時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(十七)

2006-05-05 21:54:21 | 蒲殿春秋
仁平二年(1167年)範頼は上野の地にあった。
都を出発してからはや二年、範頼は十六歳になった。
その間にぐんぐんと背丈が伸びた。
上野にいる間範頼は国衙の目代の手伝いをしていた。
行政能力に長けた目代の元、目を白黒させながら、なんとか仕事をこなしていたが
ついいくのが精一杯、毎日疲れた体を引きずって宿舎に帰る日々だった。

荘園の立荘手続き、訴訟の受付、犯罪の取り締まりなど国衙の仕事は忙しい。
それでも、最近は少し慣れてきて周囲を見回す余裕も出てきた。

最近公文目代が頻繁に都に文を送っている。
どうやら、国内の豪族の諍いが頻繁に起きているらしい。
しかも、それぞれが都の有力者とつながりを有しており
国司の目代の独断で裁断することが難しくなってきていた。
最近では上野の国の中では新田義重一族と藤原姓足利氏が反目している。
そして、それぞれが平家一門と関係を持ち始めている。

また、平家か、と範頼は思う。
大きい存在になったなあと感慨にふける。
父とかつて戦った一門であるが特に深い恨みがあるわけでもない。
父が滅んだのは平治の乱の時であり、武力で父を追い込んで死に至らしめたのは
確かに平家であるが
この乱自体わけのわからないもので、平家だけが自分達の敵であるわけではない。

上皇と天皇、そしてその近臣たちの権力争い
急速に台頭した信西入道に対する廷臣たちの反発と恐怖
そのドロドロとした関係の中で最初に武力行使を行ったのが信頼一派。
信頼は義朝を配下に従え、源光保、源頼政その他廷臣を味方に引き込んで
信西がいると思われる三条殿を襲撃
間一髪逃亡していた信西を殺害、
朝廷の政治の主導権を得た信頼一派は信西の一族を謀反人に指定して流刑にした。

暫くの間
天皇は通常通り内裏で政務を執り、
内裏一本御書所の中で上皇は不気味な沈黙を保っている。
通常の日々が続くように見えている中信西殺害を主導した者たちは内部分裂した。
天皇親政派は政局の主導権を握りつつあった信頼から離反しようとしていた。
そのとき、それまでどの勢力にも属さなかった中立派清盛が急浮上する。

清盛と密かに連絡を取る天皇親政派閥の経宗、惟方ら。
そして、彼らの策謀により天皇は内裏から六波羅へと遷る。
その事実を知った上皇も内裏を脱出。
結果、もぬけの殻と化した内裏。
その事実はそれまで官軍だった信頼一派と義朝を賊軍にした。

多くの廷臣や光保、頼政らがつぎつぎと信頼から離れていった。
その一方義朝は信頼への従属度が高いため離反勢力から見放された上
信西襲撃の際の三条殿焼き討ちの全ての責任を押し付けられることになった。

義朝はそのままの状態では処刑されるのが明白だった。
彼に残された道は一つだけだった。
六波羅を襲撃して天皇の身柄を取り返し再び官軍に返り咲くことだけが
義朝の唯一の生存の道となった。
しかし、それはあまりにも無謀な行為だった。
清盛が都に集めていた兵力は千騎。
しかも、信頼を見限った光保、頼政の手勢合わせて四百騎ほどが清盛に加わった。
それに対して、義朝の配下にいたのは二百騎足らず。かれの本拠地坂東は都からあまりにも離れすぎていた。。
兵力の差はいかんともし難い。戦闘はあっけなく終了し義朝は敗走を余儀なくされた。
義朝とは早くに行動を別にして上皇の元に逃げ込んだ信頼はその日のうちに処刑された。

長く苦しい逃亡の末義朝は落ち延びた先で殺害された。
長兄義平も都にいるところを見つかり処刑された。
次兄朝長も逃亡中に受けた傷が元で歩行困難になり自害。
二ヶ月程逃亡を続けていた三兄頼朝も捕らえられた。

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