「じゃあ、今はどうなの?」
「え?」
健一さんが尋ねてきた。
「今も、まだ、何もかも差し置いて香織さんの意識を真っ先に占めているのかな。つまり・・・」
「振られた彼のことを、ってことですか?」
「そう。」
私は健一さんがそんなことを聞いてくるとは思っていなかったので、こんなことを聞かれたことに少し驚いてしまった。
「いえ。」「もう、もうそんなことは無くなりました。」
答えてから、そういえば最近はそんなことも無くなったなあと気が付いた。振られた直後の、何を見ても何を聞いても通彦との思い出につながっていったあの感じとは、今は違っていた。あの時は、時が解決してくれる、という陳腐な言葉を、信じられない自分がいたけれども、時というものは自分では気が付かないうちに、当たり前のように過ぎ去り優しく記憶を遠いものにしてくれるのだなと、そう思った。
「それはよかった。」
健一さんは穏やかに微笑んだ。そしてしばらくの間こちらをずっと見ていた。見つめていた、と言ったほうがいいかもしれない。数秒たっても数十秒たっても目を逸らさないので、私のほうも目を逸らすことが出来なかった。その間、周囲のざわめきだけが聞こえていた。部屋の隅の厨房でカラトリーがぶつかる音や、人々の話し声やそんなものが、まるで遠い場所から聞こえてくるようにくぐもって耳に入ってきた。私たち二人のまわりだけが、見えないベールになっていてその中だけが静かな空間になっているようだった。
「今ね、天使が通り過ぎたんだよ。」
「え?」
健一さんが何を言っているのかよく分からなかった。
「続いていた会話がふっと途切れて沈黙することを、天使が通り過ぎる、ってフランスでは言うらしいよ。」
「天使?」
私は健一さんがシュトーレンと一緒に送ってくれた葉書に印刷された、赤ちゃんのような天使を想像した。
「それって、天使って、キューピッドのことなのかしら。」
その赤ちゃんみたいな天使はキューピッドのことだと思っていた。
「うーん、どうかなあ。」
「違うの?」
「ほら天使と言ってもね、いろいろあってね、何だっけな、おじさんみたいな天使の出てくる映画もあったよね。人間に恋をする。」
私は見たことはなかったけれどドイツの白黒の映画を思い出した。
「ああ、そっか。そんな映画ありましたね。あれも天使なのね。そういうおじさんの天使が出てくる小説があったわ、そういえば。天使なのに見世物になっていて、ひどい扱いを受けて石とか投げられて。よれよれで。」
一瞬止まった空気はこんなくだらない会話ですぐに雰囲気が変わった。
「香織さんにもう一度会いたいなと思ったのは、まったく沈黙が気にならなかったからだと思う。あの時あなたは最悪の状態で、僕はコーヒーを引っ掛けるし、もしかしたら自殺してしまうんじゃないかって少しは思ったのもあるのだけれど、それよりも、そんな最悪な状態でいたのにも関わらず、なんかその中に何か惹かれるものがあったのかもしれない。それが何かはよく分からないけれど。」
健一さんは淡々と喋った。それはせりふとしてはかなり大胆なことを言っているように思えたけれど、あまりにも健一さんが普通に淡々と話すので、私はどう答えていいのか良く分からなかった。分からなかったけれど、それは嬉しいという気持ちに近かったのだと思う。
「じゃああの時は、天使が何十人も何百人も通りすぎたかしらね。」
「そうかな。」
「私あまり話しもしなかったし。むっつりとして。だからおじさんの天使がぞろぞろと。大行列。」
「なんでおじさんの天使だけなんだい。かわいい天使はいないのか。」
私たちは笑った。私は自分が会話をするのが不得意であるということを、こんなに肯定的に考えたことはなかった。だから私は、健一さんと話していてもあまり緊張しないのかもしれないと思った。そういう風に感じる人というのは珍しかった。
「昔そういえば、クリスマスのプレゼントにろうそく立てを貰ったことがあってね。ろうそくの熱でくるくると天使が回る仕掛けになっているの。天使が4,5人、矢を拭きながらくるくると回るの。そのおもちゃを見るとね、なんだかクリスマスだなあと思ったわ。ほんわかした気持ちになれたというか。それを今思い出した。もう忘れていたけれど。」
「そう。」
「私久しぶりになんだか楽しいクリスマスを過ごせたわ。健一さんのおかげで。」
私は本当にそう思った。気を使わずにこれだけリラックスして食事ができたのは、とても久しぶりなような気がした。
「またこうして会えるのかな。」
健一さんは私を見てさり気なくそう言った。私もさり気なく答えた。
「もちろん。健一さんがよければ喜んで。」
店を出ると寒さは一段と厳しくなっていたけれど、お酒も飲んでいたし食べたばかりなのでそれほど寒いとは思わなかった。なんとなく行きかう人は皆浮かれているように見えた。皆お洒落をして、パーティか何かに行ったり、人に会ったりプレゼントを交換したりしたんだろうと思うと、私は自分が少しはしゃいだ気分でいるのも不思議ではないと思った。
「今日はありがとうございました。」
「いえいえ。こちらこそ急なお誘いで申し訳なかったです。」
駅に着き改札の前まで来ると、なんとなくお互い言いたいことがあるような素振りで、少しの間沈黙が襲った。でもそれは心地のよい沈黙だった。私たちはもう、相手のことを少しは知っている。この間のように、連絡先も分からじまいということではない。
「メールしますね。というかメールしてもいいですか?」
私は言った。
「そうだね。」「そしてまた会おう。」
健一さんは短く言った。そしてお互いに「じゃあ。」と言って健一さんは東京方面に、私は私鉄乗り場に向かった。健一さんが私の乗り場まで送っていくと言ったけれども、私は大丈夫だからと断った。もう夜も遅かったし、それに私は暖かい気持ちに包まれていた。
私は振り返った。クリスマスの夜の人ごみの中に健一さんの後姿が見えた。健一さんがこちらを振り返った。お互いに微笑んだ。
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「え?」
健一さんが尋ねてきた。
「今も、まだ、何もかも差し置いて香織さんの意識を真っ先に占めているのかな。つまり・・・」
「振られた彼のことを、ってことですか?」
「そう。」
私は健一さんがそんなことを聞いてくるとは思っていなかったので、こんなことを聞かれたことに少し驚いてしまった。
「いえ。」「もう、もうそんなことは無くなりました。」
答えてから、そういえば最近はそんなことも無くなったなあと気が付いた。振られた直後の、何を見ても何を聞いても通彦との思い出につながっていったあの感じとは、今は違っていた。あの時は、時が解決してくれる、という陳腐な言葉を、信じられない自分がいたけれども、時というものは自分では気が付かないうちに、当たり前のように過ぎ去り優しく記憶を遠いものにしてくれるのだなと、そう思った。
「それはよかった。」
健一さんは穏やかに微笑んだ。そしてしばらくの間こちらをずっと見ていた。見つめていた、と言ったほうがいいかもしれない。数秒たっても数十秒たっても目を逸らさないので、私のほうも目を逸らすことが出来なかった。その間、周囲のざわめきだけが聞こえていた。部屋の隅の厨房でカラトリーがぶつかる音や、人々の話し声やそんなものが、まるで遠い場所から聞こえてくるようにくぐもって耳に入ってきた。私たち二人のまわりだけが、見えないベールになっていてその中だけが静かな空間になっているようだった。
「今ね、天使が通り過ぎたんだよ。」
「え?」
健一さんが何を言っているのかよく分からなかった。
「続いていた会話がふっと途切れて沈黙することを、天使が通り過ぎる、ってフランスでは言うらしいよ。」
「天使?」
私は健一さんがシュトーレンと一緒に送ってくれた葉書に印刷された、赤ちゃんのような天使を想像した。
「それって、天使って、キューピッドのことなのかしら。」
その赤ちゃんみたいな天使はキューピッドのことだと思っていた。
「うーん、どうかなあ。」
「違うの?」
「ほら天使と言ってもね、いろいろあってね、何だっけな、おじさんみたいな天使の出てくる映画もあったよね。人間に恋をする。」
私は見たことはなかったけれどドイツの白黒の映画を思い出した。
「ああ、そっか。そんな映画ありましたね。あれも天使なのね。そういうおじさんの天使が出てくる小説があったわ、そういえば。天使なのに見世物になっていて、ひどい扱いを受けて石とか投げられて。よれよれで。」
一瞬止まった空気はこんなくだらない会話ですぐに雰囲気が変わった。
「香織さんにもう一度会いたいなと思ったのは、まったく沈黙が気にならなかったからだと思う。あの時あなたは最悪の状態で、僕はコーヒーを引っ掛けるし、もしかしたら自殺してしまうんじゃないかって少しは思ったのもあるのだけれど、それよりも、そんな最悪な状態でいたのにも関わらず、なんかその中に何か惹かれるものがあったのかもしれない。それが何かはよく分からないけれど。」
健一さんは淡々と喋った。それはせりふとしてはかなり大胆なことを言っているように思えたけれど、あまりにも健一さんが普通に淡々と話すので、私はどう答えていいのか良く分からなかった。分からなかったけれど、それは嬉しいという気持ちに近かったのだと思う。
「じゃああの時は、天使が何十人も何百人も通りすぎたかしらね。」
「そうかな。」
「私あまり話しもしなかったし。むっつりとして。だからおじさんの天使がぞろぞろと。大行列。」
「なんでおじさんの天使だけなんだい。かわいい天使はいないのか。」
私たちは笑った。私は自分が会話をするのが不得意であるということを、こんなに肯定的に考えたことはなかった。だから私は、健一さんと話していてもあまり緊張しないのかもしれないと思った。そういう風に感じる人というのは珍しかった。
「昔そういえば、クリスマスのプレゼントにろうそく立てを貰ったことがあってね。ろうそくの熱でくるくると天使が回る仕掛けになっているの。天使が4,5人、矢を拭きながらくるくると回るの。そのおもちゃを見るとね、なんだかクリスマスだなあと思ったわ。ほんわかした気持ちになれたというか。それを今思い出した。もう忘れていたけれど。」
「そう。」
「私久しぶりになんだか楽しいクリスマスを過ごせたわ。健一さんのおかげで。」
私は本当にそう思った。気を使わずにこれだけリラックスして食事ができたのは、とても久しぶりなような気がした。
「またこうして会えるのかな。」
健一さんは私を見てさり気なくそう言った。私もさり気なく答えた。
「もちろん。健一さんがよければ喜んで。」
店を出ると寒さは一段と厳しくなっていたけれど、お酒も飲んでいたし食べたばかりなのでそれほど寒いとは思わなかった。なんとなく行きかう人は皆浮かれているように見えた。皆お洒落をして、パーティか何かに行ったり、人に会ったりプレゼントを交換したりしたんだろうと思うと、私は自分が少しはしゃいだ気分でいるのも不思議ではないと思った。
「今日はありがとうございました。」
「いえいえ。こちらこそ急なお誘いで申し訳なかったです。」
駅に着き改札の前まで来ると、なんとなくお互い言いたいことがあるような素振りで、少しの間沈黙が襲った。でもそれは心地のよい沈黙だった。私たちはもう、相手のことを少しは知っている。この間のように、連絡先も分からじまいということではない。
「メールしますね。というかメールしてもいいですか?」
私は言った。
「そうだね。」「そしてまた会おう。」
健一さんは短く言った。そしてお互いに「じゃあ。」と言って健一さんは東京方面に、私は私鉄乗り場に向かった。健一さんが私の乗り場まで送っていくと言ったけれども、私は大丈夫だからと断った。もう夜も遅かったし、それに私は暖かい気持ちに包まれていた。
私は振り返った。クリスマスの夜の人ごみの中に健一さんの後姿が見えた。健一さんがこちらを振り返った。お互いに微笑んだ。
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お疲れさまでした。すごく長かったですね。
書き始めたのが2007年10月だったのに驚きました。そんなに経ったのか、と。
最初と最後での主人公の成長?っていうのかな、香織が素敵な大人になったようなそんな感じがします。
出だしのお話の内容が内容なので、色のついていない情景を浮かべていましたが、旅行に出たあたりから色がついた情景に変わっていった、そんな感じがしました。
自分の話で申し訳ないですが、このお話が始まった当初から考えると、途中から全く逆に向かって変わりました。
途中で重ねてしまう部分があったりですごくなんて言っていいのか切ない気持ちになる時があったのですが、変な話ですが、このお話の中の香織だけでも幸せになってほしいな、とずっと思っていました。
とてもいいお話だっと思います。
タイトルもこういう意味だったんだ、とついネットで調べてしまいました。笑
あの、最後に一つ申し出があるのですが、素敵なお話だったのでリンクを貼らせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?もし都合が悪かったりしたらはっきり仰ってください。はい。
また気が向いたら書き続けてください。楽しみにしてます。
丁寧なコメントをありがとうございました。
自分でも結構長くなってしまって、途中どうしたらいいものかという時期もありました。でも、エリさんの言うとおり、明るさを感じさせる終わりかたをしたいと思いました。
最初は色が無かったのに途中から色がついていく、っていうのはとてもおもしろいなと思いました。自分でも気がつかない、そういう感想が聞けるのってとても幸せでそして嬉しかったです。
リンクは、喜んで!貼らせてください!ありがとうございます!
今度はいつアップするか分からないのですが、本当に感想のコメントはやる気を引き起こしてくれて嬉しいです。また覗いてみてくださいね。