時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三十二)

2006-06-15 21:39:33 | 蒲殿春秋
出家して全成と名乗るようになった今若が姉の屋敷にたびたび現れるようになったのは
それから数年たってからのことである。
この頃長成は閑院流公能の娘皇后忻子に仕えていた。
公能の娘を母とし、皇后忻子の妹太皇太后多子に仕える一条能保
とは顔見知りの関係だった。
二人はともに「閑院流藤原氏」に出入りするもの同士であった。
長成が常盤を娶ってから数年後能保が義朝の娘と結婚したことも
二人の間をより親密にした。
そのような関係からより長成一家と親しくなった、
能保とその妻(つまり範頼・全成の姉)は
常盤と全成の冷えてしまった親子関係を知ることになる。

能保の屋敷と長成の屋敷はそれぞれ一条大路に面していて近くにある。
ある日、長成の屋敷の近くを所在なさそうにうろついている
若い法体の男の姿を能保は見かけた。
能保は妻と共にその男を自邸に引き取りに来た。
最初は、戸惑っていたその僧侶も
迎えにきた人物が異母姉とその夫であることを知って
おずおずとその屋敷に入った。

その後全成は姉夫婦の屋敷に頻繁に現れることになる。

最初は遠慮がちだった全成も訪れるにつれてと能保には
心を開くようになっていた。

そして、母に対する複雑な思いを徐々に吐き出すようになった。

系図はこちら

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蒲殿春秋(三十一)

2006-06-14 21:40:14 | 蒲殿春秋
やがて縁あって常盤は一条長成という公家の下へ嫁いだ。
長成は大蔵卿という地位で、それ以上の出世はその後なかったが
貴族としての地位は安定している。
それなりの財力もある。
出自が低いために常盤は当初は正妻とは周囲からは認められなかった。
けれども常盤を得た時は長成には他に妻と呼ぶ存在は他いなかった。
常盤は先妻を失っていた長成にとっての「唯一の妻」となった。
その後も他に長成のまわりには他の女性の影は見当たらない。
結果、常盤は長成の北の方同様の扱いを受けるようになる。
長成は常盤とその子供たち全てを引き受けた。

常盤と下の二人の子供は長成の一条の屋敷に引き取られた。
乳母も長成が手配した者に変更された。
常盤も皇太后呈子(九条院)に出仕する時間を減らすようになり
親子が共に暮らせる生活を再び手に入れることができた。
醍醐寺にて出家した今若も宿下がりの折は長成邸に来るようになった。


暫くの間はその生活も平穏無事に過ぎ去っていくかに見えた。

しかし、宿下がりの折、普通に過ごしていたかのように見えた
今若の顔がたった一人になった時に、ふと不快の表情のぞかせていたことを
誰も知る由はなかった。

常盤は、今までの不安な生活から一変した落ち着いた生活を手に入れた。
なによりも自分一人だけを妻として女として愛してくれる人がいる。
これは女として今まで味わったことのない最高の幸せなだった。
母の心の安定はかたわらにいる下の二人の子の表情も明るいものにした。
けれど、普段遠く醍醐寺にいる今若には母の幸せは判らない。
宿下がりするたびに母が遠い存在になっていくような気がした。

いつしか今若の宿下がりの回数は減っていった。

親子の断絶ははいきなり訪れた。
常盤が長成との間に男子を儲けて暫くした頃
ふらっと訪れた今若は母ところへ顔を出した。
久々に見る母は生まれたばかりの赤ん坊にかかりっきりだった。
今若がその光景を見た直後のことだった。
赤ん坊をあやす常盤に向かって
「あなたはなぜ父上と一緒に死ななかったんだ」
と罵倒してその場から立ち去ってしまった。
常盤は凍りついた。

その後今若が一条長成の館を訪れることは二度と無かった。

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蒲殿春秋(三十)

2006-06-11 15:28:52 | 蒲殿春秋
他に頼るあてもない常盤は皇太后呈子の元に赴いた。
話を聞いた呈子は常盤親子を受け入れた。
住む屋敷も公に没収されて追い出された常盤たちは着の身着のままで呈子のところへ引き取られた。常盤はそのまま雑仕女として再び仕えることになった。

次に常盤の心を悩ませたのは三人の子供の行く末であった。
とにかく、このままここに親子共々居座り続けるわけにもいかない。
さらに先のことを考えれば、父親は謀反人として死んでしまったので成人しても官位を受ける見込みは全くない。
どこか有力な権門に仕えさせるにも伝手はない。
自分を再び仕えさせてくれるだけでもありがたいの状態で
皇太后に雑仕女に過ぎない自分の子供のことまでお願いするもの心苦しい。
どうするべきかと思い悩んでいたところ
思わぬ所から子供達への支援を申し出る人物が現れた。

なんと、義朝と戦ってそれを打ち破った平清盛が子供達の行く末を援助すると
皇太后呈子を通じて申し出たのである。

そして、一番年上の今若は醍醐寺にすぐに入門することになり
年端も行かない下の二人には清盛の手配で新たなる乳母が付けられた。
二人はすぐに乳母の家に引き取られたが、
常盤が会いたいときにはいつでも会うことができた。
この二人も将来仏門に入ることを希望するならば然るべき寺院を紹介するとまで
言ってくれたようだ。

自分が愛した男を殺した張本人の申し出を受けることは常盤にとって屈辱だった。
が、常盤はそれを受け入れるしかなかった。
憎い敵でも、その時子供達を支援を申し出たのは清盛しかいなかったのだから。
子供達の将来の為ならば亡き人もわかってくれるだろうと無理に自分を納得させた。
俗世間においては未来が閉ざされた子供達も出家すれば新しい自分の居場所を見つけることもできる。
ただ、今若に関しては、この幼さで何の心の準備もないままたった一人見知らぬ世界に送り込んでいいのだろうか、
本人の意志でないところで寺に入るという未来を決めてしまっていいのだろうか。
こんな母としての戸惑いが常盤にはあった。
けれども、今若の将来の為と思い定め心を鬼にして醍醐寺へ送り出す決心をした。
今この期を逃したらこの子の将来は塞がれると思ったから。

清盛がこのような申し出をした真意は何だったのだろうか?
常盤の歓心を得て美貌で名高い彼女を手に入れたかったのか
その主皇太后呈子のに取り入ろうとしたのか
それとも、彼が滅ぼしてしまった義朝一族にたいする罪滅ぼしか怨霊封じの意識だったのか・・・

母の苦悩も清盛の思惑も知らず
今若は、父を亡くして時を置かず母とも引き離されてただ一人醍醐寺に預けられることになった。
これが今若━全成に刻み込まれた最初の心の傷であった。


*ここで皇太后呈子と出ている方は後に「九条院」として知られる人ですが
平治の乱当時は皇太后の地位にあり、まだ女院としての宣下を受けていなかったので
「皇太后」と表記させて頂きました。

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蒲殿春秋(二十九)

2006-06-11 14:10:33 | 蒲殿春秋
部屋に戻ると例の佳人がうなだれて座っていた。
「やはりあの子は、私を許してくれないのね・・・」
と、小さくつぶやく。
そんな彼女の背中を姉がやさしくさする。
「いいえ、時がたてば、もうすこしあの子も大人になれば
あなたの立場も、あの時のあなたの苦しさも理解してくれるようになりますわ。
落ち着いて。 いま白湯を持ってきてもらいますから」
そういうと、姉は範頼をこっそりと別室に連れていった。

「姉上、あの女人は?」
事情が飲み込めない範頼は姉に疑問をぶつける。
「常盤殿。先程いらっしゃたあなたの弟全成殿の母君です」
でも、そうならばなぜ全成はあの美しい母親を避けるように立ち去ったのか・・・
「あなたには、あの方々のことを何一つ話してしませんでしたね」
狐につままれた顔をしている範頼に対して姉は語り始めた。

義朝亡き後、その愛妾だった常盤は遺された幼い三人の子供を抱えて
途方に暮れた。
とりあえず、戦の難を避けるため大和に逃れたが、
頼朝の命が助かったのを知り
自分の子供達が処罰を受ける心配はないという状況をみて
都に戻ることにした。

しかし、そんな母子にはこの先どうやって生計を立てていくか
という問題が待ち構えていた。
彼女自身やその実家は所領を持つわけでなく、その他財産があるわけではなく
それまでの生活は義朝の経済力に支えられていた。
しかし、その男はもうこの世に存在しない。彼の所有していたもの全ては官に没収された。

生きていく為に常盤は
以前仕えていた皇太后呈子のところに雑仕女として戻ることを考え始めた。
しかし、簡単に戻れるとも思えなかった。
さしたる後ろ盾もないのに、彼女が雑仕女となれたのは
類まれなる自身の美貌にのみ拠るものであった
ということを彼女自身よく知っている。
年を重ね容貌に衰えが忍び寄り、なおかつ三人の子持ちとなった彼女を
皇太后や世の人々は受け入れてくれるのだろうか。

それに、仕えることが出来るとしても三人の子供をどうするのか。
義朝が敗死した後は、乳母や下人などかつて仕えてくれていた全ての者が
彼女の屋敷から逃げ去ってしまった。
残っていたとしても、彼らに給付するものはもはや何もない。
そして、その屋敷さえも奪い去られる日がやってきた。
屋敷の持ち主が義朝だったからである。

他に彼女に遺されたものは年老いた母だけだった。

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蒲殿春秋(二十八)

2006-06-10 07:54:37 | 蒲殿春秋
それからしばらく、範頼はこまめに姉のところへ顔を出した。
ある日、姉の所に行くとすでに先客がいた。法体の若い男だった。
範頼が部屋に入るとその僧は軽く会釈をした。
「六郎、あなたにやっと引き合わせることができますね。」と姉が言う。
「あなたの弟ですよ」
「?!」

突然現れた 弟 に範頼は戸惑った。
その僧侶の名は全成、幼名を今若という。
現在は醍醐寺で法橋という地位にあるという。
今日は、寺にしばしの憩いを頂きここに来たという。

全成は絵巻物から抜け出たような美男子である。
しかし、どこか繊細で冷たい印象があるのも否めない。

それにしても、この「弟」と何を話したら良いのだろうか?
22歳になる今日までこの弟と一度も会ったことがない。
姉や頼朝のように幼時時々共に過ごした記憶があれば話のしようがあるのだが・・・
場に異様な沈黙が流れた。

「あのう・・・」と範頼が話しかけようとしたところ
あでやかな衣擦れの音が近づいてきた。
そのとき全成が不快そうに顔をゆがめたことに範頼は気が付かなかった。
やがて、その女人が現れたときそこの空気は一気に変わった。

彼女が現れた瞬間、天女かと思った。
━━ 美しい ━━━━
範頼の瞳はその女性に釘付けになった。

けれども全成は
「帰ります」
と一言言い捨てると荒々しくその部屋から出て行った。

麗しき女人はその後姿を悲しげに見つめるだけ・・・

一瞬何かが範頼を突き動かした。
「おい!」といって範頼は全成の後を追いかけた。
それでも、全成は足早に立ち去ったようで、侍女に聞いても既に出立したとの事。
何も出来なかったと呆然と立ち尽くす範頼の手を身重の姉がやさしく握り締めた。

「さあ、部屋に戻りましょう」
姉は優しく微笑んだ。

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教科書による誤解

2006-06-08 10:18:56 | 源平時代に関するたわごと
こんな勘違いをするのは私だけかも知れません。
実は「天慶・承平の乱」(平将門の乱と藤原純友の乱)は
藤原道長の全盛期の後の出来事かと思っていた時期があります。

原因は、平安時代の説明で
先に「摂関政治」の記述があって
その後に「武士の発生」の記述の一貫として
「天慶・承平の乱」の説明があったからです。

歴史の流れからみれば
政治の実権は貴族から武士にいったということで
(このような表現は適切ではないかもしれません。平安後期は二者は分離していませんでしたから)
このような表記にするほうがわかりやすいのかも知れません。

しかし、私はこの表記の順番のせいで
道長の後に将門というとんでもない誤解をしてしまったんです。

年表を見れば一目でわかることなんですが・・・

もっとも、貴族の後に武家という区切りで混乱していた部分もありましたが。

蒲殿春秋(二十七)

2006-06-04 22:45:16 | 蒲殿春秋
高倉天皇が即位すると後白河上皇はしきりに平家一門の元に出入りされるようになった。
清盛が出家した翌年上皇は出家され法皇となられたが、
さらにその翌年清盛と共に東大寺で受戒された。
清盛が呼び寄せた宋の国の人を見に後白河法皇が福原に御幸されたこともあった。

この両者の蜜月は院の寵愛深い滋子の存在抜きには語ることができないが
法皇にとって平家は大切な治世の支えになっていたということではなかろうか。

元々「四の宮」と呼ばれていた後白河法皇は即位の可能性のない皇子だった。
それが、崇徳天皇にかわって近衛天皇が即位し、その近衛天皇が若くして崩御されたため急遽即位されたという事情があった。
しかも、後白河そのものが即位の対象ではなく
その皇子二条天皇を即位させるために父である四の宮が即位しないと
おかしいので仕方無く即位して頂いたという事実は
当時の宮廷社会の人々のほとんどが認識していたことだった。
よって、後白河院の院としての権威は白河院や鳥羽院などと比較すると
かなり弱いものであった。
正当性という部分からみれば鳥羽院と美福門院の指名した二条天皇とその皇子六条天皇の方が強い。
よって、自らが指名した高倉天皇の背後には有力な後ろ盾が必要だった。
その後ろ盾は母后滋子の義兄である清盛をおいて他にはいない。
幸い、平治の乱で有力な廷臣はほとんど消え去り、その直後に摂関家の大殿忠通や
乱で暗躍した藤原公教、閑院流の実力者公能らが死去していった。
清盛の上に圧し掛かっていた実力者は自ら消え去っていったのである。

多くの財を持ち、都で唯一絶対の武門の統率者でもある清盛は政界遊泳術も
非常に長けたものを持っていた。
法皇との提携を背景にに朝廷における清盛の発言力は圧倒的なものになりつつあった。

そして、ついに承安元年(1171年)清盛の娘徳子が高倉天皇の元に入内し
翌年中宮に冊立された。
範頼が帰京した承安三年(1173年)は平家のさらなる躍進が予想されていたのである。

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用語解説 ラ行

2006-06-03 17:41:25 | 用語解説
流刑(るけい)
律令で定められた五つの刑罰(苔、杖、徒、流、死)のうち2番目に重い刑罰。
流刑地に追放され、そこの国衙の監視下に置かれる。
律令では「労役」も義務づけられていたようだが、実態はよくわからない。
罪の程度によって近流、中流、遠流にわかれる。(遠流が一番重い)
流刑先は「国」に割り当てられ、どこに居住するかは国衙の判断にゆだねられたらしい。
また、流刑先は「島」とは限らず遠流でも陸続きの場所も多い。
江戸時代のように拘留場所が指定されている「島流し」とは少し趣が違うようである。