その後の伊之助の仕事は、教室に出て二人のドイツ人教師のしゃべるのを口写しで通訳することであった。文体は、漢文崩しであった。新語については即座に造語し得たのは、この男の漢文の素養と、医学知識によるものであった。
ミュルレルはすでに五十歳を越えた温厚な人物で、その夫人はフランス人であった。
伊之助と初対面のとき、
「あなたはドイツのどこにおられましたか」
と、きいた。伊之助は日本から一度も離れたことがない、というと、ミュルレルは感嘆して、自分の妻はフランス人である、私と結婚して十一年になるが、あなたのように流暢には話せない、といった。
この時代が数年つづく。
伊之助の三十九年五ヵ月の生涯にとって、ほんの一時期ながら唯一の安定した時期であったろう。
かれの私塾のある練塀小路の春風社も繁盛した。ドイツ語が看板になり、かれの塾頭以下の共同作業で教科書や辞書(和訳独逸辞典)など何種かの本も出版された。
佐渡にのこした許嫁者の春江もよび、明治七年には長女綾がうまれた。
(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)
新政府は最初はイギリス医学をとりいれ、やがてドイツ医学に転換する。
医学校(東京大学医学部の前身)でドイツ人教師ミュルレル(Müller )とホフマン(Hoffmann)の通訳となった。
東校のドイツ語講義には、まだ和訳されていない用語が次々に現れる。伊之助はそれを聞いて即座に新しい日本語を造語する才能も備えていた。蛋白質(Eiweiss)、窒素(Stickstoff)、十二指腸(Zwölffingerdarm)など、基本的医学用語の多数は伊之助による急造日本語であった。
一方、東京下谷にひらいたドイツ語の私塾「春風社」も大繁盛した。