今回は、先日出かけた中越への日帰りドライブ旅行を投稿。
事実上、年度替わりを迎えて仕事の作業も終了した3月末、
久方ぶりの週末休日となり、以前から思い描いていた日帰り旅を敢行した。
津幡町から、新潟県・長岡市へと車を走らせる。
朝、冷たい雨を突き、北陸自動車道を北上しはじめると、
ワイパーの間隙をついてフロントガラスの向こうには「冒頭の一枚」…
雪を頂く立山連峰が出迎えてくれた。
富山と新潟の境を超え、20数本のトンネルを抜けて上越へ。
関越自動車道に入って最初のインターチェンジが、長岡市への下り口。
国道8号線を市街地へ向けてJR長岡駅方面走れば、目的地に到着。
所要時間はおよそ2時間半。
走行距離250キロ余りの道のり。
長岡には、まだ相当量の雪が残っていた。
…さて、訪問の理由の第一は「山本五十六記念館」である。
ご存じの方も多いだろうが、「「山本五十六」は、
昭和十六年(1941年)の太平洋戦争開戦時に海軍連合司令長官を務め、
航空機動部隊によるハワイ真珠湾への奇襲作戦を立案・指揮した人物だ。
戦前、アメリカ大使館付き武官としてワシントンへ赴任し、
アメリカに精通した事情通。
日独伊三国軍事同盟に異を唱え、和平を主張した対米戦反対派の急先鋒。
しかし思い叶わず、大国との戦端を開いた当時の地位は現場の最高責任者。
苛酷な運命に導かれ、昭和十八年(1943年)、南方で銃弾に倒れた。
そんな御仁の出身地が長岡市なのである。
到着した記念館の外観は民家を改装したような造りながら、
内部は意外と広く、遺品の数々が展示されていた。
残念ながら館内は写真撮影禁止との事。
購入した絵葉書を撮影した写真を掲載して代用したい。
壁際に、直筆の書画、日記、手紙、愛用のトランプや聖書、
折々の写真や肖像画などが陳列されている。
書簡からは、儒学者の家系に生まれた質実剛健な気質と、
広く知識を求める教養の高さが垣間見えた。
写真中央、ロープに囲まれた中に展示されているのは、
撃墜された時の搭乗機・一式陸上攻撃機の左翼の一部。
1989年(平成元年)、
殉職の地パプア・ニューギニアから帰還したのを機に、
10年をかけて寄付を集め、記念館が設立されたのだそうである。
半世紀近くジャングルの奥に眠っていたため、
錆が浮いたジュラルミンには、それでもクッキリと日の丸が残っていた。
続いて訪れたのは、長岡駅に程近い「長岡戦災資料館」。
ここは、太平洋戦争時に起こった「長岡空襲」の惨状と、
戦時中の市民の暮らしを後世に伝える目的で設立された。
空襲の様子については、長岡市HPの記述を転載する。
『昭和20年(1945)7月20日、
左近地内に1発の爆弾が投下されました。
長岡に投下された初めての爆弾でした。
その11日後、8月1日の午後9時6分、
長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。
続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、
直後の10時30分にB29による焼夷弾爆撃が始まりました。
B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。
すきまなく徹底的に攻撃するじゅうたん爆撃によって、
長岡のまちは瞬く間に炎に包まれていきました。
猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。
多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。
1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、
1,480人の尊い生命が失われました。
投下されたM69集束焼夷弾は925トン、
163,000発余りの焼夷弾子弾が
文字どおり豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。
当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほど
すさまじい空襲でした。』
(※長岡市HP「長岡空襲」についてより、原文ママ)
こちらの館内は写真撮影OKとの事。
展示物の一部を掲載する。
<真珠湾への奇襲攻撃を告げるアメリカの新聞>
<金属供出を促すビラ>
<使われなかった昭和二十一年度の志願兵募集ポスター(複製)>
<戦時中のお茶の間の様子>
<M69集束焼夷弾の模型>
<M69集束焼夷弾から放たれ、街を焼き尽くした焼夷弾子弾の模型>
先の空襲時の様子を伝える文章に書かれているが、
「焼夷弾」は文字通り街を“焼き払った”。
第二大戦中、日本の木造家屋を
効率よく焼き払うために開発された兵器である。
親爆弾を投下後、上空700m程度で48発の子弾へ分離し、
地上へ一斉に降り注ぐ。
子弾は落下速度が速すぎると地中へ埋まる可能性があるため、
空気抵抗を高めてバランスを保つ目的でリボンが付いている。
そして、着弾すると信管が作動し、中に詰められたナパームへ点火。
噴射した一千度を超える炎は、壁や屋根、畳に衣服に至るまで
容赦なく取り付いて火炎地獄を創り上げるのだ。
幸い、津幡町をはじめ、石川県はひどい空襲に遭っていない。
しかし、北信越では富山・福井・長岡が手ひどい被害を受けた。
(※2010年8月15日の投稿に関連記載アリ)
…改めて、戦争は悲劇だと強く思う。
誰かに手を下す誰かは、決して根っからの悪人ではないはず。
個々に見ればごく普通の人が、人の所業とは思えない残酷を生む。
人間は、何かの命を犠牲にしなければ生きてゆけない生き物だが、
必要以上に奪ってはならない。殺してはならない。
「山本五十六記念館」については、公式HPに詳しい。
「長岡空襲」についても様々な記述がある。
キーワード検索すればすぐに見つかるから、興味のある方はご覧いただき、
機会があれば現地へ足を運んでみてはいかがだろうか。
事実上、年度替わりを迎えて仕事の作業も終了した3月末、
久方ぶりの週末休日となり、以前から思い描いていた日帰り旅を敢行した。
津幡町から、新潟県・長岡市へと車を走らせる。
朝、冷たい雨を突き、北陸自動車道を北上しはじめると、
ワイパーの間隙をついてフロントガラスの向こうには「冒頭の一枚」…
雪を頂く立山連峰が出迎えてくれた。
富山と新潟の境を超え、20数本のトンネルを抜けて上越へ。
関越自動車道に入って最初のインターチェンジが、長岡市への下り口。
国道8号線を市街地へ向けてJR長岡駅方面走れば、目的地に到着。
所要時間はおよそ2時間半。
走行距離250キロ余りの道のり。
長岡には、まだ相当量の雪が残っていた。
…さて、訪問の理由の第一は「山本五十六記念館」である。
ご存じの方も多いだろうが、「「山本五十六」は、
昭和十六年(1941年)の太平洋戦争開戦時に海軍連合司令長官を務め、
航空機動部隊によるハワイ真珠湾への奇襲作戦を立案・指揮した人物だ。
戦前、アメリカ大使館付き武官としてワシントンへ赴任し、
アメリカに精通した事情通。
日独伊三国軍事同盟に異を唱え、和平を主張した対米戦反対派の急先鋒。
しかし思い叶わず、大国との戦端を開いた当時の地位は現場の最高責任者。
苛酷な運命に導かれ、昭和十八年(1943年)、南方で銃弾に倒れた。
そんな御仁の出身地が長岡市なのである。
到着した記念館の外観は民家を改装したような造りながら、
内部は意外と広く、遺品の数々が展示されていた。
残念ながら館内は写真撮影禁止との事。
購入した絵葉書を撮影した写真を掲載して代用したい。
壁際に、直筆の書画、日記、手紙、愛用のトランプや聖書、
折々の写真や肖像画などが陳列されている。
書簡からは、儒学者の家系に生まれた質実剛健な気質と、
広く知識を求める教養の高さが垣間見えた。
写真中央、ロープに囲まれた中に展示されているのは、
撃墜された時の搭乗機・一式陸上攻撃機の左翼の一部。
1989年(平成元年)、
殉職の地パプア・ニューギニアから帰還したのを機に、
10年をかけて寄付を集め、記念館が設立されたのだそうである。
半世紀近くジャングルの奥に眠っていたため、
錆が浮いたジュラルミンには、それでもクッキリと日の丸が残っていた。
続いて訪れたのは、長岡駅に程近い「長岡戦災資料館」。
ここは、太平洋戦争時に起こった「長岡空襲」の惨状と、
戦時中の市民の暮らしを後世に伝える目的で設立された。
空襲の様子については、長岡市HPの記述を転載する。
『昭和20年(1945)7月20日、
左近地内に1発の爆弾が投下されました。
長岡に投下された初めての爆弾でした。
その11日後、8月1日の午後9時6分、
長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。
続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、
直後の10時30分にB29による焼夷弾爆撃が始まりました。
B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。
すきまなく徹底的に攻撃するじゅうたん爆撃によって、
長岡のまちは瞬く間に炎に包まれていきました。
猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。
多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。
1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、
1,480人の尊い生命が失われました。
投下されたM69集束焼夷弾は925トン、
163,000発余りの焼夷弾子弾が
文字どおり豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。
当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほど
すさまじい空襲でした。』
(※長岡市HP「長岡空襲」についてより、原文ママ)
こちらの館内は写真撮影OKとの事。
展示物の一部を掲載する。
<真珠湾への奇襲攻撃を告げるアメリカの新聞>
<金属供出を促すビラ>
<使われなかった昭和二十一年度の志願兵募集ポスター(複製)>
<戦時中のお茶の間の様子>
<M69集束焼夷弾の模型>
<M69集束焼夷弾から放たれ、街を焼き尽くした焼夷弾子弾の模型>
先の空襲時の様子を伝える文章に書かれているが、
「焼夷弾」は文字通り街を“焼き払った”。
第二大戦中、日本の木造家屋を
効率よく焼き払うために開発された兵器である。
親爆弾を投下後、上空700m程度で48発の子弾へ分離し、
地上へ一斉に降り注ぐ。
子弾は落下速度が速すぎると地中へ埋まる可能性があるため、
空気抵抗を高めてバランスを保つ目的でリボンが付いている。
そして、着弾すると信管が作動し、中に詰められたナパームへ点火。
噴射した一千度を超える炎は、壁や屋根、畳に衣服に至るまで
容赦なく取り付いて火炎地獄を創り上げるのだ。
幸い、津幡町をはじめ、石川県はひどい空襲に遭っていない。
しかし、北信越では富山・福井・長岡が手ひどい被害を受けた。
(※2010年8月15日の投稿に関連記載アリ)
…改めて、戦争は悲劇だと強く思う。
誰かに手を下す誰かは、決して根っからの悪人ではないはず。
個々に見ればごく普通の人が、人の所業とは思えない残酷を生む。
人間は、何かの命を犠牲にしなければ生きてゆけない生き物だが、
必要以上に奪ってはならない。殺してはならない。
「山本五十六記念館」については、公式HPに詳しい。
「長岡空襲」についても様々な記述がある。
キーワード検索すればすぐに見つかるから、興味のある方はご覧いただき、
機会があれば現地へ足を運んでみてはいかがだろうか。