Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

大地の息吹 - 美しき丘の町 ・美瑛 (8)

2009-06-12 | 北海道
美瑛町の美しい景観が全国的に知られるようになったのは、1970年代。
日産スカイラインやマイルドセブンのテレビコマーシャルのロケ地として使われるようになり、少しずつ知られるようになった。
しかし、美瑛の美しさを今まで気付かなかった町民にまで深く印象付けたのは写真家の故・前田真三氏である。
商社勤務の後、写真活動に入った氏が1971年に約3カ月かけて行った鹿児島県佐多岬から北海道宗谷岬までの日本列島縦断撮影旅行の帰路で偶然出合ったのが美瑛・上富良野の丘であった。
以来、この地に通い続け、シャッターを押し続ける。

大陸交流の玄関 - 玄界灘・相島(あいのしま)

2009-06-11 | 九州
飛行機が福岡空港へ着陸体制をとる前に大きく左側に旋回するが、その時に真下に見える島が相島である。相島は玄界灘に浮かぶ周囲6.1キロメートル、人口430人の島。 新宮漁港から渡船で20分ほど。島は東西に長く「勾玉」の形を連想させる。島の南側に漁港、集落が開けている。
江戸時代、日本と唯一国交のあった朝鮮の通信使の定宿(客殿)が置かれた島だった。通信使は都合12回の往来しているが、うち11回相島に立ち寄り、黒田藩が饗応している。
古くは阿倍島と呼ばれることもあった。相島は、大陸、筑紫へ、あるいは唐津、長崎へ向かう船人が立ち寄ることもあった海上交通の要衝の島。島のあちこちに古跡が残る。

大地の息吹 - 美しき丘の町 ・美瑛 (7)

2009-06-11 | 北海道
十勝岳に源を発した川が美瑛の町を流れている。
松浦武四郎がはじめてこの地へ来て、その川の水を飲もうとすると、
アイヌ人が「ピイエ、ピイエ」と叫んで止めた。
ピイエとは、“油ぎった”という意味で、それは十勝岳に噴く硫黄が混じっていたからである。
開拓者がこれをなまって「ビエイ」と呼んでいた。
漢字の「美瑛」は、明治33年(1900年)神楽村から分村した時に、早崎悦太郎が村名を委任されて命名し、採用された。
その意味は「美しき玉のように清らか」という。

大地の息吹 - 美しき丘の町 ・美瑛 (6)

2009-06-10 | 北海道
美しく魅力的な「丘」の風景は、丘陵地帯に広がる畑が織り成す。
曲線的な美しさをつくり出すこの丘陵は、開拓以来、美瑛の農業者を苦しめ続けてきた。
傾斜が強い土地で農業を営むのは容易なことではない。生産条件が悪く、大型機械が入りにくい上に、機械を使用する上での危険度が非常に高い。かつては馬を使って耕作していたが、傾斜地を機械で耕すのはかなりの技術が必要だという。さらに、大雨などの水害がくれば土が流されてしまうなどの条件の悪さもある。農作業の効率が悪いということは、農業者の高齢化が進む中でも重大な問題となっている。

大地の息吹 - 美しき丘の町 ・美瑛 (5)

2009-06-09 | 北海道
光の変化、季節の推移とともに、刻々と移りかわる「丘」の風景は、農業そのものの姿だといえる。
視覚的に美しいと感じさせる幾何学的な畑の模様やライン、
整然と並んだ畝や作物は、機械化された農業の産物である。
美瑛の丘の風景は、決して自然が創った姿なのではなく、むしろ農業者たちが人工的に作り上げてきたもの。
そこには農業者たちの“日常”が深く関わっている。

大地の息吹 - 美しき丘の町 ・美瑛 (4)

2009-06-08 | 北海道
美瑛町は、明治27年、現在の旭地区へ兵庫県人小林直三郎が入植し、2年後の明治29年、和歌山県より、北海道開拓の壮大な夢と希望を抱き、田仲儀太郎を団長に熊野団体29戸が現在の美瑛町扇町付近に入植した。
当時の美瑛は、鬱蒼と生い茂る原生林であった。木を切り倒し小屋を建て、泥流地帯に悩まされながら開墾の鍬を下ろした。
故郷熊野との気候風土の違いなど、移住以来あらゆる苦難を乗り越え、励まし合い血と汗の上に現在の美瑛町が築かれた。


島原の三峰五岳 - 雲仙岳

2009-06-03 | 九州
長崎県の島原半島中央部にある火山、雲仙岳の最高峰・普賢岳は、1991年6月3日、午後4時8分、警戒していた警察、消防をはじめ報道関係者の前で大規模な火砕流が発生した。頂上の普賢岳から猛烈な煙と溶岩が噴出し、火砕流の中心は数百度の熱で森や建物、車などを灼熱地獄と化して下流まで巻き込んだ。
地元住民の避難生活は4年以上に及び、島原市を中心とした町は復興に膨大な時間がかかった
噴火によって盛り上がった溶岩ドームが平成新山(1486m)と命名され、雲仙山群の最高峰となる。
雲仙岳とは、普賢岳、国見岳、妙見岳の三峰、野岳、九千部岳、矢岳、高岩山、絹笠山の五岳からなる山体の総称で「三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれる。

開港150年 - 横浜港

2009-06-01 | 関東
横浜開港150周年記念式典が5月31日、横浜市西区のパシフィコ横浜で開かれた。一寒村から人口約366万人の大都市へと成長した横浜の足跡を振り返って節目の年を祝うとともに、新たな飛躍を誓い合った。
横浜港は、1854年の日米和親条約、1858年の日米修好通商条約の締結を経て、1859年6月2日に開港した。当初の貿易相手はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5ヵ国。横浜と同時に長崎と函館が、その後、新潟と神戸も開港を迎えた。
横浜では、開港1周年にあたる1860年6月2日に、山車や手踊りで開港を祝ったのが開港記念日のはじまりと言われている。1909年には、開港50年祭を開催し、記念事業として横浜市開港記念会館を建設。1959年に、開港100年祭を開催し、マリンタワーや市庁舎、市民病院などが建設された。6月2日は横浜開港記念日として市が定める祝日となり、1981年に横浜国際デー「プレ横浜どんたく」という名称で横浜の開港を祝う祭りを実施したのが「横浜開港祭」のはじまりである。