時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

荘園について

2007-01-04 14:09:22 | 蒲殿春秋解説
知行国主になる重要さは言うまでも無いことですが
それでは荘園はどうでもいいのかといえばそんなことはありません。

院政時代
院や女院、摂関家などの有力者や有力寺社は「荘園」を増やそうと努力していたようですし、
そのすぐしたの中流貴族や院・女院に仕える女房たちは、上位者に荘園を立荘を斡旋してそこに一定の権利を得ようとしていました。
(その下に中流貴族や女房達に立荘を上位者に斡旋するよう運動していた現地管理者がいます)
国衙を抑えることも大切ですが「荘園」を増やすこともまた大切だったようです。

さて、荘園の年貢についてですが
年貢には
「物品」
「労働力提供」
「兵役」
「臨時徴収」
などがあったようです。

「税金」という言葉でならされている我々は
「年貢・税」=物や金
というイメージが抜けないのですが
労働力提供、兵役といった「体を張った納税」というものが当時はありました。
(国衙管理の地域でもその手の納税があったようです)

また、「物品」を納める税のほうですが

その物品は米とは限りません。

野菜、魚などの農産物、水産物があるのは当然ですが

織物だったり地方特産品だったり、工業製品だったり
鉱山が荘園である場合は発掘される鉱山資源
商業地である場合はその上がりの一部などが
「税」といて徴収されていたようです。

荘園に関しては研究が進むに従っていろいろな事実が出てきそうです。
今後どのような
「納税」があったのかの情報が出てくるか楽しみです。

知行国について

2007-01-04 13:53:54 | 蒲殿春秋解説
さて、ここのところ知行国という言葉が沢山出てきたので
これについて少し書いてみたいと思います。

律令が制定された際
各国に国司がおくことが定められました。
そして、国司の中でトップに立つのが
「守」(国によっては「介」)です。
現在で言えば知事のようなものです。

本来は太政官の決定で各国の「守」が定められます。
そして、それは平安時代も中頃まではその法則でいきます。
(実際には、摂政などの有力者の推薦で決まりましたが)

ところが院政時代になると
各国の「守」を推薦する権利を持つ人
というのが登場します。

その推薦する権利を持つ人というのが「知行国主」です。

どのような人がなったのかと言えば
院、女院、摂政、院近臣などです。
後白河時代には平家一門もそれに加わります。(平家は元々院近臣ですが・・・)

平安末期は荘園が恐ろしい勢いで増えていきますが
それでも税が見込める国土のうちの30%しか荘園にならなかったようです。
(鎌倉時代にはもっと荘園比率が増えるようですが)

残りは全て各国におかれた国衙(国の役所、現在の県庁のようなもの)
の管理下にあり、そこで税が徴収されます。
つまり、荘園領主になるよりも国衙を抑えるほうが色々な面でメリットが多かったのではないのかと考えられます。
その国衙を管理する権利を持つものが国司、なかんずくトップである「守」です。

その国司を推薦する権利を持つ知行国主は当然各国の行政に対して発言権と経済的権利を持つことができます。
知行国主というものは
経済力や人的資源をある確保できるという大変重要なポストになるわけです。

その知行国主を承認するのは院です。

知行国主というのはどこの国の国司を推薦できるわけではなく
その人が推薦できる国というものが決まっています。
例えば源頼政は伊豆の国司だけは指定できますが
そのほかの国に対しての推薦権を持ちません。
その代わり他の人は伊豆の国司に対する人事権は一切持てません。

一方国の現地の方へは
国の「守」が実際に赴任することは少なくなり
「目代」という「守」の代理人が権限を委譲されて現地に赴きます。

ただし、「目代」は一人ではなく複数の人が権限を分散されて
派遣されるケースも多かったようです。

一方現地に代々住み着く有力者は
「在庁国衙官人」としてかなり有力な権限を持つようになっていたようです。
それでも、守や知行国主との関係は非常に大切なものだったようです。

平安末期は
一つに国に対して
「知行国主を決定する院」━「知行国主」━「国司」━「目代(複数人)」━「在庁国衙官人(複数人)」
という色んな人々がからむ複雑な状況だったようです。

以仁王の令旨について

2007-01-04 13:31:21 | 蒲殿春秋解説
さて、歴史の教科書にも出てくる清盛のクーデターと「以仁王の令旨」について
書いてみましたが通説とかなり違うと思われた方も多いと存知ます。

通説では
おごる平家が後白河法皇を幽閉して孫の安徳天皇を即位させた。
そして、全国的に強まる反平家機運が盛り上がってついに
「以仁王の令旨」が発行された

というような見方がなされているのではないでしょうか?

まず、「おごる平家」についてです。
高倉天皇が即位してからはたしかに平家はかなり有力な家となりました。
けれども、「平家物語」にでてくるような
「高位高官ほぼ独占、国の半分を知行」という状態は
「平家のクーデーター」の後の状態です。
実際には、清盛は院や宮中の有力者との提携をまだかなり必要としていたようなのです。
「おごる平家」になることができたのは「清盛のクーデター」以降で
まさに「以仁王の令旨」のわずか半年前に達成したばかりのことなのです。

そして、「以仁王の令旨」
これの発行の背景については現在色々な説があります。
けれども以仁王・源頼政の背後には
「八条院」の存在が大きかったらしいということは
私の読んだ範囲ではあちらこちらで触れられています。
それを自分なりに解釈して小説に取り入れてみました。

それから、
頼朝と義仲の扱いが小さいんじゃない?特に頼朝のあの扱いはなあに
と思い方も多いと思います。

けれども、私は我々が現在思っている
頼朝の血統の位置づけや東国武士との関係のほうが
後の歴史からの見た過大評価であり、また頼朝の政治的宣伝の結果だと思っています。

このあたりに関しては過去に書いています。

源氏と東国武士団の関係Ⅰ

源氏と東国武士団の関係Ⅱ

頼朝の血統の地位Ⅰ

頼朝の血統の地位Ⅱ

簡単に書くと頼朝と東国武士団との関係は現在我々が思っているほど濃密ではなく
近世のような代々一つの家に仕えるという主従関係とは異なるドライかつ刹那的なもので
なおかつ、頼朝の血筋が清和源氏全体の指導者であったわけではなく
分立する清和源氏の家のなかの単なる一つの流れであったに過ぎない
ということです。

ですから、実際には流人であった当時の頼朝の存在価値は
頼政らから見ると
そんなものだったのではないのかなと思って書いてみました。