時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

上総介広常と奥州の関係について

2009-11-05 23:51:53 | 蒲殿春秋解説
かなり遡りますが、小説もどきにおいて上総介広常について次のような書き方をさせていただきました。
上総介広常が奥州藤原氏と通じていてそれが広常暗殺の原因の一つになったと。

実はこのように書いたのには理由があります。

「玉葉」閏十月十七日条に
「頼朝の郎党の多くが藤原秀衡の元に向かった。頼朝の郎党たちに頼朝に対する異心を抱くものがある。その内容を義仲の元に送った。」
という内容の文章があります。

また、「源平闘諍録」巻八『上総介、頼朝と中違う事』のところでは
佐竹忠義を討ちそのまま奥州に攻め上ろうとした頼朝に対して上総介広常が反対して上総国に帰ってしまったという記載があります。

もっともこの記載は富士川の戦いの直後ということになっていますが・・・

そのような記載をみますと、上総介広常が何らかの形で奥州藤原氏と接触していた、もしくはそのように頼朝が疑っていたという可能性があったのではないかと思われるのです。

頼朝が中々上洛しなかった理由の一つとして奥州藤原氏と常陸の佐竹氏の脅威が上げられています。
奥州藤原氏がどのようなスタンスでいたかは分かりませんが頼朝の方は相当奥州藤原氏を警戒していたようです。
頼朝に正面きって反攻していた佐竹氏と奥州のつながりはかなり深いものがあるようでしたし。

また、千野原靖方 「千葉氏」 鎌倉・南北朝編によりますと、千葉、上総介などの両総平氏は太平洋沿いの南奥州の豪族との交易があり、馬や黄金をそのルートで入手していた可能性が高いことが示唆されています。
また、「保暦間記」文治五年(1189年)頼朝の奥州出兵の記事(「上総介弘常、泰衡(藤原)二依有所縁、今度奥州ヘモ下リザリケレバ、頼朝奇恠ニ思テ梶原平三景時ニ仰テ打タレケリ)に注目して、従来の海道平氏(太平洋沿い南奥州の豪族たち)との関係のつながりを踏まえた場合、広常が奥州藤原氏と関係があった為に殺害されたとの推定も提示されています。

そのころを踏まえますと、奥州藤原氏と上総介広常は何らかの接触をもっていた、またはその可能性があると頼朝が疑う余地は十分にあると思われます。

そのようなことを考えながら、素人なりの妄想をかなり加味して、上総介広常奥州内通という書き方をさせていただきました。

なお、同じ時期にかかれた越後の城氏に関しては根拠の薄い完全なる妄想で書いています。


参考文献
 千野原靖方 「千葉氏」 鎌倉・南北朝編 (流山書房出版) 1995
 長村祥知 『法住寺合戦について 『平家物語』と同時代資料の間』 京都女子大学 宗教・文化ゼミナール「紫苑」第2号 2004年3月 (紫苑掲載サイト)