船団は肥前の海岸を用心深くつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、少しずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島をもって、日本の国土は尽きるのである。この東シナ海に突き出た群島の島影をみたとき、ひとびとの疲労と緊張は尋常でなくなったであろう。狂うものも出た、と他の時代の遣唐使船の例にあるから、このときも発狂者が出て不思議ではない。
五島列島は五つの主島より成り、岩礁が多く、また島々をめぐっている潮流が早い。島陰を縫ってゆくのに操船が困難であったが、しかしこの島をもって、最終準備地にせざるをえなかった。この島を離れれば、あとは蒼茫たる大海がひろがるのみであり、四船ともどもいちずに神仏を祈念しつつ、突っ切ってゆかねばならない。運を得た船のみが、唐土の浜に漂着できるであろう。
〈司馬遼太郎著『空海の風景』より)
遣唐使は、630年から894年までの約260年間に、20回ほど計画され、そのうち15回、唐に渡ることができた。
遣唐使の目的は唐への朝貢と唐の文化の輸入であった。当時世界で最も繁栄していた唐から、最先端の知識や技術、文化などを取り入れるため、幾多の秀才や名僧が海を渡った。
『肥前国風土記』によれば、804年、第16次遣唐使船4隻が、五島列島の久賀島、田之浦港に寄泊後、唐に出発したと伝えられる。
そして、この船団の中には、当時31才の空海、38才の最澄が乗船していたのだという。
二人は大変な苦労をしながらも入唐し、帰国後、それぞれが五島各地を巡り、数多くの伝説を残した。