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春の九州を飛ぶ (8) - 切支丹の里・島原半島

2012-05-20 | 九州


7人の信徒たちは、12月2日の夕方、長崎から小浜の港に着くと、終日、山に登らされた。
山にはいくつかの小屋があった。その夜,足かせと手錠をかけられたまま入れられた。
そして夜の明けるのを待った。12月5日、拷問が始まった。一人づつ煮え返る池の岸に連れて行かれ沸き立つ湯の飛沫を見せられ、信仰を捨てるように命じられた。
大気は冷たく池からは濛濛と熱湯が湧き立ち、神の助けがなければ、見ただけで気を失うほどであった。全員は、拷問にかけよ、自分たちは信仰を捨てぬ、と叫んだ。
警吏はこの答えをきくと、囚人の着物をぬがせ、両手、両足を縛って、4人で押さえた。
それから四分の一リットルくらい入る柄杓で沸き立つ湯をすくい、それをゆっくりと3杯ほど各人の上に注いだ。7人の信徒のうち、マリアとよぶ娘が苦痛のため気を失って倒れた。
33日の間、彼等はこの山で各々、6回このような拷問を受けたのである。
(遠藤周作著『切支丹の里』より)





九州征伐を終えた秀吉は、にわかに「伴天連追放令」を発布し、宣教師たちの布教を禁じて国外に退去することを命じが、ポルトガルとの貿易を妨げるものではなかった。
しかし秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した家康へと政治の主導権が移ると、当初、キリスト教の布教に寛大だった徳川幕府は、布教を条件とするポルトガルとの貿易に不信感を持ち、増え続ける日本のキリシタンに脅威を抱くようになった。特に、西日本に増えるキリシタンが豊臣方の残党勢力と結束するのを恐れ、ついに幕府は1614(慶長17)年、「禁教令」を発布。全国で厳しいキリシタン摘発が始まった。


1627(寛永4)年、島原の内堀作右衛門以下16名が捕らえられ、雲仙地獄におくられた。そして「地獄責め」といわれる硫黄が煮えたぎる温泉の熱湯をかけられ殉教。翌年、中島修道士ら3人が殉教した。長崎奉行竹中采女正重義(たけなかうねめのしょうしげよし)は雲仙で長崎のキリシタンを引き連れて背中に熱湯をそそぎ棄教を迫るが、64名のキリシタンはひとりも棄教しなかったと伝えられる。

この残酷な刑を考えたのが島原藩主・松倉重政だった。家康は松倉重政を自己の利益ためには獰猛なほど勇猛心を発揮する人物だと見抜いており、禁教令を島原で進めるためには松倉重政ほど恰好な人物はいないと見ていたのだ。

キリシタン信徒への雲仙地獄責めは「山入り」と呼ばれ、「温泉(雲仙)岳での拷問」を意味していた。この「山入り」は5年間続いたといわれる。


現在、源泉地の一角には、地獄を見下ろすように十字架の形をしたキリシタン殉教碑が建っており、今も献花が絶えない

毎年5月の第3日曜日(本日)、長崎大司教区主催による雲仙殉教祭が開催され、雲仙教会からお糸地獄までの巡礼が行われている。











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