時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百二十九)

2009-11-15 05:30:08 | 蒲殿春秋
義仲が敗れ去った後の都は、ほんの少しの間義仲や彼に従っていた者の処分に追われた。
義仲や今井兼平らの首は獄門に晒され、一軍を率いて河内国に攻め入っていた義仲の乳母子樋口兼光は処刑された。
また、法住寺以降に行なわれた人事は全て無効とされ、摂政師通は解任、前摂政近衛基通が再び摂政の座に返り咲いた。
師通は十三歳にして摂政の座を追われその後二度と政界に返り咲くことは無かった。

これらの戦後処理はきわめて簡潔に迅速に行なわれた。

義仲らの処分に手間隙をかけれない程、この頃の政界はある事を巡って深い混迷に陥っていた。

そのある事とは、未だに三種の神器が平家が奉じる安徳天皇の手元にあり、都に現在ある後鳥羽天皇の側にはないという事実をどうするかということである。

都に残る人々は後鳥羽天皇の正統性を主張し安徳天皇は既に退位したものと見なしている。
しかし正統でなければならない後鳥羽天皇のもとには皇位の証である三種の神器がない。三種の神器は安徳天皇とともにある。
どうしても三種の神器を安徳天皇、いや幼い安徳天皇を奉じる平家一門から取り戻さなくてはならない。

後白河法皇の御所において連日そのことに関して激しい議論が繰り返されている。
先の帝である安徳天皇と三種の神器の安全な都への帰還を優先しようとする者達は
平家との和平を主張し、あくまでも和平による三種の神器の帰還を主張する。
一方、平家との和平を嫌いあくまでも武力行使によって無理矢理にでも神器を取り返すべきと主張して止まないものたちもいる。
主戦派は現在丁度鎌倉軍が都とその近辺に在ることを好機と考え彼等に平家を追討させようと考えている。
和平派は平家が侮りがたい程の勢力を保持して、都に近い福原にいることを警戒している。

和平派と交戦派は政界を真っ二つにしてお互い譲らず中々結論が出ないまま時間だけが過ぎ去っていく。

このような混迷を極める政界とは裏腹に、都の中の人々は新たなる戦の噂におびえながらも久々の平穏を取り戻しつつあった。

都に入った鎌倉軍が都の庶民に対しては一切の狼藉を行なわずまた都の治安維持に尽力していたからである。
鎌倉軍は出立する際、多くの兵糧と物資を携えて都に上っていた。
それゆえ都やその周辺から義仲らがかつて行なったような物資食糧の強奪が行なわれなかった。
また、彼等を指揮する源九郎義経と彼を補佐する軍目付梶原景時によって都の中に入った軍の統制がきちんととれている。
鎌倉勢は都の治安をよく維持している。

都が混乱に陥らなかった最大の理由がもう一つある。
東国から大軍を引き連れて上洛した鎌倉勢の主力が都に入らず、近江に滞在しているからであった。
都に入った鎌倉勢は義経率いる少数の搦手勢と義経の友軍安田義定、そして勢多から義仲を追ってやってきた一条忠頼、大手軍の軍目付土肥実平率いる手勢程度で
他の鎌倉御家人たちや甲斐源氏の一党は未だに近江勢多付近に滞在しているのである。

義仲らが上洛した際大混乱がおきた要因の一つに北陸と東海道から引き連れてきた大軍が一気に都に入ったという部分もあった。

その前轍を教訓に、鎌倉勢は軍の大部分を都の一歩手前に止めていたのである。
近江にいる大軍を統制しているのは蒲冠者源範頼。
範頼の統制の元、近江に滞在する鎌倉勢も略奪等は行なわなかった。
そして彼等が次にどのように動くべきなのか、都の情勢を固唾を呑んで見守っている。
近江で不気味なほど静かな沈黙を湛えながら。

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