明治新政府によるキリスト教弾圧は諸外国からの度重なる非難や抗議を招くことになり、内政干渉であると突っぱね続けていた政府も、1873(明治6)年3月、ついに屈服し江戸幕府以来の「キリシタン禁教令」が解かれることとなる。
禁教政策から解放され、信仰の自由を許されて、潜伏生活から教会へ復帰した信者たちの切なる願いは、天主堂を建てることであった。
潜伏していたキリシタンたちが、教会に復帰し、信者が増えていくにしたがい、多くの信者を収容できる建物が必要となった。
日本に派遣された神父たちの多くは、神学以外のさまざまな分野においても、高度の教育を受けてきた者たちであり、彼らの手により次々と天主堂が建設されていった。
明治の終わりから大正初期にかけて、九州各地は天主堂建設のラッシュを迎え、信者たちは天主堂完成の喜びにわいた。
その声を嬉しそうに聞いているひとりの男がいた。
その男こそ、天主堂の多くを手がけた棟梁その人であった。
名は、鉄川与助。
1879(明治12)年、五島列島、中通島・青方村に、大工の棟梁・鉄川与四郎の長男として生まれた。