すなわち、一揆に立ち上がるしばらく前に、四郎が居所であった大矢野島で公然と道場をひらいて説法をはじめた。その名と存在が天童、あるいは善か人、天使として知られはじめると天草本島の上津浦に迎えられ、ある豪農の家へ入った。四郎はこんたつ(念珠)をまさぐりながら、
「お前たちはまことにあわれなものじゃ。いま吉利支丹はきびしい禁圧に息をひそめておるが、世の人を救うものはこの教えのほかはなかとじゃ。天主にあるあわれみを乞うことを知らぬものは、近く肥前肥後一円に大事が起こる、その際にはたちどころにいのちをうしなうであろうぞ。ただ一心に天主を奉ずるもののみが、このわざわいからまぬがれることが出来るのじゃ・・・」
とこう言うと、しばらく天を仰いで祈りをつづけた。
と、どこからともなく一羽の鳩が飛び下りてきて四郎の掌にとまった、あれよあれよと思うままに、この鳩が色あざやかな卵をうみ、四郎が静かにこの卵をとって二つに割ると、中からでうすさまを描いた画像と南蛮文字でしるした吉利支丹の経巻があらわれた。鳩は羽音も高く四郎のまわりを三回四回まわったが、やがてふたたび空高く飛び去って行った。
それを目撃した天草の男女数百人は声をあわせて信徒となることを誓い、四郎の前に平伏した―というのである。
(堀田善衛著『海鳴りの底から』より)
天草四郎時貞
本名は益田四郎。洗礼名は「ジェロニモ」または「フランシスコ」。
「天草・島原の乱」の総大将・天草四郎時貞は、元和7年、肥後国南半国のキリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の家臣・益田甚兵衛と同じく天草大矢野出身のマルタ(洗礼名)の間に長男として生まれた。
生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗。また、経済的に恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようである。さまざまな奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いたなど)を起こした伝説がある。
当時の天草・島原地方は、飢きんや重税とキリシタン弾圧に苦しみ、民衆の不満は頂点に達してた。その不満を抑えていたのが、マルコス神父が追放される時残した予言であることはすでにふれた。予言にある25年目の寛永14年(1637)、長崎留学から帰った四郎が様々な奇跡を起こし、神の子の再来と噂された。四郎の熱心な説教は人々の心をとらえ、評判は天草・島原一帯に広まり、遂には一揆の総大将に押し立てられるのである