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五島列島を飛ぶ (6) - 久賀島

2010-07-19 | 九州

六坪の広さに二百余命ものキリシタンが押し込められた猿ヶ浦の牢は、悲惨を極めていた。最初の数日間は、ただ押しあって立ちつづけていたが、ともすると子供は眠ってずり落ち、親は引き上げようと苦労した。大人たちも立ちづめで脚が腫れ上がり、精根尽きて窒息死する者もでてきたため、板で仕切られた男女の牢にそれぞれ丸太を差し入れてもらって更に二つに仕切り、一方に隙なくぎっしりと人を詰め込み、もう一方の側に交代で座って休むことにした。しかし、便所すらない牢内の不潔さは一方で、衣服や髪には蚤虱がわき、土間には蛆がひろがって、体を伝いのぼって来る有様だった。拷問でうけて傷口に蛆がわき、生きながら肉を喰い破られる者も少なくなかった。老人や体の弱い者は次つぎに倒れ、稚いマリア・タキも熱病にかかって髪が抜け落ち、すっかり痩せ細っていた。もう立つことも出来ず、まるで影のように板壁にぐったりと寄りかかっていた。
(森禮子著『五島崩れ』より)




1867(慶応3)年に起きた「浦上四番崩れ」の後も、明治政府は、キリシタン禁制を続行。五島では翌年の明治元年1868(明治元)年9月、久賀島でキリシタン迫害が始まる。いわゆる「五島崩れ」である。
フランス人宣教師であるプティジャンの書簡には、この時の様子が次のように記されている。

「只今、数名の信者が腸を断つばかりの報告を齎して五島から参りました。南五島の小さな久賀島では、男女合わせて百九十名ほど一軒の牢屋に閉じ籠められ、背教を肯じない為に一ヶ月前から酸鼻見るに忍び難き責め苦を加えられています。すでに九名は非命の死を遂げ、他は長い長い死苦のうちに消え失すべき運命に置かれているのです」


牢内に囚われること8ケ月,一般信者はすぐ解放された が,指導的立場の信者が解放されたのは,それから2年余 後だった。
その間牢内で死亡した者39人,出牢後死亡した 者4人を数えた。
 

1969(昭和44)年,九州電力発電所の建物を利用し,殉教 者顕彰のための聖堂が創設された。その後1984(昭和59)年 記念聖堂が建立され,牢跡には殉教記念碑が建てられてい る。







About 100 kilometers west of Nagasaki Prefecture, Western coast of Kyushu, more than100 islands are floating in the eastern end of East China Sea. The group of these islands is called the Goto (five islands) Islands. It’s five main islands are Fukue , Hisaka , Naru , Wakamatsu , and Nakadori Island.

The Islands were a historically important center for transportation between Japan and mainland China, and served as the last stop for a ship carrying a Japanese envoy that crossed the sea on its way to Tang Dynasty China in 804.

The Goto Islands are also known as a place many inhabitants converted to Christianity before and during the Edo period (1603-1867) as a result of the efforts of European missionaries, so we can see numerous Catholic churches everywhere on the islands.