「冒頭の一枚」は、今朝撮影した津幡町役場。
これを選んだ理由は、町が管理するWeb版「津幡町観光ガイド」について、
紹介しようと考えたからだ。
先月末・2012年3月28日にリニューアルされたと、
町のHPヘッドラインに掲載してある。
拝見すると、なかなかの充実ぶり。
町内の観光資源について、エリア別、ジャンル別に検索ができ、
年間の主なイベントや、目的別のおすすめコース案内。
観光パンフレット、観光マップのダウンロードも出来る。
機能としては、同種の一般的なサイトと大差はないが、
以前の状態と比べると、紹介の範囲が広がり詳しくなり、使いやすくなった。
例えば、津幡小学校グラウンド敷地内に隣接する2つの記念碑について、
次のような記述が掲載されている。
『かつて津幡城がそびえていた、旧北陸道を見下ろす
標高15メートルの小高い大西山に、
俳人河合見風(かわい・けんぷう)の句碑が建っています。
その隣には、見風自身が尽力した歌人の「為広(ためひろ)塚」も
建っています。
見風は1711(正徳元)年に津幡宿の商家に生まれ、
名前は河合屋理右衛門(かわいや・りうえもん)といいました。
34歳で家業の旅籠(はたご)と米屋 を営み、
居村(いむら)組合頭を勤め、その傍ら、俳諧(はいかい)を学び、
人々から「俳諧の長者」と称えられていました。
また、諸国の俳人と広く文通し、 金沢の並木町に庵室を構え、
加賀八家(かがはっか)前田土佐守直躬(まえだ・とさのかみなおみ)と
親交を持ちました。
見風は倶利伽羅山の猿ヶ馬場(さるがばば)にある芭蕉の句碑
「寝覚塚(ねざめづか)」や越中氷見の「有磯塚(ありそづか)」を建て、
1765(明和2)年には為広の子孫、冷泉為村(れいぜい・ためむら)と
前田土佐守直躬とともに「為広塚」を再建しました。
1783(天明3)年に73歳でその生涯を閉じた見風を偲(しの)んで、
1967(昭和42)年4月に、津幡俳壇によって句碑が建てられました。
句碑には「はつなすび それから花の さかりかな 見風」が
刻まれています。
見風の屋敷はかつての津幡宿だったおやど橋の近くにありましたが、
その屋敷跡には現在、酒井家所蔵の「長寿庵」が建っています。
加賀八家:加賀藩の家老で、1686(貞享3)年、
5代藩主前田綱紀の時、藩の職制改革の際に定められた。
江戸時代を通じて世襲し、加賀藩の執政を務めた。』
『旧北陸道を見下ろす津幡城跡に建つ
河合見風(かわい・けんぷう)句碑の隣に、
為広(ためひろ)塚が建っています。
為広塚は元々、津幡城跡の東麓にある清水八幡神社境内に
隣接してありましたが、
1963(昭和43)年に周囲の環境変化により現在地に移転されました。
為広塚は、入道前大納言贈一品冷泉
(にゅうどうさきのだいなごん・ぞういっぽん・れいぜい)為広卿の塚です。
為広は京都冷泉家(藤原道長の6男長家に始まり、
平安時代末期から鎌倉時代の代表的歌人俊成、
定家を先祖に持つ和歌の名門)5代為冨卿の長男として生まれ、
義竹軒(ぎちくけん)と号し、定家流(ていかりゅう)の書で知られています。
当時、京都では細川氏が勢力を伸ばし、1508(永正5)年に
将軍足利義澄(あしかが・よしずみ)が失脚すると、為広は出家し、
晩年は懇意にしていた畠山氏(はたけやまし)の能登七尾城に身を寄せ、
1526(大永6)年に77歳でその生涯を閉じました。
寛延の頃(1750年前後)、清水八幡神社のそばにあった
広塚と呼ばれる場所を俳人河合見風らが調査、考証した結果、
冷泉為広の墓であることが明らかになりました。
それを子孫の為村(ためむら)が聞き、
1765(明和2)年11月28日に、
加賀八家(かがはっか)前田土佐守直躬(まえだ・とさのかみなおみ)や
見風とともに石碑を建立しました。
当時の清水八幡宮(清水八幡神社)に隣接してあった塚のそばには、
五層石塔や塔守屋敷があったと言われ、
当時、里人らは塔屋敷、広塚などと呼び親しんでいたそうです。
◆1963(昭和38)年5月10日 津幡町文化財(史跡)指定
加賀八家:加賀藩の家老で、1686(貞享3)年、5代藩主前田綱紀の時、
藩の職制改革の際に定められた。
江戸時代を通じて世襲し、加賀藩の執政を務めた。』
(※『 』内、津幡町観光協会HPより、原文ママ)
トップページの「文化財・観光」と書かれたバナーをクリックすれば、
すぐにアクセス可能。
もしもまだご存じないのなら、一度、アクセスしてみては如何だろうか。
そして、今後は町民参加のページや、定期更新を目指したブログ、
近過去の町の姿を紹介した画像を掲載するなど、更なる充実を望む。
“明治・大正・昭和の津幡”などと題したコーナーがあれば、尚嬉しい!
お忙しい中とは存じますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
m( _ _ )m
これを選んだ理由は、町が管理するWeb版「津幡町観光ガイド」について、
紹介しようと考えたからだ。
先月末・2012年3月28日にリニューアルされたと、
町のHPヘッドラインに掲載してある。
拝見すると、なかなかの充実ぶり。
町内の観光資源について、エリア別、ジャンル別に検索ができ、
年間の主なイベントや、目的別のおすすめコース案内。
観光パンフレット、観光マップのダウンロードも出来る。
機能としては、同種の一般的なサイトと大差はないが、
以前の状態と比べると、紹介の範囲が広がり詳しくなり、使いやすくなった。
例えば、津幡小学校グラウンド敷地内に隣接する2つの記念碑について、
次のような記述が掲載されている。
『かつて津幡城がそびえていた、旧北陸道を見下ろす
標高15メートルの小高い大西山に、
俳人河合見風(かわい・けんぷう)の句碑が建っています。
その隣には、見風自身が尽力した歌人の「為広(ためひろ)塚」も
建っています。
見風は1711(正徳元)年に津幡宿の商家に生まれ、
名前は河合屋理右衛門(かわいや・りうえもん)といいました。
34歳で家業の旅籠(はたご)と米屋 を営み、
居村(いむら)組合頭を勤め、その傍ら、俳諧(はいかい)を学び、
人々から「俳諧の長者」と称えられていました。
また、諸国の俳人と広く文通し、 金沢の並木町に庵室を構え、
加賀八家(かがはっか)前田土佐守直躬(まえだ・とさのかみなおみ)と
親交を持ちました。
見風は倶利伽羅山の猿ヶ馬場(さるがばば)にある芭蕉の句碑
「寝覚塚(ねざめづか)」や越中氷見の「有磯塚(ありそづか)」を建て、
1765(明和2)年には為広の子孫、冷泉為村(れいぜい・ためむら)と
前田土佐守直躬とともに「為広塚」を再建しました。
1783(天明3)年に73歳でその生涯を閉じた見風を偲(しの)んで、
1967(昭和42)年4月に、津幡俳壇によって句碑が建てられました。
句碑には「はつなすび それから花の さかりかな 見風」が
刻まれています。
見風の屋敷はかつての津幡宿だったおやど橋の近くにありましたが、
その屋敷跡には現在、酒井家所蔵の「長寿庵」が建っています。
加賀八家:加賀藩の家老で、1686(貞享3)年、
5代藩主前田綱紀の時、藩の職制改革の際に定められた。
江戸時代を通じて世襲し、加賀藩の執政を務めた。』
『旧北陸道を見下ろす津幡城跡に建つ
河合見風(かわい・けんぷう)句碑の隣に、
為広(ためひろ)塚が建っています。
為広塚は元々、津幡城跡の東麓にある清水八幡神社境内に
隣接してありましたが、
1963(昭和43)年に周囲の環境変化により現在地に移転されました。
為広塚は、入道前大納言贈一品冷泉
(にゅうどうさきのだいなごん・ぞういっぽん・れいぜい)為広卿の塚です。
為広は京都冷泉家(藤原道長の6男長家に始まり、
平安時代末期から鎌倉時代の代表的歌人俊成、
定家を先祖に持つ和歌の名門)5代為冨卿の長男として生まれ、
義竹軒(ぎちくけん)と号し、定家流(ていかりゅう)の書で知られています。
当時、京都では細川氏が勢力を伸ばし、1508(永正5)年に
将軍足利義澄(あしかが・よしずみ)が失脚すると、為広は出家し、
晩年は懇意にしていた畠山氏(はたけやまし)の能登七尾城に身を寄せ、
1526(大永6)年に77歳でその生涯を閉じました。
寛延の頃(1750年前後)、清水八幡神社のそばにあった
広塚と呼ばれる場所を俳人河合見風らが調査、考証した結果、
冷泉為広の墓であることが明らかになりました。
それを子孫の為村(ためむら)が聞き、
1765(明和2)年11月28日に、
加賀八家(かがはっか)前田土佐守直躬(まえだ・とさのかみなおみ)や
見風とともに石碑を建立しました。
当時の清水八幡宮(清水八幡神社)に隣接してあった塚のそばには、
五層石塔や塔守屋敷があったと言われ、
当時、里人らは塔屋敷、広塚などと呼び親しんでいたそうです。
◆1963(昭和38)年5月10日 津幡町文化財(史跡)指定
加賀八家:加賀藩の家老で、1686(貞享3)年、5代藩主前田綱紀の時、
藩の職制改革の際に定められた。
江戸時代を通じて世襲し、加賀藩の執政を務めた。』
(※『 』内、津幡町観光協会HPより、原文ママ)
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もしもまだご存じないのなら、一度、アクセスしてみては如何だろうか。
そして、今後は町民参加のページや、定期更新を目指したブログ、
近過去の町の姿を紹介した画像を掲載するなど、更なる充実を望む。
“明治・大正・昭和の津幡”などと題したコーナーがあれば、尚嬉しい!
お忙しい中とは存じますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
m( _ _ )m