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Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

初秋の佐渡を飛ぶ (1)

2011-10-02 | 関東



佐渡は、越後からみれば波の上にある。

「佐渡は波の上だ」
と、伊之助は幼いころからきかされていたが、波の上なら舟のように揺れるはずなのにどうして揺れないのかとふしぎにおもった。

十歳をすぎるころ、波の上に井戸があってたまるものか、と思うようになった。伊之助の家には、この新町でも自慢の井戸があって、海ぎわながら、塩気のない水が湧く。
彼の故郷の新町は、真野の海に面している。大きく湾入したこの入り江には白砂と青松でふちどられ、北からかぞえれば、雪の高浜、長石の浜、恋が浦、越ノ長浜などといった美しい浜がつらなり、彼の在所である新町は、恋が浦にもっとも近い。








司馬遼太郎著『胡蝶の夢』は、幕末から明治にかけて封建社会の中で近代医学の導入に情熱を燃やした若者たちの群像劇である。

西洋の医学教育を長崎で導入したオランダ軍医ポンペについて学び、当時の日本人としてはもっとも本格的な西洋医学を修めた松本良順(長崎大学医学部の創設者)、佐倉順天堂を経て、良順とともにポンぺの下で西洋医学を学んだ後、30数年におよぶ医師としての地位・名誉を投げ捨て、73歳で北海道開拓に命を懸けた関寛斎。

そしてもう一人、その中で、ひときわ異彩を放つのが、佐渡出身の島倉伊之助(後の司馬凌海)である。








春隣、列島を横断する - (5)

2011-04-03 | 関東


神奈川県の西部、足柄平野のほぼ中央部を流れる酒匂川は、古くから、洪水が頻発する“暴れ川”として知られてきた。

1707年(宝永4年)、富士山の大噴火(宝永噴火)で酒匂川の川底が埋まり、1711年には大決壊し、足柄平野の人家・水田を押し流してしまった。

小田原藩主、大久保氏は、自力復興は不可能とし、この領地を幕府に返還した。

そこで幕府は当時南町奉行として名高かった大岡越前守に酒匂川を復興するように命じた。越前守は、この大任を川崎宿の名主・問屋役の田中休隅(たなか・きゅうぐ)に頼んだ。当地の代官・蓑笠之助の義父にも当たる。


丘隅は1726(享保11)2月、工事にかかる。
大口橋の北に200mの岩流瀬堤(西堤)をつくり、水流をローム層の赤岩に打ちつけ流れを弱めたあと、大口堤(東堤)180mをつくり、流れを東方に誘導した。この年の5月には完成した。

昔、中国の禹という国の皇帝は、黄河の洪水に悩まされ、一生をかけて治水工事に尽力した。皇帝は、功績を称えられ「文命」という称号を得た。丘偶はこの伝説から大口堤を「文命堤」と名づけた。

丘偶は工事現場に僧を呼んで読経させ、築堤用の蛇籠には石とともに経文一巻ずつを入れさせたという。
丘隅は堤の完成に当たり、「今後、堤に来るときは、必ず石を一個ずつ持ち、堤には木を植えるように」とさとしているが、その心は今も生きている。

この堤で救われた開成町には、町立文命中学校の名も残っている。









春隣、列島を横断する - (4)

2011-03-23 | 関東



古来より幾度も噴火を繰り返し、宝永噴火(1707年)を最後に、現在の美しい富士山が形成された。


その景観の美しさとは裏腹に、先人達にとって度重なる富士山の噴火は脅威であり、これを鎮めるために富士山をご神体として浅間大神(あさまのおおかみ)を祀ったのが、浅間信仰の始まりである。

静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社は全国に1300あまりある浅間神社の総本宮である。この浅間信仰が修験道・富士講へ繋がっていく。また各地に見られる富士塚もその名残である。


頂上には、富士宮口側に頂上浅間大社奥宮、吉田口側に奥宮の末社である東北奥宮久須志神社がある。




ところで、富士山は、以前は「浅間山」と呼ばれていたという。

「あさま」とは、アイヌのことばで、九州の阿蘇(あそ)、青森の浅虫(あさむし)温泉、伊豆の熱海(あたみ)などと同じ語源といわれる。「あさ」とか「あそ」は火山を意味することばであったのだ。







In the days when it was emitting smoke and flame, Mt. Fuji posed a threat to those who lived around it.

Prayers for it to subside evolved gradually into religious belief.

This is the origin of the present Fujisan Hongu Sengen Taisha shrine, located in Fujinomiya, Shizuoka prefecture, head of the approximately 1300 Asama shrines found all over Japan.

The Edo period, from the 17th to the 19th centuries, saw the formation of ‘Fuji congregations’ who would climb in groups that eventually grew into huge‘808 congregations.



The original meaning of the word “Asama” appears to be connected with volcanoes or volcanic eruptions.






春隣、列島を横断する - (3)

2011-03-19 | 関東

富士山。


その山容の美しさから、日本一の山と讃えられてきた。


しかし、その一方で、古来より噴火の猛威をふるう火山として恐れられてきた。

噴火と地震による甚大な被害は過去何度も起こっている。

度々繰り返される噴火を鎮めるために、浅間大神を祀ったのが、「浅間信仰」の始まりとされる。







有史以来、さまざまな災害を経験してきた人類だが、この自然の猛威に対して、なす術はない。










Mt. Fuji is the highest mountain in Japan.

With its perfect conic shape, standing independently from other line of mountains, it deserves to be called the most beautiful mountain in Japan.

To one's surprise, the beautiful conic shape was formed after repeated eruptions, and it is indeed an active volcano.

The Asama belief in worshipping Mt. Fuji from afar to appease the wrath of its eruptions arose at the beginning of the Heian period. By at the end of the Heian, these beliefs included climbing Mt. Fuji for ascetic practices.




Mt. Fuji continues its erosion and rebuilding, while people admire the beauty of the mountain today. We should not forget, however, that the shape of the beautiful Mt. Fuji is just a phase of the continually changing flux of nature.




Volcanoes, earthquakes, and tsunami are natural disasters that destroy lives and property and leave us human at the mercy of nature.





春隣、列島を横断する - (2)

2011-03-08 | 関東

箱根の山並みが朝もやの中に浮かびあがる。

箱根山は、神奈川県と静岡県にまたがる火山の総称である。
箱根火山は、直径約11kmのカルデラで特徴づけられる複式火山として知られており、この火山活動は今から約40万年前に始まり現在まで続いている。

標高1438メートルの最高峰をなす神山や駒ヶ岳などの中央火口丘、火口原にある仙石原、芦ノ湖、大涌谷などがあり、温泉が多い。


箱根山は古くから東海道が通り、交通の要衝であった。特に江戸時代には箱根関所が置かれ、厳しい取締りの拠点となった。




I had a hazy view of the Hakone mountains.

They are volcanic mountains that lie between Kanagawa and Shizuoka Prefecture.
Hakone mountains are characterized by a caldera of 11 km in diameter. The Lake Ashi is a caldera lake formed in the western part of the caldera, and the local Sengokubara area covers a flat expanse of land on the caldera floor.

The caldera developed gradually through two periods of intensive eruption that took place approximately 400,000 years ago. The Kamiyama and Komagatake mountains are volcanic editices that developed at the center of the caldera central cones, and Owakudani is located on the northern flank of Mount Kamiyama.


Hakone is also known for the most difficult passage of the Tokaido.
The Tokugawa Shogunate set up the checkpoint at the top of Mount Hakone and questioned travelers relentlessly in the Edo period.




春隣、列島を横断する - (1)

2011-03-05 | 関東

朝陽に輝く相模の海。

雲間に見える島影は伊豆大島。



神奈川県の三浦半島と真鶴半島とを結んだ線よりも北側の海域を相模湾、その南側を相模灘という。
この海域では、黒潮と深海からの栄養素が多種多様な生態系を作り上げている。




Sagami Bay lies south of Kanagawa Prefecture in central Japan, bounded by the Miura Peninsula to the east and by the northern half of the Izu Peninsula to the west. To the south the bay opens far out into the ocean; and the Shonan coastline to the north, while the island of Oshima marks the southern extent of the bay. Major cities on the bay include Manazuru, Odawara, Hiratsuka, and Kamakura.

A branch of the warm "Kuroshio" (Black Current) which flows eastward between Oshima Island and the south of the Izu Peninsula, comes into the bay during certain season of the year. Under such local conditions, the water abounds in all sorts of marine fauna and flora. The maximum depth of the bay is about 1500 meters.


晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (3) - 津久井湖・城山湖

2010-05-09 | 関東


「御覧なさい、下の方はもう日がかげって来た。朝は十時にならなくては日が当らないし、午後は三時になるともう山の向こうに日が落ちてしまう。一日にたった五時間しか日が当らない。僕は自分ひとりでこの村に“日蔭の村”という名をつけているんです。この名前には別の象徴的な意味もあるんです。つまり東京という大都市が発展して行く、すると大木の日蔭にある草が枯れて行くように小河内は発展する東京の犠牲になって枯れて行くのです。山の日蔭にある間はまだよかった。都会の日蔭になってしまうともう駄目なんです」
(石川達三著『日蔭の村』より)




戦後も、経済の高度成長により京浜工業地帯を中心とする都市は発展、膨張し、神奈川県では「相模川河水統制事業」は続いた。
1965(昭和40)年3月、県と横浜、川崎、横須賀の三市により津久井町荒川と城山町水源地区との間に、県下で4番目の「城山ダム」が完成した。

1953(昭和28)年に調査が始められてから、地元住民との長い補償交渉の後、1962(昭和37)年に工事が始められた。

城山ダムの完成によりできた人造湖が、「津久井湖」である。
相模湖とほぼ同じ規模をもつ。

このダム建設のかげには、奥多摩湖や相模湖と同じように、住み慣れた我が家を湖底に沈め、先祖伝来の土地を離れた人々がいた。
津久井町荒川(116世帯)、不津倉(27世帯)、三井(45世帯)、三ヶ木(8世帯)、川坂(7世帯)、相模湖町沼本(41世帯)、城山町中沢(36世帯)や小倉(5世帯)の人々で水没家屋は全部で285世帯、約1400人の人々である。

代替地は、津久井町中野、相模原市相原、二本松、磯部、城山町、八王子などで、中でも二本松地区には132世帯が移動した。



上空から、山間に静かに水を湛えた湖を目にすると、このように湖底に沈んでいった村々の歴史が頭をよぎって行く。



晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (2) - 相模湖

2010-05-05 | 関東

1937(昭和12)年、石川達三は小説『日蔭の村』を発表し、水没する小河内村の村民たちの6年間に及ぶ辛苦の日々を描いた。

同年、帝国議会が召集され「臨時資金調達法」や「輸出入品等臨時措置法」など軍需産業優先に向けた経済統制立法が制定された。そして「国民精神総動員法」や朝鮮人に対して「皇国臣民の誓詞」も配布され、全てが聖戦の遂行に向け動き始めた。

このような状況の下、神奈川県では軍需工場が集中する横浜や川崎に向け、水や電力を安定的に供給するため「相模川河水統制事業」が始まり、旧津久井郡の相模川本流に「相模ダム」の建設が決定した。

建設に伴い196戸が水没することから水没住民より強固な反対運動が持ち上がった。
しかし日中戦争勃発後、戦時体制へ突き進む陸軍と海軍は、海軍艦艇建造の要である横須賀海軍工廠や軍需産業が密集する京浜工業地帯への電力・用水供給を急いでいた。このため反対住民に対し荒木貞夫などが旧津久井郡藤野町へ出兵して陸軍閲兵式を行い、反対する住民に対して示威行為を以って強力な圧力をかけた。

このようにダム建設は1940(昭和15)年、有無を言わせず本体工事を着工させた。
のべ360万人がダム工事のために働き、その3分の1が朝鮮の出身者であった。他に捕虜として強制連行され、働かされた中国人が287人いた。そして日本人を含め、83名の犠牲者を出し1947(昭和22)年に完成した。

水没住民は、住み慣れたふるさとを離れ、高座郡海老名村や東京都下日野村等に移住した。



ダム湖となった相模湖は、総貯水量6300万トン。戦後一貫して、京浜工業地帯の貴重な水源、電源として、また東京圏のスポーツ・レクリエーションの場としての役割を担ってきた。現在も神奈川県の16%の水を供給する「水がめ」であり、休日には多数の観光客が訪れている。

湖畔の相模湖公園内にある湖銘碑にはダム建設で犠牲となった人々の氏名が日本語、ハングル、中国語で記されている。




晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (1) - 奥多摩湖

2010-05-03 | 関東



東京から多摩川の渓流を遠く遡って、御岳、氷川を過ぎ鳩ノ巣、数馬、水根峡の奇勝を過ぎると、たたなわる山また山の谷あいのが渓流の岸の断崖の上に点々と危うげな小舎をつらねている。百尺に近いその崖の下には青い淵が静かに泡を浮かべて雲の影を映しているか、または湧きたつ早瀬が岸をかんで滔々と鳴りながら、深い山襞の底をめぐりめぐって真白い曲線を描いている。この山峡のにいては富士も見えず、雲取も大菩薩も望むべくもないが、笠山、前山、後山、その他名も知れぬ傾斜の急な山々が高く四方をかこみ、三頭山の頂きも遠く見えて、黒々と茂った杉や檜の多摩川水源林の間々に六月の緑の雑木林が点々と明るく、甲州に通ずる崖の上の道をハイキングの学生達が前かがみになって、物も言わずに歩いて行く姿を時おり見かけるのが、東京があまり遠くないことを証明する唯一の風景である。
(石川達三著『日蔭の村』より)




5月、まばゆい新緑が山腹を鮮やかに染める。

ここは、首都圏のオアシスとして親しまれている奥多摩湖。
多摩川上流部を小河内(おごうち)ダムによって堰き止めてできた人造湖である。周囲約45km、水道用湖としては日本一の大きさを誇る。
東京都の貴重な水源で、総貯水量1億8000万トン、都民の利用する水の約2割を供給している。


東京市(当時)が将来の人口増加に備え、小河内ダム建設を決めたのは昭和7年。

ほぼ全体が水没する旧小河内村では建設反対の声が高まったが、当時の村長が建設を了承し、村民を説得したという。

村人は将来に不安を感じ仕事が手に付かない。その上、東京市の態度が二転三転し、補償金をもらって村を出るまでに6年もの歳月がかかる。
村人は生活の方向を見失い、山林や田畑は荒れ、借金がかさむ一方。さらに、そこへつけ込んだブローカーが暗躍した。
また反対住民と警察隊が衝突し、流血事件になったともいう。

ダムは32年11月、完成。旧小河内村の集落はほぼ水没し、同村と山梨県小菅村、丹波山村の計945世帯が湖周辺の高台や山梨県の八ケ岳山麓などへ移転。建設工事では87人が殉職した。

作家・石川達三は、1937(昭和12)年から、村々を訪ね歩き、その歴史を『日蔭の村』という小説にした。

ダム建設で、一つの集落が国や自治体に翻弄され、東京の日蔭となって苦悩する村民の姿が克明に描かれている。






都市を眺める (10) - 東京港

2010-04-27 | 関東

1930(昭和5)年には、鉄道省の依頼で外国向けの観光キャンペーン「Beautiful Japan」の初三郎のポスターは、鉄道省が観光による外貨獲得という当時の国策に沿って、世界に向けて日本を紹介したもので、この後「フジヤマ・ゲイシャガール」として日本の対外イメージの一つとなる。このポスターの強い印象が、欧米での日本のイメージを形作ったと言われる。

初三郎は、日本全国各地を歩き回り、満州・朝鮮・台湾などの外地まで描いている。
しかし、1937(昭和12)年の日中戦争勃発以後、地図が軍事機密であるということで、活動が制限されるようになった。

戦後は広島の原爆の被災者から話を聞き、悲惨さを伝える絵を描いた。その際の二次被曝が晩年の体に影響したという説もある。

初三郎の生涯をたどると、近代日本の商業芸術のパイオニア、そんな人間像が浮かび上がる。当時は美術家から一段低く見られがちだった商業美術の世界で、因習にとらわれず観光振興の波に乗り、次々と新しい試みを打ち出した。

1955(昭和30)年
71歳で死去。

今、初三郎は、京都市山科のJR東海道本線を臨む墓地に眠っている。




都市を眺める (7) - 金沢八景

2010-04-17 | 関東


浮世絵は、奥行きの乏しい平面的な画法で描かれたものが主流であったが、西洋画の遠近法を取り入れることで、日本独自の風景画が生まれた。
人物画の背景だった風景が、主体性を持ち風景画として独立し、江戸文化の重要な一形式になったのは、葛飾北斎の功績が大きく、そして歌川広重で完成した。

また、鍬形斎や幕末から明治の前半に活躍した五雲亭貞秀らは、主に景勝地を、鳥瞰図法を用いて緻密に描いた。

そして、大正から昭和にかけて、この江戸風景画から学び、乗り越えようとした絵師がいた。

「大正の広重」こと吉田初三郎である。

北斎、広重は、風景画を描く視線を庶民の眼の高さに置いて、庶民生活や旅情をテーマにし、豊かな自然や「名所」を描いた。いわば日常の一こまが対象であり、それを表す視点は“人の眼”の高さだった。

これに対し初三郎は、工業化が進展する大正から昭和にかけて、拡大する鉄道や船舶等の商業資本から依頼を受け、対象になる「観光地」を描いた。
このため、庶民の新たな眼の高さを模索した。この結果、江戸風景画のテーマとは大きく異なり、自然と、鉄道や船舶等の人工物の調和から生みだされる観光地の新たな魅力をテーマにした。

このテーマに基づき“鳥の眼”の高さから眺めながら、広大な地域全体を把握できる独自の図法をあみだした。

吉田初三郎は、北斎から広重で完成した江戸風景画の型を破ったのである。






画面、金沢八景(横浜市金沢区)は、江戸時代、水戸藩主徳川光圀が招いた明の僧・心越禅師が、能見堂(現在の能見台)から見た景色を故郷の瀟湘八景になぞらえて漢詩にして詠み、八景(瀬戸、釜利谷、寺前、州崎、屏風ヶ浦、野島、称名寺等)として「金沢八景」と命名したことが由来となっている。

浮世絵師・歌川広重の『金沢八景』は、彼の代表作の一つであり、その他多くの浮世絵師が名所絵として描いたことで広く知られるようになった。

一帯は風光明媚な入り江が続く景勝地であったが、近年都市開発の余波を受け、湾岸は、ことごとく埋め立てられたため、往事の面影を偲ぶことは難しい。




都市を眺める (5) - 横浜

2010-04-13 | 関東


五雲亭貞秀が、鳥瞰図らしきものを描き始めたのは20歳代のこと、本格的に製作を始めたのは30歳代に入ってからだといわれる。

そして、嘉永6年(1853)には「御江戸図説集覧」という江戸古地図の集成本を出したのが地図の最初という。
その後、日本図、世界図、国絵図などを、さらには、前述のような横浜開港当時の鳥瞰図を多く製作する。
いずれも、絵の美しさとともに優れた景観描写を兼ね備えたもので、当時の地理的情報が満ち溢れているのが特徴である。

このことから、五雲亭貞秀の作品は地理学者からも高い評価を得た。


低空から高空から、真上から、そして果てしない広がりなど、視点の豊富さなどから「空飛ぶ絵師」と称される。

1.8メートルの大作「御開港横浜之全図」、東海道を鳥の目で眺望した全長31メートルにもなる「東海道五十三駅勝景」、視点を富士山の真上におくという大胆なアングルの「富士山真景全図」などが有名。



自らを「大正の広重」と称した鳥瞰図師吉田初三郎は、彼の影響を強く受けて、さまざまな鳥の眼を駆使した絵師となった。



都市を眺める (4) - 横浜

2010-04-12 | 関東


今から150年前の1859(安政6)年7月1日、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスとの修好通商条約により、横浜は開港した。

開港後の横浜には、第一線で活躍する浮世絵師たちが多数訪れ、多くの作品を残した。

なかでも、五雲亭貞秀(ごうんてい・さだひで)は、横浜浮世絵の代表的な作者といわれている。

貞秀は、下総国布佐(現千葉県我孫子市)の生まれで、本名を橋本兼次郎という。
若くして浮世絵師歌川国貞に入門した。玉蘭、玉蘭斎、五雲亭、貞秀などと号した浮世絵師であった。浮世絵師としての五雲亭貞秀は、美人画、武者絵などを数多く残している。

貞秀は、「橋本玉蘭斎」という名の“地図作家”というもう一つの顔を持ち、地理学と地図の知識を駆使した風景画的な鳥撤図を最も得意とした。

それは江戸時代における地図発達と絵画美術とが融合したものであった。
特に幕末、開港した横浜の鳥瞰図と居留する外国人、外国風俗・文物を題材とした浮世絵を多く残している。


都市を眺める (3) - 東京・新宿

2010-04-10 | 関東


斎は、肉筆画、錦絵、版本の挿絵など、さまざまなジャンルにおいて、膨大な作品量を手がけた。

その代表作として、様々な身分の人たちが生き生きと働く様を軽妙に描いた『近世職人尽絵詞』や、人物や動物、草花などを簡略な筆致で描いた絵手本である『略画式』などを挙げることができる。

斎と同時代に活躍した著名な浮世絵師に、葛飾北斎(1760~1849)がいるが、世界的に知られる北斎の代表作『北斎漫画』は、実は斎の『略画式』の影響を受けていると言われている。

斎と北斎。二人はほぼ同時代に活躍した絵師であるが、その作風は対象的だ。
北斎の絵が『富嶽三十六景』に代表されるように、想像性豊かで力強く躍動的であるのに対し、斎の作風の特徴は、軽妙洒脱であるといわれている。

「形によらず精神を写す。形たくまず、略せるを以て略画式と題す」

とその序文の中にもあるように、これこそが斎の略画の本質を言い表していると言ってもいいだろう。

強烈な印象を与える力強い北斎に対し、洗練された軽妙な印象を与える都会的な斎。
北斎が地方の大衆の人気を博したのに対し、斎はおもに都会人に評価された。

「北斎嫌いの斎好き」という言葉があるが、これは斎に対する“江戸っ子”の親近感を
あらわしたものといえる。