つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡町から中越へ。~春雨と深淵~

2012年04月02日 21時55分06秒 | 旅行
今回は、先日出かけた中越への日帰りドライブ旅行を投稿。
事実上、年度替わりを迎えて仕事の作業も終了した3月末、
久方ぶりの週末休日となり、以前から思い描いていた日帰り旅を敢行した。
津幡町から、新潟県・長岡市へと車を走らせる。
朝、冷たい雨を突き、北陸自動車道を北上しはじめると、
ワイパーの間隙をついてフロントガラスの向こうには「冒頭の一枚」…
雪を頂く立山連峰が出迎えてくれた。

富山と新潟の境を超え、20数本のトンネルを抜けて上越へ。
関越自動車道に入って最初のインターチェンジが、長岡市への下り口。
国道8号線を市街地へ向けてJR長岡駅方面走れば、目的地に到着。
所要時間はおよそ2時間半。
走行距離250キロ余りの道のり。
長岡には、まだ相当量の雪が残っていた。



…さて、訪問の理由の第一は「山本五十六記念館」である。
ご存じの方も多いだろうが、「「山本五十六」は、
昭和十六年(1941年)の太平洋戦争開戦時に海軍連合司令長官を務め、
航空機動部隊によるハワイ真珠湾への奇襲作戦を立案・指揮した人物だ。
戦前、アメリカ大使館付き武官としてワシントンへ赴任し、
アメリカに精通した事情通。
日独伊三国軍事同盟に異を唱え、和平を主張した対米戦反対派の急先鋒。
しかし思い叶わず、大国との戦端を開いた当時の地位は現場の最高責任者。
苛酷な運命に導かれ、昭和十八年(1943年)、南方で銃弾に倒れた。
そんな御仁の出身地が長岡市なのである。

        

到着した記念館の外観は民家を改装したような造りながら、
内部は意外と広く、遺品の数々が展示されていた。
残念ながら館内は写真撮影禁止との事。
購入した絵葉書を撮影した写真を掲載して代用したい。

        

壁際に、直筆の書画、日記、手紙、愛用のトランプや聖書、
折々の写真や肖像画などが陳列されている。
書簡からは、儒学者の家系に生まれた質実剛健な気質と、
広く知識を求める教養の高さが垣間見えた。

写真中央、ロープに囲まれた中に展示されているのは、
撃墜された時の搭乗機・一式陸上攻撃機の左翼の一部。
1989年(平成元年)、
殉職の地パプア・ニューギニアから帰還したのを機に、
10年をかけて寄付を集め、記念館が設立されたのだそうである。

        

半世紀近くジャングルの奥に眠っていたため、
錆が浮いたジュラルミンには、それでもクッキリと日の丸が残っていた。

続いて訪れたのは、長岡駅に程近い「長岡戦災資料館」。
ここは、太平洋戦争時に起こった「長岡空襲」の惨状と、
戦時中の市民の暮らしを後世に伝える目的で設立された。
空襲の様子については、長岡市HPの記述を転載する。

『昭和20年(1945)7月20日、
 左近地内に1発の爆弾が投下されました。
 長岡に投下された初めての爆弾でした。
 その11日後、8月1日の午後9時6分、
 長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。
 続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、
 直後の10時30分にB29による焼夷弾爆撃が始まりました。
 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。
 すきまなく徹底的に攻撃するじゅうたん爆撃によって、
 長岡のまちは瞬く間に炎に包まれていきました。
 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。
 多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。
 1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、
 1,480人の尊い生命が失われました。
 投下されたM69集束焼夷弾は925トン、
 163,000発余りの焼夷弾子弾が
 文字どおり豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。
 当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほど
 すさまじい空襲でした。』
            (※長岡市HP「長岡空襲」についてより、原文ママ)

こちらの館内は写真撮影OKとの事。
展示物の一部を掲載する。


<真珠湾への奇襲攻撃を告げるアメリカの新聞>


<金属供出を促すビラ>


<使われなかった昭和二十一年度の志願兵募集ポスター(複製)>


<戦時中のお茶の間の様子>


<M69集束焼夷弾の模型>


<M69集束焼夷弾から放たれ、街を焼き尽くした焼夷弾子弾の模型>

先の空襲時の様子を伝える文章に書かれているが、
「焼夷弾」は文字通り街を“焼き払った”。
第二大戦中、日本の木造家屋を
効率よく焼き払うために開発された兵器である。
親爆弾を投下後、上空700m程度で48発の子弾へ分離し、
地上へ一斉に降り注ぐ。
子弾は落下速度が速すぎると地中へ埋まる可能性があるため、
空気抵抗を高めてバランスを保つ目的でリボンが付いている。
そして、着弾すると信管が作動し、中に詰められたナパームへ点火。
噴射した一千度を超える炎は、壁や屋根、畳に衣服に至るまで
容赦なく取り付いて火炎地獄を創り上げるのだ。

幸い、津幡町をはじめ、石川県はひどい空襲に遭っていない。
しかし、北信越では富山・福井・長岡が手ひどい被害を受けた。
(※2010年8月15日の投稿に関連記載アリ)

…改めて、戦争は悲劇だと強く思う。
誰かに手を下す誰かは、決して根っからの悪人ではないはず。
個々に見ればごく普通の人が、人の所業とは思えない残酷を生む。
人間は、何かの命を犠牲にしなければ生きてゆけない生き物だが、
必要以上に奪ってはならない。殺してはならない。

「山本五十六記念館」については、公式HPに詳しい。
「長岡空襲」についても様々な記述がある。
キーワード検索すればすぐに見つかるから、興味のある方はご覧いただき、
機会があれば現地へ足を運んでみてはいかがだろうか。
コメント
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