時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百七十)

2009-03-23 06:08:32 | 蒲殿春秋
寿永二年(1183年)閏十月中旬
都の人々は恐怖に慄いていた。
西国にある平家追討に出ていたはずの木曽義仲が都に戻るいう噂が乱れ飛んでいた。
人々は財産をどこぞに隠し、妻子を都から退去させた。
果たして義仲は閏十月十五日都に戻ってきた。

その後の義仲の行動を都の人々は固唾を呑んで見守る。

都に戻った翌日、義仲は院に参上した。
義仲は西国の件は案ぜぬように後白河法皇に奏上すると共に法皇が頼朝に急接近したことを猛烈に抗議した。

数日後院からの使者が義仲の遣わされた。
義仲は使者に二つの不満を申し述べた。
一つは法皇が頼朝に接近して頼朝を引き立てようとしていること。
もう一つは東海、東山、北陸の沙汰をさせるという宣旨を頼朝に下したことである。
宣旨に関しては義仲生涯の遺恨であるとまで申し述べた。

そして義仲は法皇に要求をする。
頼朝を討つ院宣を義仲に下して頂きたい、と。

義仲はあくまでも頼朝と戦うつもりである。
まず上洛を企てる頼朝の弟を叩き、法皇から下された院宣を東国の豪族たちに披露して
東国の豪族達と頼朝の間の離間を図る。
そして、奥州の藤原秀衡と同時に頼朝を討つ。
義仲の中の構想はそのようなものであった。

だが、義仲の思い通りに事は進まない。

まず、法皇が義仲の要求を一切受け付けず頼朝追討の院宣を発することを拒まれた。

そしてもう一つ。
義仲と共に上洛した源行家、土岐光長らと義仲と意見が食い違うようになってきていて
義仲に協力する様子をみせなくなってきている。
さらに、義仲が案ぜぬようにと申し述べた西国の状況が大きく変化していた。
美作より西の地域はほぼ平家の支配下に収まり、平家の勢いはより一層都に近いところまで及ぼうとしている。

そして、坂東よりやってきた頼朝の弟源義経がついに伊勢に入った。
伊勢に入った義経は在地の反義仲に意志を持つ豪族達に好意的に迎え入れられ
義経の下に集った彼等は鈴鹿山を切り塞ぎ反義仲の行動を顕にした。

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