つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

川の流れと時の流れ。

2015年11月01日 13時08分19秒 | これは昭和と言えるだろう。
変化に気付いたのは、まず「音」だった。

ちょうど一週間前の朝、町の中心部を散歩中に絶え間ない水音を耳にした。
「おやっ?」と思い川面へ視線を向けると、
普段は淀んで動かない川の水が、かなりのスピードで流れているではないか。
水位はみるみるうちに低くなり、およそ1時間後には底が露呈。
今現在も同じ状態が続いている。
 
洪水の心配があったとは思えないから、護岸調査や補修工事の為か?
水量変化の理由は定かではないが、原因は明らかである。
「川尻水門」が開いたのだ。
今朝、訪問してみたら案の定…。
 

新・川尻水門の工事は、昭和37年(1962年)に始まり、昭和41年(1966年)に完了した。
鉄筋コンクリート製で、全長48メートル。
電動と手動により上げ下げできる12メートル幅のローラーゲート堰を3つ備えている。

この水門完成と同じ頃、昭和30年代~40年代半ばにかけ、河北潟の干拓事業が本格化。
度々氾濫を繰り返していた津幡川の護岸改修・直線化工事も進み、
川尻の「水郷風景」は姿を消した。
…以下、展覧会「津幡の風景今昔」パンフレットからは貴重な画像を。
「津幡町史」からは解説文を引用し、往時の姿を偲びたい。

<鉄道もトラックもない時代の物資交流は非常に限られたものであったろうが、
 河北潟と津幡川が水運に利用されて、地域の産業や生活に役立ったことが想像できる。
 明治二十六年(一八九三)頃の最盛期には、五〇石船一〇艘、二五石船数艘、
 一〇石船二~三十艘が津幡川にあったといわれている。
 米・薪炭を運び出し、土石・石灰・魚粕・食料品・建築資材などが運び込まれた。
 対岸の漁獲物も川尻に揚陸され、小港の賑わいを呈した。(中略)>
 
<耕地整理前、川尻の田には、頭なし・三番川・梅川・百石川と呼ばれる小川が潟に通じ、
 田の作業に小舟が用いられた。 
 明治四十三年(一九一〇)から、昭和初期にかけて行われた耕地整理の大工事の結果、
 一号から十五号までの「稲とり川」が掘られ、どの田の稲も舟を利用して運ばれるようになり、
 殆どの耕作家庭が「稲取り舟」を持つようになった。
 水閘下流の両がわに舟小屋が並んで、特異な水郷風景が現出した。>
 
<昭和三十七年以来、津幡川改修工事、圃場底あげ工事が行われた結果、
 稲取り川も稲取り舟も跡形もなく姿を消した。>
(※<  >内、津幡町史649ページより引用。原文ママ。但し「  」加筆)

叶うなら、60年前へ行って見てみたいものだが、
時の流れを治める事など誰にも出来はしないのである。
コメント
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