない復旧復興が叶うのだろうか。いたずらに暦日ばかり過ぎ去っているように思えるのは自分だけであろうか。
最近の新聞、特に地元紙といわれる福島の新聞でさえ、その顔ともいうべき一面記事に「原子力発電所」関連の記事が載らない日も出てきている。なれば、中央紙も測りし得る。
そして、徐々に福島が、原子力発電所が忘れ去られてゆくのである。
天下のNHKも然りである。地方向け番組にあっても震災関連のニュースを捜すのに苦労する状態である。挙句の果てに、放映している内容は、民放局と同類の、アフタヌーンショー、バラエティショーのドタバタ番組、もしくは、お涙頂戴のドキュメンタリー番組が大半を占める。
これに、ショッピングコーナーを加えたら民放と何等変わらぬ番組ばかりと思うのは自分だけであろうか。
などと愚痴りながら、しかし、結論の出ないまま借り上げ住宅であの日から300日、ボンヤリと何をすることもなく過ごしている。朝起きて、夜寝るまで何もしないのである。
あの日以前には考えられないことである。
最近、「絆」とか、「支えあう」とか、「元気を与える」とか、「元気をもらえた」とか話しているが、自分にはそんな気持ちにはなれないのである。そんな状態があの日からずっと続いているのである。
「とりとめもない虚無の世界」とでもいえば恰好がつくかもしれないが、そんな大それたことではない。
寒く殺伐とした体育館での避難生活。反対に老舗の温泉宿での二次避難。そして、借り上げ住宅に移った今でもずっと同じ思いである。
まさに無である。まさに空である。無にして空なのである。
何度あの頃三十一文字指折り数えて残したメモを繰り返し読んでみても・・・・
記:
(平成24年2月 南相馬市原町区の借り上げ住宅にて)
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と、重たい感じの文章でしたが、「あとがき」の最後の一節に
あの日から一年。
振り返るのではなく、前を見て進もう。
少なくも、この一年、停滞したのだから。
あの日以前の日がいつ来るかは分からないけれど
あの日以前を取り戻すまで。
とあって、少し安心をしました。
地震当日の歌、6首
事務本館屋上塔屋はひっくりかえり
人々転がり叫びて出ずる
ハンドルで支えきれない揺れやまず
助手席シートにしがみつくなり
普通なら静まる頃と思えども
更に大きく更に激しく
あと二人現場の建屋に居る筈だ
安否のPHS(ピッチ)は通信不能
普通ならそれは大きな地震なり
これで余震か蒼白の顔
バス停に船打ち上げられているという
むきだし眼(まなこ)にうわずる声で
最後の歌の説明で
・・・そんな中、作業員の話の中から、「構内バス停に船が打ち上げられている」との報告があった。
「地震の後には津波が来る」ことを知った最初の瞬間であった。海抜12メートルに津波が来る筈がない安全神話の崩壊を見た瞬間である。
安全担当として、作業員が原発で安全に作業するためのルール、法基準、マナー等の指導教育を行っていた著者は、
『作業員が「安全」である。それは、とりもなおさず原子力発電所も「安全」であり、いわゆる、「安全神話」の基本となっていた。』と記しているが、このバス停の船で、その神話が崩れ去るのを実感したのでしょう。
定年を過ぎても、勤務を続けていたのですが、震災後の原発復旧に際して会社からの度重なる強い要請を断り、今年4月に64歳8カ月で退職をしました。
震災当日の出来事から、避難所での生活などでの出来事や感じたことが、綺麗ごとでなく綴られていています。
おいおい、紹介をしていきたいと思います。
今日は、長くなりましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございます。
では、今日の続きは、また明日(^^)/~~~