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初秋の佐渡を飛ぶ (8)

2011-10-24 | 関東


伊之助の異能と学殖にまず気づいたのは日本人医師よりも、ウィリスのほうであった。
「あなたは、ヨーロッパの医科大学で正規に医学を学んだのでしょう」
と、接触したその日に、ウィリスはいった。
「私は日本を離れたことはない」と伊之助が答えると、まずその英語が不審です、日本人で英語を解する者はきわめてまれだが、あなたはどこで学びました。ときいた。
「この大気のなかに英語が浮遊しています。それを吸ったにすぎません」
伊之助が大まじめでいうと、ウィリスは頭を振った。自分をからかっていると思ったらしい。
「医学のほうは?」
「長崎のポンぺ医学校で学んだのです」
といった瞬間から、ウィリスのほうの態度がかわった。かれは伊之助を同格の医局員として遇しはじめたのである。

ウィリスは日本の医学を英国式に一変させるべく精力的に準備し始めていた。むろんそれらの仕事にも、伊之助は通訳としてウィリスの片腕になっており、伊之助が怠けて来ない日は、人を練塀小路の春風社に走らせて引っぱり出したりした。伊之助は私塾の春風社でも、医学所でも英語の初歩を教えた。医学が英方になったというので、にわかに英語熱が高まり、春風社へ英語受講を指定してやってくる者が多く、むろん誇張された数字だが、「千人を越えた」といわれたりした。
とたんに伊之助は分限者になった。
かれの日常は多忙で、塾で教え、大病院・医学所でウィリスの通訳をし、日暮れになると、神田明神下や柳橋ヘ行って、芸者をあげた。良順の芸者遊びの癖を、伊之助は過度なかたちで相続したようであった。(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)






すでに明治になっている。
長崎から横浜へと、洋学の中心地が移り変わろうとしていた。
オランダ語が万能だった時代は終わり、英語、さらにフランス語、ドイツ語が重宝される時代がきていた。
伊之助はどの言葉も話すことができた。時代の波に乗ってゆく。
そして佐藤泰然のすすめもあり、新政府で働くようになった。


英国人医師ウイリアム・ウィリス は1863年に英国総領事館付医官として来日し、1877(明治十)年に帰国するまで、黎明期にあった日本の医療システム構築に多大の功績を残した。明治二年には東大医学部の前身である東京医学校兼大病院の院長に就任したが、一年弱でこの職を退き、のちに鹿児島大学医学部となる鹿児島医学校兼病院で治療の傍ら、忍耐強く臨床重視の医学教育確立と地域医療や公衆衛生の改善に貢献した。










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